2020年8月11日火曜日

『菜の花の沖』(二)

 梅雨の大雨が過ぎれば連日の真夏日が続く。きちんとした生活をしないとこの夏の暑さに負けそうになる。午前中に一度は歩いてスーパーに出かけるが午後からは暑さを避けて家で本を読むことが多い。今は『菜の花の沖』(四)を読んでいる。図書館の書架を見るとその1巻から3巻までが書架にない。この本を読む人がいると思って4巻目を借りる。とはいってもまだ3巻目も借りている。

 これからお盆の塔婆を受け取りにお寺へ向かう。お墓参りは明日!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 『菜の花の沖』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第10刷)もいつものごとく気になる箇所をメモしよう。

★帆の大小を何反という。千石船なら二十六反帆などというが、この反はもと端の文字をあてた。
 筵一枚の幅を――縦につないだ枚数如何にかかわらず――一端と呼ぶ。
ということを、絵画資料や文献資料のよみ方から発見したのは、和船研究家の石井謙治氏である。ムシロを縦に一列につないだものが一端で、それが横につながれた数をもって何端帆という(帆の長さは関係がない)。26p

★金毘羅さんは、本来、山なのである。象頭山ともいわれる秀麗なすがたの山で、海上を走っている航海者の側からいえば類なく素晴らしい目じるしになる。その山を見て自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。自然、山を崇敬するようになる。40p

★鰹も、干物にされた。この魚肉は干せば硬くなるため、古くは堅魚とよびやがてカツオという音に変化した。後世、生魚を鰹と言い、干したものを鰹干し(鰹節)とよんで分けたが、上代では二義が一語で済まされていて、カツオといっただけですでに干したものを指した。100p

★嘉兵衛は材木を筏にして太平洋に浮かばせるときいたとき、とっさに(死ぬような目に遭ってみよう)と、覚悟した。130p

★「わしらは、武士ではない」嘉兵衛は、嘉蔵らに口ぐせのようにいってきた。かれがいう場合、武士とは、有閑階級をさす。あるいは空論の徒をさし、賄賂(まいない)役人という意味もふくみ、また責任のがれしか考えていない身分渡世者をさす。140p

★希望といえば、頭の中では持っていた。
 この船に乗ってはるか兵庫まで帰るというだけでなく――ひとがきけば気が狂ったかと思うかもしれないが――この船によって日本海を乗り切り、蝦夷地までゆきたいということであった。207p

★船乗りは水という言葉を忌んでいる。仏事の場合、仏に供える水を閼伽(あか)というが、「水」を忌み、仏事の言葉を借用し、船底の溜まり水のことをあか、といい、ふつう淦という国字をあてる。228p

★徳というのは、本来の意味でいえば、儒教の徳目である仁儀礼智信を総称するものであろう。235p

★「トクをする」という言葉は、室町期以来の徳の誤用がそのまま生きているといっていい。トクは得の文字より徳の文字をあてるべきであろう。236p

★宇竜は『出雲風土記』に宇礼保と書かれているから、竜をリュウという俗音でよまず、リョウという漢音でよむのが正しいらしい。245p

★この時代の日本社会の上下をつらぬいている精神は、意地悪というものであった。
 上の者が新入りの下の者を陰湿にいじめるという抜きがたい文化は、たとえば人種的に似た民族である中国にはあまりなさそうで、「意地悪・いじめる・いびる」といった漢字・漢語も存在しないようである。249p

★嘉兵衛は都志新在家の若衆宿でいじめぬかれてきただけに、炊(かしき)にこの種のそぶりを見せる者に対してゆるせず、時に血相を変えて叱った。「みな、人ぞ」というのが、こういう場合の嘉兵衛の一つせりふであった。人は世にうまれて愉快に暮らしてゆくべきなのに、人が人に対して鬼になるのはゆるせぬ、というのである。250p

★……「艫を廻す」という。……――口さきばかりでは艫は廻らんぞ。という陸(おか)の言葉がうまれた。転じて、あまりうまく艫をまわすのを、悪達者、小ざかしい、という人格批評のことばになった。――あいつは艫廻しのうまいやつで、ゆだんがならぬ。などという。嘉兵衛のこの時代は、大船は櫨櫂(ろかい)をもたず、風帆のみでうごくために、艫を廻すのは附舟のしごとだった。嘉兵衛たちは、船上で見ていればいい。275p

★江戸期には浦請けとよばれる税制をもつ大名もあって、漁獲高から一定の率で納税させたりもしたが、海産物などたかが知れていた。このことで在所(農村)が浦方(漁村)を馬鹿にするふうがうまれ、いまも意識のどこかに根づよくのこっている地方もある。422p(あとがき)

★普遍性の高い文化の形成には、もっと多種類の文化――たとえば牧畜民や狩猟性の文化、さらには古代の商業に従事するひとびとの文化――が混在したほうがいいと思うが、弥生式農耕の渡来以後、日本文化にあっては、大きくわけて在と浦の二種類しかなかった。426p(あとがき)

★その都志村という村社会に、在と浦というたがいに異質な生産文化・風習・儀礼が併立つし、嵌入しあっていたということが、嘉兵衛という人間の成立のためには大きかった。427p(あとがき)

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