2020年8月27日木曜日

『菜の花の沖』(四)

  今日の最高気温の予報は34度。午前8時の気温は29度、と朝から暑い。。この先の予報ではまだしばらく34,5度の日々が続く。今朝体重を測ったら減っている。年を取って痩せるのはよくないと聞く。快眠、快食、快便と何も問題ないが、この暑さで食べる量が少ないのかもしれない。気を付けよう!

 『菜の花の沖』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版第11刷)を読んだ。以下は気になる箇所をメモしたもの。予約確保の本が2冊あると図書館からメールが入る。今日はこれから図書館へGO~。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「好き」ということを、商人の敵として戒めあった。「好き」は物好みのことなのである。物好みが激しくなると、精神の平衡を欠き、ついには現実に対する目をうしなう。その危険を知りながらも、あるいは十分にわきまえた上で、美的世界に遊ぶという精神現象を、述語として「数寄」(すき、数奇)とよんだ。16p

★「地頭」(じとう)という古い日本語は、「泣く子と地頭には勝てぬ」などという諺があるように、嘉兵衛の時代でも生きてつかわれている。諸大名も地頭なら、幕府もその直轄領にあっては地頭であった。地頭というのは本来、とるばかりで、出すということが、例外であるにせよ、基本思想としてあるはずがなかった。なるほど蝦夷地担当の幕臣たちは、嘉兵衛をして、かれの武士についての見方を修正させたほどの理想を持つひとびとであったが彼らの背後にある江戸幕府自体が、結局はとる機関で出す機関ではないのである。20p

★――様似へゆけば、最上徳内様にお会いできる。というのが、嘉兵衛のこの航海での張りになった。嘉兵衛には、人好きという病といっていいほどの性格があり、特に無欲人か、あるいは物に熱中している人が好きであった。……「夷人」と、幕臣たちは蝦夷人のことをいう。嘉兵衛が蝦夷人を好きなのは、かれらに欲が薄く、どこか山川草木が人の姿を籍(か)りて物をいっているようなところがあるからでった。23-24p

★船を、嘉兵衛にとって未知な様似のような陸(おか)に近づけてゆくときのふるえるような感激は、浮世でせせこましく世をおわるひとびとのわからぬところであろう。「仙吉よ、様似ぞ」と、嘉兵衛は遠眼鏡で陸地のあちこちを見ながら、炊(かしき)の少年をよびとめて言った。……海水をまぜて大釜いっぱいにめしを炊き、それで握りめしをつくってたくさんのもろぶたにならべておくのである。帰船すると、湊の子供たちが、あつまってくるが、海水まじりの握りめしはかれらにふるまう。いつごろから、どういういわれでできた慣習なのであろう。要するに、無事に湊についたという船のよろこびを、神仏に感謝する一方、土地の子供たちに施餓鬼するように白米をふるまう。江戸期は、常時、白米が食えるという土地や身分は限られていた。25-26p

★「蝦夷人も、和人のしごとを学べば、同じになる」と、嘉兵衛はごく単純に、しかし石のようなかたさで信じ込んでいた。蝦夷人が和人化かするということは、蝦夷人にとって果たして幸福かどうかなどという瑣末で晦渋な課題は、嘉兵衛やこの時代の人々の意識水準ではむずかしすぎた。63p

★――広域社会は、未開の状態のまま自然のなかに孤立している狭域社会にともすれば侵入して「領土」とする。あるいは、してもかまわない。という思想が、十六世紀もスペインの非ヨーロッパ世界への膨張以来、その文明のなかの強国群のあいだで、何の思想的抵抗もなく(ときにはそれがキリスト教の使命であるかのような正義意識のもとで)できあがった。日本は、戦国期から徳川初期にかけての南蛮船の出没によってそのことを知った。122p

★アイヌが千島列島に鮭やラッコなどを獲るべく島々に展開したのは、いつの時代であったか、よくわからない。ただ島々の名が、ことごとくアイヌ語であることはたしかである。つまりは、和人やロシア人が千島にやってきたときは、その島々やこの沿海で狩猟・漁業を営む者がアイヌであったことだけはまぎれもない。かれらは領土権を主張しなかった。129p

★嘉兵衛が上陸したエトロフ島は、のちのちまでその領有をめぐり、本来平和な隣国同士であるべき日本とロシアの間で、不穏のやりとりの絶えない島の一つになるのである。嘉兵衛が上陸する前年(寛政十年・一七九八年)に、この島にきた幕臣近藤重蔵・最上徳内らは、七月二十八日、この島の南端のベルタルべ岬のそばの岩で囲まれた小さな入江(蝦夷地名・リコップ)に上陸し、指揮権をもつ幕臣としての近藤の判断をもって一柱の木を削り、それに文字を書き入れ、領土標識を樹てた。「大日本恵登呂府」と、書いた。151p

★蝦夷人――アイヌ―ーにも。古いむかしからそういう習慣があったらしい。こういうあいさつのことを、アイヌは、「ウイマム」とよんでいた。和語の御目見得からきたことばであることは、定説である。……「ウイマム」が存在するかぎり、松前藩が、千島の島々を自分の版図であると信じていたのは当然といっていい。「版図」という漢語は、十六、七世紀以後の、西洋の概念でいう領土とはわずかに輪郭がちがう。……日本の俗語でいえば、縄張りというようなところと近いであろう。対人主義で対地主義ではない。168-170p

★幕府とロシアの間で結ばれたこの一八五四年の日露和親条約が、両国の関係の基礎になった。ロシア側が日本側に提示した条約草案が残っている。その要領は、……この条約では、樺太問題がきまらず、千島列島における両国境界がきまった。

 エトロフ島以下を日本領とし、ウルップ島以北をロシア領とする。175p

★嘉兵衛は武士ではないために観念的な理想論などあまり口にしなかったが、沼島衆をかえりみて、「せめてこの島々の人達に米をもってきて食べさせたい」と、感動のあまり、声をふるわせながらいった。「米」というものは、蝦夷人と和人をへだてている唯一の隔壁なのである。米を作り、あるいは米を租税にとりたて、または米を売買し、平均して米を食っている者が和人とすれば、蝦夷人はそうでないだけのことである。190-191p

★忠敬の身分は、百姓で、稼業は商いにすぎない。日本国の国家としての役人である幕臣からみれば地下の低い卑しい身分の者が、齢五十半ばを過ぎて、日本国の海岸線を測量じ、正確な日本地図を作ろうと思い立つなど、嘉兵衛にすればおどろくべきことであった。(――百姓・町人が)日本国の地図を書くのか、嘉兵衛は、くりかえし思った。317p

★千島列島に対するロシア人と日本人の産業上の価値意識がまったくちがっていた。たとえば、ロシア人は魚には見むきもしなかった。それよりも、ラッコその他の動物の毛皮に固執した。かれらがシベリアを欲したのもその森林に棲む貂(てん)の毛皮が直接の目的であったように、カムチャッカ半島を得てもそのことに変わりがなく、さらに千島列島に南下したのも、その欲望の延長線上にあった。ところが、日本人は、魚を欲した。食用のためというよりも、のちにゴローニンがふしぎな情景でも見るような驚きで指摘したように、木棉栽培のためであった。338-339p

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