1968年、中国で民間人によって「呂后之爾」の印が発見された。漢の皇帝劉邦の皇后である呂后。それから2000年後に中国文化大革命が起き、毛沢東夫人の江青は陝西省博物館に保管されていたこの印を持ちだして8年間も持っていた。そこには江青が呂后の権力にあやかろうとしたことがうかがえるという。
呂后は謀略を劉邦に知らせずに進めた。劉邦の死後、皇帝に恵帝がつく。呂后は腹違いの子、趙王を毒殺によって死に追いやった。恵帝も呂后のやり方に参って死ぬ。この後、呂后は2年半人質になる。劉邦は戚夫人(せきふじん)を愛した。劉邦の死後、呂后は戚夫人を人豚と呼ばせて残酷に扱った。
1984年、漢の時代の墓が発見され、二年律令が見つかる。これは呂后が発令した。それは「民に優しく官に厳しい」ものだった。漢の時代は漢字や漢民族など漢で表し、劉邦ができなかったことを呂后は行った。呂后は劉邦が死ぬと次はだれ?と問い詰めた。呂后は二年律令にもあるように「国を安定させようとした人」だった。それなのになぜ悪女となったのか。そこには女性が権力を持つことは国を乱すとの考えがあり、また儒教の教えがあった。
時は過ぎて溥儀の時代である。溥儀には2人の后、婉容と文繍がいた。この2人の死はどこでいつ亡くなったかさえ不明である。ともに夫への裏切りだけが残った。王慶祥氏の研究によると溥儀と2人の妻は世界へつながる皇室が希望だったという。北京政変で紫禁城を追放された溥儀は天津へ向かう。その7年後、まだ23歳と若い文繍は溥儀に離婚を要求し、家を出る。天津時代、3人は同じ家に住んでいたが家を出て50日後に離婚は成立。文繍の最大の夢は「自由」になることだった。婉容はアヘンにおぼれ、側近との密通で転落の道へ。溥儀は文繍がいなくなった原因を婉容のせいだと思い、婉容を遠ざけた。その矢先に信頼していた側近2人による密通があった。溥儀は次々と年若い第二夫人を迎えるが後継ぎはのぞめなかった。原因は溥儀にあった。
溥儀は1964年に『わが半生』を出版。その中には婉容と文繍を悪女と書いている。本は売れて2人の悪女は世間に広まった。その後、溥儀と離婚した文繍はお店を営んでいたらしく40代の若さで極貧の生涯を終える。が、生涯、溥儀の眼鏡を肌身離さず持っていたという。その眼鏡は今、博物館にある。2009年6月の調査によると「本当は強く優しい女性たちの姿があった」という。
何事も理由なく当事者のその一方だけが悪いことはない。「女性が権力を持つことは国を乱すとの考えがあり、また儒教の教えがあった」ようだが、この考えは今も少しはあるように思えるがどうなんだろう。
話は変わって昨日は日本画教室の日。テレビに夢中になってすっかり絵の話題をわすれていた。相変わらず樹木を描いている。いつもは60色ある水干絵具を使用している。が、教室にある岩絵の具で彩色を、との先生の言葉で岩絵の具を使う。岩絵の具の方が水干絵具よりもいいらしい。とはいっても初めに購入した水干絵具をこれから先ずっと使い続けても使い切れないくらいある。ただ、数少ないが数本だけ少なくなる色もある。それは皆さんも同じらしい。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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