2020年5月12日火曜日

『項羽と劉邦』(上)

 『項羽と劉邦』は上・中・下の3巻ある。今日中には3巻目を読み終えそうだ。天下をおさめるものは人民に「食」を与えねばならない。そのために版図を広げる略奪がおこる。これが天下人の地位の奪い合いになり、これにそむくものは死へと追いやられる。死に至らしめるやり方はこの3巻の本を読んでいるとあちこちで見られる。読んでいる途中、その方法を付箋紙に張るとその残酷さがわかる。

 コロナ禍で感染者を減らすために事業を自粛する要請が出される。それに伴い、コロナ禍でなくなる人よりも自粛要請で事業不振に陥り、それによる自殺者が多く出ることも考えられると大阪の府知事は話す。自殺者は生活苦が原因、もある。生活苦はこの本の時代からすると「食」がないのと同じかもしれない。人が生きていくうえで最も大切な食べるということ。いつの時代も人民は食べ物を与えてくれる政策者についていったに違いない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『項羽と劉邦』(上)(司馬 遼太郎 新潮社、昭和63年19刷)から気になる箇所の抜粋。

★秦がもつ統制主義と生産力と兵器の優越が、この国をして六国(素、斉、燕、韓、魏、趙)を凌がせ、秦王政にいたり、やがて六国をほろぼして、奇跡としか言いようのない大陸の統一を遂げさせた。……元来、旧六国の遺民たちは秦を野蛮国と見、漢民族の血液が薄いと見て軽蔑していた。軽蔑されてきた国の王が皇帝になったところで、劉邦や項羽ならずとも神聖視しなかった。
 始皇帝にもそのことがわかっている。だからこそ人民どもの肝をとりひしぐような巨大な建造物を各地で造営し、また行列をつらねて、皇帝としての自分の顔を見せてまわる必要があった。しかし、顔をみせてまわることは、かえって効果が逆になった。劉邦や項羽のような手合いの野望を刺激し、挑発してまわるという奇妙なはめになった。13-14p

★趙高は、始皇帝とともに、宮廷の中を日夜転々とした。……
(この男のいのちは、自分だけが握っている)
……ちょうど掌の中に黄色くやわらかいひな鳥のいのちでも握っているような感覚で、そう思うようになった。……殺そうと思えばいつでも殺せる、というえたいの知れぬたかぶりが張高の身のうちで成長しはじめた。18p

★法に明るい趙高は、ひとりひとりについて罪状をつくりあげ、法に照らして処断した。36p

★秦帝国が事実上自壊するのは、咸陽の市場の乾いた土の上に李斯の首がころがったときであったといっていい。38p

★三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん。項羽はその楚人である。45p

★この叔父(高梁)とおい(項羽)が最後に腰を落ちつけたのは、呉中(いまの蘇州)の町である。呉中は春秋の呉国の旧都で、呉国がほろんでからも、単に「呉」といえばこの都市のことを指した。はるかな後世、この呉の発音が漢籍や経典とともに東方の朝鮮南部や日本に伝わって呉音となり、また絹織物をつくるこの土地の方式も伝わって呉服と呼ばれたりした。52p

★中国にあっては、王朝やその出先の地方長官が人民に利益をもたらすという例は秦以後もほtんどなく。人民としては、匪賊同様、これも虎狼のたぐいと見、できるだけその害をすくなく逃れることのみを考えてきたし、でなければ暮らしも命も、保(も)ってゆかない。
 「高梁様」というのは、この虎狼の害をふせぐ守護神のようになってきた。守護神はいるも項羽という馬鹿力の大男を護衛につれている。56p

★この大陸の社会では、徳が重視される。徳ある者が人を魅(ひ)きつけ、ひとびとに推しあげられ、ときに神の代用物のように信仰されて、結局は勢力をなす。……徳者といえば簫何自身のほうがそうであろう。が、劉邦にあって簫何にないものは、可愛気だった。114-115p

★国号というのは、たとえば、夏、殷、周、あるいは趙、魏、楚、さらには秦といったように、一字であるのが普通である。二字というのは、漢民族の正統の国ではなく、周辺の蛮国が、中国に遠慮して――あるいは中国側が勝手に文字を選んで――つける場合が多かった。後代の朝鮮、吐蕃、南詔、あるいは月氏、烏桓、大食などというのもそうであろう。184p

★流民のめざすところは、理想でも思想でもなく、食であった。……親分――英雄――は流民に食を保証することによって成立し、食を保証できないものは流民に殺されるか、身一つで逃亡せざるをえない。食は略奪によって得る。197p

★阬(あなうめ)がいつごろがはじまりであるのか、よくわからない。上代は殉死者を生きながらに阬にしたということはあったが、刑罰としてこれをやったのは、すくなくとも記録の上では始皇帝が最初であった。儒教の学者四百六十余人を咸陽の郊外につれて行って、阬にした。……項羽がやった理由は、始皇帝のように刑罰ではなかった。生かしておけばせっかく襄城において獲(え)た穀物をかれらも食う、というだけが、かれにとっての理由であった。259p

★劉邦が理解した問題の本質とは、要するに何でもない。秦が強いということである。……次いでいえることは、秦の一大野戦軍を指揮している章邯(しょうかん)という男が途方もない名将だということである。292p

★項羽は、つねにありきたりの騎士のような軍装で馬上にゆられていた。それだけで十分だったのは、ひとつにかれ自身の肉体の雄偉さが、いかなる車駕や美服を用いるよりも、士卒の心を打ったからである。354p

★胡亥をたれよりも容易に殺せる位置に趙高はいる。……楚軍がなだれを打って函谷関の内側に入る日、趙高はただちにクーデタをおこして二世皇帝を殺し、その首を楚の将軍に捧げることによって新帝国の地位を得たい。この関中をめざしつつある楚の別働軍の総帥が劉邦という男であることを趙高は知っていた。383p

★殷の時代、権力者の大墓は、必要があれば入り口を開く仕掛になっていたらしい。既有の墓においても、御供物をそなえるようにつぎつぎに殉葬者を阬しては、地下をにぎやかにしていくかたちがとられた。いずれにしても、殷の墓のように人間が大量に阬されているというのは、地球上の他の古代世界には例を見ない。399p

★大虐殺(ジェノサイド)は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者側に恐慌(パニック)をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾な方法は、世界史上、この事件以外に例がない。406-407p

★秦が亡んでのちも、関中は通称、地域呼称として秦とよばれた。関中には秦兵二十余万人の父兄が充満していた。彼らは項羽と章邯それに欣と翳(えい)を憎むこと甚だしく、そのぶんだけ項羽の対抗者である劉邦の人気を大きくしている、と韓心は説くのである。
「沛公(劉邦)は、なんとご運のよいことか」と、韓心はいった。408p

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