2020年4月6日月曜日

『空海の風景 上』

 広島と福岡のJ 〇Bから旅のパンフレットが送られてきた。コロナがなければすぐにパンフに飛びつくはず。だが、どこかへ行こうとしても本気になれずにいる。旅行会社も初夏になればコロナも……と当て込んでパンフを送付するのだろう。本来ならば明日と明後日は吉野の桜や高野山観光に出かけるはずだった。これもコロナでご破算となる。

 高野山と言えば空海。先日読んだ『空海の風景 上』(司馬遼太郎 中央公論社、2012年改訂32刷)。気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★……都へのぼっていくこの少年には、のち歴史に巨大なものを展開するこの種の人物にありがちな年少時の苦艱というものがまったくなく、要するに「偏ニ悲ミ、字シテ、貴物ト号ス」といった波瀾のない生いたちであったことを知りたかったからである。……空海はここの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した。43-44p

★「佐伯の宿禰どのが」
といううわさばなしも空海はきいていたにちがいない。佐伯の宿禰とは、空海の家が勝手ながらも佐伯姓の宗家としている中央の佐伯氏のことで、このばあいは佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を指す。47p

★深刻な知的煩悶のみがあり、わざわざ演劇的構成でもって『三教指帰』を書くことによって、かれが大学で学ばされている儒教と道教と仏教の三者の優劣を比較し、結論として仏教の方ほうが他の二者よりはるかにすぐれているということをひき出すのである。ひき出しただけではなく、それへ転身してしまう。かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的j情念などはこの精気のあふれた男にはなかった。58p

★空海の才華はひらくべくしてひらいたというより、それに豊饒な土を与えたのはここの期間の叔父であったにちがいなく、とくに空海がその生涯において阿刀氏以外に一人の師に入念に就いたということがなさそうなことを思えば、そういう感がふかい。65p

★かれのこの当時の名前は「真魚」(まいお)」といったらしい。その根拠は、わずかながらある。佐伯真魚である。70p

★空海――仮名乞児――はここで人間存在についての仏教の一般的解釈をいうのである。
人間というものはもともと三界に家がないものだ、あると思っているのは錯覚である。人間の住む六趣の世界をご存じであるか。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上の六つの世界のことだが、人間はこの世界をくるくると輪廻して定まるところがない、それゆえ私はときに天堂(天国)を国とし、あるときは地獄を家とする。89-90p

★空海によって体系として大完成する密教はその時期以後を純蜜と言い、それ以前の没体系的な、かけらのかたちで伝わってきていた密教を雑蜜として区別した。ついでながらこの雑蜜はその後もこの国の山河に根づき、大和の大峰や出羽の羽黒山などの山林で土俗と習合しつつ歩き巫女、外法の徒、あるいは山伏といったふうなかたちとして生きつづけた。106p

★要するに空海は、大和国高市郡久米寺の東塔下において大日経を発見したのである。161p

★空海はこれがために入唐(にっとう)を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。……久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためというだけのものであり、遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明をもって海を渡ろうとした人物はいない。167p

★空海は淡泊な男ではなかった。というより並外れて執念深い性格をもっていた。そういう性格でなければ、神道的平明さを思想的風土とする倭の土地から、悪魔的なほどに複雑な論理を構築する男として歴史に登場することはできなかったであろう。220p

★「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足元にひれ伏すべきである」というべきという気持ちがあった。さらにその気持ちをささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、蜜具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからに違いない。空海は私学の徒であったとさえいえる。222p

★空海は、いう。いま、使者がきて入京が許されないということを承った。……一転して、空海は閻済美の人徳の高さを湛える。……閻済美は結局、空海を入京させることにした。橘逸勢のような男は、すねを挙げ、手を搏(う)って、空海のためによろこんだであろう。
 入京する者、葛野麻呂以下、すべて二十三人である。282-282p

★空海も馬上の人になった。
十一月三日、福州を辞した。……長安城までは、唐の里程にして七千五百里である。283p

★「木妖」(もくよう)とよび、時代の衰兆をかぎとった。しかしながら空海が長安に入ったのはこの木妖時代が終了して、その成果のみが坊々に燦然とかがやいているときで、いわば長安の都市美の爛熟期であったといっていい。空海の側からみれば、外国人であるために木妖を憂える必要はなく、ひたすらにそれを讃美すればよかった。空海が長安の都市美が最高潮を保っているときに入ったというだけでも、かれについてまわる幸運がここにも息づいているということができるであろう。302p

★六朝は貴族政治であるために門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族の身の皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫(すいぶ)するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。326-327p

★護摩というのは、火をもって供養するということで、釈迦の仏教にはこれがなく、むしろこの種のものを外道として排した。しかし、密教は釈迦が嫌悪した護摩をとり入れたがために、空海の護摩に対する関心がつよい。護摩は、インド古来の土着宗教であるバラモン教から系譜をひいているのであろう。334p

★空海が後年、護摩をも思想家してしまったのは、護摩の火に薪という具体的なもの――煩悩――が焼かれて清浄という抽象化を遂げるという内容を考えたからであった。336p

★繰かえすようだが、比較は空海のもっも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。337p

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