『項羽と劉邦』(中)(司馬遼太郎 新潮社、昭和63年19刷)を読んだ。このなかに「中国はすでに秦漢以前から比類ない大文明を築いた。しかし食人の風があった。とくに飢饉や戦乱にあっては子を易(か)えあって食い、あるいは市に商品として人肉が出た」(80p)の件がある。中国における「食人の風」だ。これは桑原隲蔵(じつぞう)の論文がもとになっている。
以下は今、読んでいる井上靖の本から。「私は先生の論文の中で、東西交渉史関係のものばかりを拾って行くうちに、どうしたものか、『支那人の食人肉風習』という論文に小説家的な食指を動かし、それを小説の書き出しの部分に使わせていただく結果になった。その小説には長安の郊外の市場で、裸身の女を売っているところがあるが、桑原先生が知ったらさぞ苦笑されることであろうと思う。……他には『敦煌』の場合のようなことはないが、中国を舞台にした歴史小説を書く時は、いつも桑原先生の諸論文を、辞書替わりに使わせていただいている。このこともまた先生は苦笑されることことであろう」。(『厯小説の周囲』「桑原隲蔵先生と私」150-151p)
日本における小説の大家2人がともに桑原隲蔵の論文を参考にして小説を書いているとは驚き。『敦煌』を読んだ際、市場で女性を売っている場面がある。まさにこれが人肉になるとは……。以下は『項羽と劉邦』(中)から気になる箇所の抜粋。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★「沛公(劉邦)はまれにみる長者だ」と、たれもがいう。……この大陸でいうところの徳という説明しがたいものものを人格化したのが長者であり、劉邦にはそういうものがあった。6-7p
★張良というこの若者はのちに卓越した作戦家の名をうたわれるにいたる。……この時期、始皇帝自身の側近をのぞいては、天下で張良ほど始皇帝の動静を知っていた者はいなかったかもしれない。20p
★張良が下邳(かひ)時代、かくまって命をたすけた旅のお尋ね者とはこの項伯であった。項伯はこの恩を忘れず、のち張良に恩返しすることによって、劉邦までが一命を拾うというひどく劇的な結果の因をつくる。この時代の侠の心、習慣、紐帯(じゅうたい)を考えると、侠の精神そのものが劇的な因子をもつものだといってよく、一面、張良の生涯をいろどる華やぎそのものも、侠という異常な倫理によるものであったかと思える。25p
★劉邦の人間について、「生まれたままの中国人」という含蓄に富んだ表現を、古くは内藤湖南博士がつかい、近くは貝塚茂樹博士がつかっている。……中国の長い歴史のなかで無名の農民から身をおこして王朝を建設したのは、劉邦以外にない。……劉邦という男は……、この大陸の土俗の中から生まれ、土俗という有機質を、育ちのよさや教養で損ねたり失ったりすることなく身につけ、文字どおり裸のまま乱世の世間に出た。47p
★この関中の戦場における張良ほど、非戦闘員に対しては慰撫を、軍人に対しては打撃をという両面を徹底的に使い分けた軍略家はいなかった。この方法が、後世の範になった、後世、この大陸で革命を成功させようとする多くの者が、この方法をとった。69-70p
★「小僧と(項羽)」と、すでに席にいない項羽をののしった。世は劉邦のものになるだろう、連中(項羽の血族・幹部)はやがてことごとく、劉邦の虜になる、思いかえせば、小僧は所詮は小僧に過ぎなかったのだ、といった。122p
★漢中とは、そこを流れている漢水という河の名から出た地名らしいが、その地域は単に漢ともよばれることのほうが多かった。あらたに漢中王になった劉邦に対し、ひとびとは漢王とよんだ。この故秦の流刑地の呼称が、後代、この大陸のすべてに対する呼称になり、またこの大陸で共通の文化をもつ民族に対する呼称にとして二十世紀にいたってもなおよばれるようになろうとは、この当時、韓信もその女も、あるいは劉邦自身、もしくはその謀臣の張良でさえ夢にも予想できなかった。146p
★すでに十三人が首を刎ねられ、つぎは韓信というときに、夏侯嬰はひとめ見て、(こいつは尋常の人間ではない)とおもい、劉邦のもとに駆け寄り、――主上よ。あなたは天下をお望みにならないのですか。と、ささやいた。……劉邦はあわてて処刑役人を制し、韓信の縄を解かせた。154p
★韓信は、話すうちに劉邦といういう男がひどく新鮮にみえてきた。当初、どろがあいまいに人の形らしい恰好をなしてすわっているような印象でもあったが、韓信が話おわったときどろがいきなり人になった。劉邦は右こぶしを挙げ、よろこびのあまりかたわらの小机を打った。――将軍よ、わたしはあなたを得ることが晩すぎた。と、叫んだ。劉邦はどうやら韓信によってはじめて自分を知ったようでもある。すくなくともあらたな自分をつくる方向を得、さらには明日から行動すべきすべての方針と日程まで手に入れた。171-172p
★関中は、通常、地名と秦とよばれる。
項羽が三分して亡秦の将だった三人の王(章邯、司馬欣、董翳)にあたえたためこの地域名は三秦とよばれるようになった。174p
★関中の農民がすべて劉邦に味方したということは、劉邦の戦いにとって戦略以前の大政略をなしていた。このやり方は後世のどの時代の革命軍にもひきつがれるようになった。175p
★劉邦は、国名を創った。漢と、よんだ。漢中王であったときその地域呼称にすぎなかった漢を、そのまま関中にまで持ってきたのである。177p
★伊勢神宮は古代権力が多分に人工的につくった廟所だが、まず日の神がまつられた。ついで後代、いつのほどか同格の農業神があわせてまつられた。それが、稷(しょく)やがて内宮・外宮を律令国家の社稷とした。律令日本は仏教を輸入しただけでなく、国家の社稷も輸入したといっていい。178p
★「殺されたくなければそむく(厥の厂がない文字)な」というのが、項羽の政治学に書かれているたった一行の鉄則だった。……このため、項羽の戦いは戦闘より虐殺のほうで多忙だった。185-186p
★項羽と劉邦――楚と漢――の血みどろな激闘はこの洛陽の三月からはじまったといっていい。196p
★まったくこの時期――彭城を落とすまで――の劉邦と漢軍は、奇跡という彩雲に乗って東進しているようなものであった。222p
★時代は、急湍(きゅうたん)のように流れている。日ごとに歴史が変わった。項梁の楚軍も変化してゆき、総帥の項梁が定陶で戦死したあと、楚軍のなかで多少の権力闘争があって、結局は項梁のおいの項羽が血脈相続のかたちで相続した。250p
★(張良もまた、おもしろい)と、劉邦はおもう。あの年中風邪ばかりひいている男は、欲得を離れて劉邦を補佐し、劉邦に天下をとらせることだけを楽しみにしている。私心がないために物もよく見え、さらには劉邦に直諫(ちょっかん)し、その浮きあがった足に抱きついて地につけさせてくれた。(人はさまざまだ)劉邦はおもった。337p
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