2020年8月20日木曜日

『菜の花の沖』(三)

 2日くらい前の新聞にアイヌの人(コタン)の鮭漁の記事があった。今、読んでいる『菜の花の沖』(全6巻)のうち、4巻目までを読んだ。これは淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛が蝦夷地を開拓していく話。蝦夷人と和人、さらには北方四島にちなむロシアとの関係もある。他の和人にはない蝦夷人への思いやりが嘉兵衛にはあった。蝦夷地は元来、蝦夷人の地であり、鮭の捕獲を生業としていた。コタンの漁業権云々は和人に同化させられてそれも奪われていったに違いない。外野がとやかく言える立場にない。が、ここは当時の同化政策を考慮して漁業する権利を認めてあげたい。

 『菜の花の沖』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第10刷)を読んだ。以下はまたいつものように気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「北前船」といえば、船籍がどこであれ、大阪・兵庫を始発点として北海道へゆく交易船とその航路のことをさす。46p

★古今東西とも、人間は船に人格を感じてきた。このため船に名をつける。日本では奈良朝や平安朝の初期まで遣唐船という航用船をもったが、慶雲三年(七〇六年)の大使の座乗船は「佐伯」であり、天平宝字二年(七五八年)の船団の一隻は「播磨速鳥」という名をもっていた。しかも、どの船も従五位下(じょごいのげ)という位階までもらっていた。……船首の棕櫚(しゅろ)の毛だけは例外らしい。何を意味するのかわからないが、もともとは注連縄のつもりであったか、どうか。この船首装飾を舟人たちは、「下がり」という。あるいはかもじともいう。76-77p

★……松前・蝦夷地は遠かった。この地方が、「北海道」という名称にかわるのは、幕府瓦解後、明治二年、新政府によってである。
 立案者は、江戸末期における最大の探検家松浦武四郎(一八一八~八八)であった。82p

★鰊をニシンというのは、アイヌ語である。蝦夷地交易によってひろまったことばで、カドといわず、蝦夷語のニシンといったのは、そのほうが魚名でなく商品名としてよぶのにより鮮明で的確な呼称だったからであろう。ただしはらごにだけは古語のカズノコの語が残った。90p

★豊臣期、松前氏は、「蝦夷島主」であって、大名ではない。大名というのは稲作地を支配する者の謂(いい)で、一万石以上の領主をいう。91p

★「朱印」とか、朱印状とかよばれるのは、武家政権において用いられる公的文書のことである。鎌倉・室町のころは文書に花押(かきはん)が書かれたが、戦国のころから朱印が押されるようになった。91p

★蝦夷錦というのは、清帝国の官吏の官服の古着のことである。……松前藩ではこれを交易品のなかでも最高のものとし、本土に売る。本土ではすでに豊臣期のころから、とくに、「蝦夷錦」とよんで珍重し、江戸期では上等の女帯や、高僧の袈裟に用いていた。蘇州の錦がはるかに北方をまわり、海をわたり、樺太をつたい、蝦夷地に入り、ついには江戸や上方に入るという経路をとっていたのである。105-106p

★「無名の師」という漢語がある。理由もなく他国を侵略する戦争行為をいう。ロシアはその領土拡張にあたって無名の師を出さない、というのである。176p

★松前藩では、アイヌ人が和人の言葉を使えば罰を加えるという。使うという以前に、おぼえさせないようにしているのである。和語には和人社会の文化、産業技術が充填されているのだが、言葉という縄梯子をつたってそういう文化へ昇ってゆくことをふせぐ一方、外界からの隠密などが潜入したしたときに、蝦夷の惨状を訴えないようにもしているのである。……まことに獣類のごとき境界なり。と徳内はいうが、松前藩は武力を背景とした政策ををもって、蝦夷をその段階にとどめているのである。307p

★嘉兵衛は、好奇心がつよかった。あるいは好奇心が強いために町船(商船)の船頭になったともいえるし、とに蝦夷地をめざしたのも、そういえるであろう。
 「数寄(すき、数寄、好)という室町時代の堺の町人や武将のあいだで流行したことばが、好奇心ということと半分ばかり重なるようである。……右のような損得とからんだ素朴な好奇心が、その暮らしを繰りかえすうちに不意に発酵してくる部分が数寄である。
 さらに発酵した数寄が、蒸留して酒精度の強い液体になると、損得という発酵の素材の原形をとどめない本物の数寄になってしまう。……ただ、損得をやや離れた好奇心だけはうごいている。蝦夷地とはなにか、ということである。308-310p

★――なぜ、蝦夷地が好きなのだろう。と、嘉兵衛は自問したことがある。……(強いて言えば)と、嘉兵衛は考えたことがある。極北だからではないか。……そこへ身を移動させることを禁じられたこの国にあっては、ただ密かに想像するしかなく、またその一角に身を置けない以上、極楽や地獄を想像しているのとかわりがない。……「行けないからしあわせなのだ」と、そのとき嘉兵衛はいった。多少のくやしさも、むろんこの逆説の塩味になっている。
 この江戸体制の中で、嘉兵衛がゆくことが可能な極北というのは、蝦夷地だけなのである。358-360p

★松前家にとって、蝦夷地の蝦夷は人間の機能をそろえた家畜であった。働かせるばかりでいっさい庇護を与えず、さらにはかれらが進歩することを阻んでいた。その事実を知られるのが嫌だったんであろう。……この温和な民族が、塩、味噌、醤油すら用いず、真水で煮た気をしているのを見たとき、嘉兵衛は涙がこぼれた。372p

★アッケシでの蝦夷との接触は、嘉兵衛の精神に大きなふくらみや変化あるいは影響をあたえた。かれはは帰路、日本海を帆走しながら、夜も昼も蝦夷のことが脳裏から離れなかった。蝦夷の老人が笑ったときの表情が神のように澄んでいると思ったし、またかれらが自然に密着して、俗欲をもたないという点では、本土のたとえばどういう高僧でも達せられないものを、平然と身にそなえていることに嘉兵衛は驚かされた。
 さらには、いやおうなしに、大きな地球というものを思わせられた。日本の本土という社会にあくせくして、小沼の小魚のようにこれ以外に棲処(すみか)はない、と思っている矮小な心が、蝦夷人とその文化という異質なものを見るうちに、大きくなってゆくような気がした。言いかえれば、自分や本土人たちが要するに地球の上の「人」に過ぎないのだということを一挙に頓悟させられてしまった感じでもあった。大名や武士、あるいは北風家といってもなんであろう、地球の上の人にすぎないのではないか、ということであった。379-380p

★日本という言葉がはじめて文献にあらわれるのは『随書』である。つまりは元来、対外関係においてつくられ、古いころは庶民のあいだではほとんどつかわれず、ようやく豊臣政権ころからしきりに使われるようになった。江戸期に入ると、井原西鶴が勃興期の商業社会の沸騰をえがいた小説に『日本永大蔵』という題をつけたように「天下」より「日本」が庶民の世界でふつうに用いられるようになった。397-398p

★寛政十一年正月、「天下人」である将軍が東蝦夷地を直轄領にしたのは「天下」の拡大であり、劃期的な大事態といっていい。399p

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