2020年7月22日水曜日

『峠』(下)

 昨日の日中から昨夜にかけて、今季一番と思えるほどの暑さだった。あと1週間もすれば梅雨も明けて本格的な暑さになるだろう。年を取るにつれてますます季節に敏感になってゆく。
地植えしたガーベラが咲いた

 以下は以前に読んだ『峠』(下)(司馬遼太郎 新潮社、平成十九年第11刷)の気になる箇所の抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「本朝の土地に住む者、ひとりとして王臣でない者はない」
 これが、この時勢に流行しているあたらしい統一思想であった。現実の日本歴史にあってはそうではない。天子はあくまでもこの国の実権的王者でなく、日本最高の神聖血液の象徴であり、神聖血液の保持者であるがゆえに尊宗され、それがゆえに戦国乱世のときでも天子を倒す者がなかった。実権者でないためにそれが必要でなかったのである。63-64p

★「ただし医者は藪医者でも医者として通るが、絵師には藪というものはないよ」112p

★――輪王寺宮を迎えたてまつる。ということも、企図に含まれていた。この企図は偶然なものでなく、徳川幕府成立当時からのいわば秘密政略のようなものであった。
 幕府の創始者家康は、三代将軍家光によって日光東照宮にまつられ、神号を東照大権現とされた。……天皇家の祖は天照大神であり、徳川将軍家の祖である家康は東照大権現であり、名称を対比させている。135p

★継之助が古今の人物のなかでたれにもまして敬慕していたのは王陽明であった。王陽明は元来が文吏であり、一国の首相でありながら、必要があれば国軍をひきい各地に転戦し、常に勝ち、とうじのいかなる武将よりもすぐれた将軍の能力を発揮した。継之助はそういう王陽明が好きであった。好きである以上、――戦はしてはならんでや。は、絶対的否定のことばではない。――政治的に損である、ということであった。193p

★この殿中の評定は、ながながとつづいた。(ちょうど小田原評定だ)と、継之助はおもった。天正の末年、小田原城にこもる北条氏の重臣たちが、秀吉に降伏すべきかどうかをながながと評定してついに結論を得なかった有名な歴史上の事件のことである。196p

★継之助の演説は、この当時の通例としてほとんど漢文のよみくだしに近い。
「瓦全(がぜん)は、意気ある男子の恥ずるところ」
 という。瓦としてのいのちを全くするというのは意気の男子のとる道ではない、と言い、「よろしく公論を百年の後に俟(ま)って玉砕せんのみ」という。いずれが正しいか、その論議がおちつくのは百年のちでなければならない。298p

★――考えてもみよ。と、継之助はおもう。いまこの大変動期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったらならば、後世はどうなるであろう。
――それが日本男子か。とおもうにちがいない。……さらにまた。人間とは何か、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげく、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。――必要なことだ。と、継之助は考えた。302p

★日本の慣習として、文章というものは漢文もしくは文語体にかぎられてきたが、これが日本の進歩を阻害しているとして「公文書は口語を用いた方がいい」という先覚的な提案をした最初のひとは、前島密である。前島は越後高田藩士で、江戸や京で医学をおさめた。のち明治政府につかえ、わが国郵便制度の創始者になったことは知られているが、かれは慶応二年、徳川慶喜に建白書を書き、右の口語採用の件を上申したが、幕政多端で容れられなかった。392p

★人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教人である。この二つが、幕末人をつくりだしている。幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治期のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものを生み出したことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的でこれを書いた。
 その典型を越後長岡藩の非門閥家老河合継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。433-434p(あとがき)

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