『空海の風景(下)』(司馬遼太郎 中央公論社、2006年再版)を読んだ。気になる箇所を記そう。王羲之と顔真卿の件がある。顔真卿については知らずにいた。ところが、昨年だったか某会で集ったとき、会場ロビーで顔真卿が話題になる。全く知らない人だったが、居合わせた人からスマホで顔の書を見せてもらい、名前を覚えた。『空海の風景』に顔真卿の名がある。「あの時、話題になった人だ」、と思いながら読んだ。もう忘れらない人になった。
最後にメモった「私が密教というものの断片を見た最初は、十三詣りのときである。私は嬰児のとき虚弱だったので、身内の誰かが大和の大峰山に願をかけてしまい、十三になったらお礼参りにゆかせる、と約束してしまった。そのため中学一年生の夏休みのとき、兵隊帰りの叔父につれられて吉野の奥の大峰山上に登った」。(372p)と司馬は書いている。
自分自身も体が弱かったために、小さいころ「願かけ」をした、と親から聞かされて育った。大きくなるにつれて病とは無縁になっているが、そのお礼参りをしたかどうか今となってはわからない。というか、願かけも覚えていない。「苦しいときの神頼み」で親がそうしたのだろう。願かけの話をするときの親はそれはもう不思議な顔をして病が治った、と話してくれた。その場所がお大師さんだったのだろうか、「お大師さんはありがたいんよ」と話していた。お大師さんこそが弘法大師空海だ。幼稚園に入る時点で人より1年遅れだった。そのまま大した病気もせずストレートに学校に進んだ。ただ、小学校に上がる時点で1年遅らす照明書が必要だったらしく、住んでいる町でなく遠くの町の医者に行って照明してもらったと聞いている。
この話を願真卿を知った某会の人に話すと私を入れて3人が1年遅れの小学校入学だった。戦後すぐの生まれは体が弱かった人が多かったのかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下はいつものごとく気になる箇所の抜粋から。
★般若三蔵は自分が訳した経典類を空海の前に運んできて、「これをお前に贈る。帰国するとき持って帰ってくれ」といった。……経典をその訳者そのひとから貰ったというのは、空海の歴史的な幸運といってよく、かれ自身もこの種の運のよさに、おそらく、この時期あたりから、神秘的な思いを持つまでになっていたにちがいない。10p
★空海は、インド・中国をふくめた密教発達史上、きわめて得がたい機会に長安に入り、恵果に会ったということになる。……恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。12p
★これが六月の灌頂のときであったが、七月の灌頂のときも、空海の花は大日如来の上に落ちた。八月の伝法灌頂では投花の儀式はなかったから、恵果はこの重なる宿縁を奇とし、空海に対し、「遍照金剛」という号をあたえた。遍照金剛とは大日如来の密号で、金剛とはその本体が永遠不壊であることを言い、遍照とは光明があまねく照らすことを指す。18p
★+天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は、沙金もずいぶん多く持たされてゆき、国家としての信物も多く持たされていた。……その点からいえば、留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。……空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。……空海は日本国から義務を負わせられず、経費を与えられずして、「密教」を「請益」してしまったのである。……空海は、極端にいえば、私費で、そして自力で、密一条を導入した。25-26p
★青竜寺東塔で葬儀がおこなわれ、翌日、道俗の弟子千余人が恵果の棺に従い、長安の東郊孟村というところに埋葬し、どう時に碑が建てられた。……空海の撰および書である。……特に空海がえらばれたのは、かれの文章と書芸の評判が、いかにやかましいいものであったかが想像できる。41p
★この最澄の孝雄山寺における勅命灌頂が、日本の密教史上、最初の灌頂になった。……天皇は最澄こそ密教の最高者であるという証明書(伝法公験)まで、わざわざ治部省から発行させたのである。72-73p
★いかに精妙にしたとはいえ、その一つ一つが孤立していれば、それらは単なる魔術、呪文、マジナイにすぎず、それが空海の時代の密教用語でいえば雑密というものであった。……最澄の不覚は、雑密をひろってしまったことである。97p
★空海は東大寺のなかに真言院をたて、東大寺の本堂である毘盧遮那仏(大仏)の宝前で、密教の重要経典である理趣経を誦むべく規定し、こんにちにいたるまで東大寺の大仏殿で毎日あげられているお経は理趣経なのである。109-110p
★高雄山寺にいる空海は、この薬子の事件を大きく評価した。大きく評価することで、空海はこの国において密教勢力を飛躍せしめる契機にしようとした。181p
★嵯峨と空海には、すでにこういう文雅の友としての交渉がかさなってしまっている。その上、嵯峨にとっての空海は詩文という軟質なものの存在だけでなく、国家鎮護のためのエネルギーという硬質なものをもつ存在であった。そのことは薬子の乱のあとの大修法の宣言において嵯峨は十分に理解させられた。嵯峨は、そのふたつの面から空海を必要としはじめたのである。204p
★灌頂には、三つの区別がある。結縁灌頂、受明灌頂、そして伝法灌頂である。……最澄があれだけ奔走してようやくおおぜいと一緒に受けたのは、どうやらこの結縁灌頂のようであった。228p
★王義士が空海の時代にとってはるかな過去の人であるのに対し、顔真卿(七〇九―七八五)は空海が入唐する二十年前に生涯を終えたひとである。……願氏は数代にわたって能書家がつづいた家で、真卿にいたり、かれは書の姿態の美しさを追いがちな王羲之流に反撥してあたらしい書風をひらいた。その剛健な書風には北魏の影響がつよいところから、正統の王羲之流をわざわざ南帖流といい、べつに北方人でもない顔真卿の書風を北魏流とよぶほどに、両者は対蹠的である。305-306p
★嵯峨は若いながらもこの時代の貴族文化に圧倒的な影響力をもっていただけに、空海はまず嵯峨の書芸に顔法を混入させようとした――露骨な意識はなかったにせよ――と考えられなくはない。308p
★『寛平御記』によれば、嵯峨は東の三門と西の三門をうけもった。空海は南の三門と応天門をうけもち、橘の逸勢は北の三門をうけもった。この三人がのちに三筆とよばれるなったのは、この諸門の額の揮毫を三人でやったからであろう。315p
★空海の書は霊気を宿すといわれる。……空海の書にもし霊気があるとすれば、それだけは空海の本体なのであろう。319p
★空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承されてきて、こんにちもなお高野山の奥の院の廟所の下の石室において定にあることを続け、黙然とすわっていると信ぜられているし、すくなくとも表面立ってこれを否定する空気は、二十世紀になっても、高野山にはない。346p
★仏教によれば人間の肉体は五蘊という元素のあつまりであって、ここで仮に言うならば、薪というも同じである。われわれ人間は、薪として存在している。もえている状態が生命であり、火滅すれば灰にすぎない。空海の生身は、まことに薪尽き火滅した。370p
★私が密教というものの断片を見た最初は、十三詣りのときである。私は嬰児のとき虚弱だtったので、身内の誰かが大和の大峰山に願をかけてしまい、十三になったらお礼参りにゆかせる、と約束してしまった。そのため中学一年生の夏休みのとき、兵隊帰りの叔父につれられて吉野の奥の大峰山上に登った。372p
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