BSで再放送されている「街道をゆく」シリーズは今夜もある。今夜は「オホーツク街道」。番組と並行して司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んでいる。「街道~」のテレビを見るは、本を読むは、で忙しく過ごす日々だが、これもリズムに乗った生活になるので体にとってはいいことに思える。日中はテレビを見ないで本を読み、夜は本を読まずにテレビを見る。が、プロ野球で推しメンが出場しない試合では夜であっても本を読む。昨夜はそんな夜でかなりの頁数を読んでいた。
以下は先日読んだ『街道をゆく』(三十五)「オランダ紀行」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1993年第3刷)から気になる箇所を抜粋した。オランダといえばゴッホ。この本によると司馬遼太郎夫妻もゴッホが好きだったようだ。このなかに「自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである。ゴッホの場合、どのことばも、いきた自分の皮膚や被膜や内臓を切りとったものであり、ついにことばを言うことがもどかしいあまり、現実に耳を――生の肉体を――切りとるまでのことをした。(365p)」とある。
なかでも「自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである」に惹かれる。これはゴッホだけでなく司馬遼太郎自身にもいえるのかもしれない。どういっても莫大な量の本を書いている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★オランダの国としての正称はネーデルランド王国で、オランダというのは、低地の一部であるホーラント(Holland)州からきた通称である。日本語のオランダは、当時日本に来ていたポルトガル人が、ホーラントを訛ってオランダとよんでいたことに由来する。(30p)
★オランダでは、ニシンという食べものは、儀礼の対象でさえあった。春一番に獲れたニシンを、江戸っ子の初鰹のように縁起物として食べ、その食べかたも、古式(?)にのっとり、シッポをつまんで、大口をあけて、ほとんど生で賞味するのである。春一番のニシンは女王陛下にも献上する。(119-120p)
★敷石の上を歩きながら、ティルさんに、”この敷石(ブロック)のことを「赤ちゃんの頭」というそうですね”ときくと、はい、そうです、キンダーコップです、と教えてくれた。(144p)
★私は、フランスの小説で、観念がすきならサルトルを読めばよく、人間の普遍的課題がすきならカミュがよく、いっそ人間そのものが丸まるごと好きならシムノンがいい、と思っている。(215p)
★オランダが百敗するのは当然で、人口が少なすぎたのである。それに平地がほとんどで、スイスのような天嶮がないため、寡をもって衆にあたることの不可能な国だった。(299p)
★”あいつはベイラントのようなやつだ”というふうに、人間の一典型としても、この人名はつかえるのである。十六、十七世紀は人間の典型をさかんに生んだ時代であるらしく、たとえばセルバンテス(一五四七~一六一六)がドン・キホーテを生み、シェイクスピア(一五六四~一六一六)がハムレットを生み、芸術作品ではないにせよ、オランダの独立戦争はベイラントを生んだ。この三つの典型のなかで、ベイラントがもっともおそろしく、強くもあり、同情を寄せがたい。(337)-338p)
★資本主義は人類に、自由と個人という二つの贈りものをした。自由と個人は、経済活動のなかでは、前時代にはなかった高エネルギーをもっている。……いまは宗教の時代ではないが、資本主義には強烈な倫理性が必要があることにかわりがなく、”ベイラント現象”をふせぐことが市場原理をまもることの第一条件であることに変わりはない。(338p)
★ゴッホの絵は、楽しさとはべつのもののようである。と、いって、思わせぶりな陰鬱さはない。明暗とか躁鬱とかいった衣装で測れるものではなく、はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついにじみ出てしまう人間の根源的な感情がある。それは「悲しみ」というほか、言いあらわしようがない。……どうもかれの悲しみは、人として生まれてきたことについての基本的なものである。むろん、厭世主義や悲観的なものではなく、いっそ聖書的といったほうがよく、このためかれの悲しみは、ほのかに荘厳さをもち、かがやかしくさえある。ゴッホの芸術の基本は、そういうあたりにあるらしい。(361p)
★「この世はこのように楽しい」と、黄金の十七世紀レンブラントは描きつづけたが、十九世紀のゴッホは、衰弱したオランダのように悲しいのである。むろん、ゴッホの悲しみは国家の盛衰と関係ない。(363p)
★わざわざ言うまでもないが、私はゴッホの絵がすきである。その絵が好きになる以前、むしろ書簡集に打たれた。……赤裸が――正直といってもいいが――かれの文章を生む核になっている。……自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである。ゴッホの場合、どのことばも、いきた自分の皮膚や被膜や内臓を切りとったものであり、ついにことばを言うことがもどかしいあまり、現実に耳を――生の肉体を――切りとるまでのことをした。(365p)
★最初に読んだのは、昭和二十七年(一九五二)刊、小林秀雄『ゴッホの手紙』(新潮社)で、つぎは硲(はざま)伊之助訳の『ゴッホの手紙』上・中・下(岩波文庫)であり、最後に圧倒的な感銘を受けたのは、『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすゞ書房)全六巻であった。(370p)
★「私は、ゴッホになる」と、狂躁しておもったのが、青森市の裁判所の給仕をしていた十七歳の棟方志功(一九〇三~七五)だった。平凡社の『大百科事典』のみじかい記述のなかにも、「ゴッホの絵に感銘し、画家を志す」とあり、「ひまわり」一点が世界美術史のなかで、特異な位置を占める版画家をうんだのである(棟方志功伝については、長谷部日出雄氏の『鬼が来た』という精密な作品がある)。(442p)
★かれの生前、伯父のフィンセント・ファン・ゴッホは、――かれの絵は奇異だ。と、おもったろう。奇異さが理解をはばんだ。ところが死後、ひとびとの目からウロコがおちるように、ゴッホにおける”奇異さ”がはずれた。ゴッホの名声が死後において発生したのは、そういう理由による。くりかえしいうが、”奇異”が外れると、いきなりゴッホの絵が生命の哀しみの表現であることが、ひとびとによって理解された。(445p)
★木の名前というのはおかしなものである。マロニエといえばパリのにおいがし、馬栗(ホース・チェスナット)といえば英国の芝生を感じ、トチといえば、縄文のにおいを覚えたりする。私はシーボルトがもち帰ったという日本のトチの大樹を仰いで、旧知にであったおもいがした。(477p)
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