パソコンの調子がよくない。恐る恐るパソコンに触るという感じで、起動もままならない。ブログもいつまでアップできるかそれさえ怪しい。あまりにもパソコンに振り回される生活は体に良くない。時に、パソコンから目をそらすが、なぜか気になる。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は先日読んだ『峠』(中)(司馬遼太郎 新潮社、平成十九年第十二刷)からの抜粋。
★江戸時代というのは、金銀ふたつながらの本位で、いずれもを尊ぶ。……江戸では「千両役者」という。年俸で金千両をとっているスターのことをそういうのだが、これは銀本位の大坂では通用しない。……また角力(すもう)の世界でもそうである。角力の階級で「十両」という番付がある。年俸を小判で十両とっている者をいうのだが、金小判が本意でない大坂ではこれはいわない。113p
★この幕府のもっとも重要な大名統御の政策を、数年前、幕府自らが捨ててしまったのである。捨てたのは、井伊直弼のあと幕政を担当した改革好きの松平春嶽であった。理由は、「外国の侵略にそなえねばならぬときに、大名を疲弊させるこの法はよくない」というものであり、このため諸大名の家族は江戸を引きあげ、国もとへ帰り、参勤交代も事実上廃止されたのである。119-120p
★攘夷、外国をうちはらうこと。この理念は嘉永六年のペリー来航以来、天下在野の最高の正義であった。幕府当局は列強の威圧で日本の一部の港をひらき、その港を中心に外国貿易をはじめたが、この幕府の態度に対し天下の志士はこぞって反対し、攘夷の気勢をあげた。幕府の屋台骨をゆさぶるような日本史上最大のエネルギーであったといっていい。234p
★「天子は、神である」というのが、日本人の土俗信仰である。日本語でいう「神」というのは「清浄なるもの極致」という意味であり、切支丹の神や、讃岐の金毘羅さんのような仏教神や、天神さんのような、菅原道真の怨霊を祀ったような神とは、成立がちがっている。それらの神は、なんらかの力をもっている。
日本古来の原始神は、ほとんど力をもたない。人に金もうけの運をもたらしてくれないし、人の病気をなおしてくれず、長寿をもたらしてくれるわけでもない。ただ浄げに存在し、ただ人の尊崇をうけるだけである。(そういうものだ)と継之助は理解している。281-282p
★もし戦国の世ならば慶喜とその徳川方は必ずしも負けはしなかったであろう。しかしこの時代は思想の時代であった。つまり尊王である。……であるのに慶喜は朝敵にさせられた。しかも慶喜は尊王思想の総本山ともいうべき水戸家の出身なのである。(逃げよう)と慶喜が思ったのはこのときであろう。慶喜は後世をおそれた。キリスト教ではユダが最大の悪人であるごとく、尊王思想では足利尊氏が最大の悪人であった。慶喜は後世尊氏と並べられることをもっともおそれた。331-332p
★「まあ、おすわり」と、福地は、自分の机のそばに継之助をすわらせた。たれも見たこともない顔つきの男を見とがめる者すらいないのである。
(亡国のおそろしさだ)とおもった。人間関係の秩序などじつにむなしいもので、大政奉還と鳥羽伏見におけるたった一度の敗戦が三百年の城内の秩序を一朝にしてくずしてしまったのである。敵がくずしたのではなく、幕臣みずからがくずしてしまった。383-383p
★自由と権利というものが西洋の先進文明を成り立たせている基礎であり、政治、法律、社会をはじめ、人間の暮らしのうえでの小さなことがらにいたるまでの基礎思想であり、さらには人間を人間たらしめている大本であるkとにm日本人のたれよりも早く気づいたのは福沢諭吉であろう。416-417p
★福沢がひそかに理想としているのは、たとえば項目風にいえば、身分制の撤廃、言論の自由、信仰の自由、職業選択の自由、商工業を営む場合の自由といったものであろう。自由は権利に裏打ちされている。その権利は国家によって保護されている。それを保障し保護するような国家をつくるkとがこの幕府外交方翻訳掛福沢諭吉の理想なのである。(だから討幕も佐幕もない。福沢の眼中、徳川家も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ)420p
★「私は世迷いごとのほうですよ」と、継之助も福沢にいった。継之助にとってもっとも大事なのはその世迷いごとであった。福沢は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてもっとも大事なものとしている。426-427p
★福沢は経済主義こそ人間を幸福にさせる道であると信じ、その経済主義を正義とするたてまえから封建制を否定し、徳川家や諸大名の存在をmう意味であるとし、資本主義こそ文明を開く原動力であるとし、資本主義の前提として自由と権利を強調している。
継之助は、そこまでゆかない。かれは藩という荷物を背負っているがために、福沢のようにひろがりのある思想の広野に出ようとはせず、出たいともおもわなかった。継之助いとって藩という封建の遺物そのものの大荷物は、けっしてにがにがしいもnがしいものではない。
――藩、すべてが藩。
というのが、継之助の思想であった。433p
★「射利」というkとばで、この時代の人々は投機のことをいった。継之助にすれば、西洋の会社のごとく藩そのものが投機事業を営もうとするのdえある。434p
★隊ということばを日本語に加えたのは幕末の長州人である。戦士の組織のことをあらわすふるい日本語である「組」という語をつかわず、未使用の漢語のなかから隊という語をさがしだしてきた。騎兵隊、力士隊、報国隊、なんとか隊というようなものをかというようなものを数多く作った。475p
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