玉置山には2000年前に創建された玉置神社があり、安堵を守る神聖な場所であった。ここには狩野派の襖絵が60余枚、今でも残っている。安堵を守る修験者(山伏)は玉置山に出入りする。修験者たちは幕末に御所の警護に自らあたり、200人が兵となった。ところが天誅組騒動に巻き込まれる。その際、天辻峠に1000余人が集まった。明治政府はこのことにより免租を聞き入れず、十津川の安堵の歴史は消滅する。が、明治政府は十津川村に報労金をつぎ込んだ。村はこのお金を県立十津川高校の建設に費やしている。
明治22年、大洪水がこの村を襲ったことにより自然に対する安堵は崩れた。村は北海道の荒蕪の地に移住をすすめて新十津川町をつくった。ここは110年前は原生林だったが2600人が移住している。その際、十津川郷士の気持ちを失わないようにと刀を持参した。
奈良十津川村は弥生時代以来の道路建設が進み外界の経済と結び付いた。対岸には大吊橋が架かった。が、その際、公の意識が発達し、いっさい行政に頼らず村人が全額費用を出して橋を架けた。外の経済と繋がると海外から安い木材が入るようになり木材の高騰はなくなった。毎年秋には樹齢3000年の神大杉の前で大祭が行われている。
司馬遼太郎は書いている。「日本の歴史のなかで、低地の政治に対し関心を持ちつづけた唯一の山郷といえるし、さらには低地の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷ともいえるのではないか」と。
番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!奈良県十津川村の特異な歴史とは?自分たちの山河は自分たちの手で守る!日本の共同体の一つの姿を山里に見つめる旅が始まる」とあり、「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽紀伊山地に暮らす純朴な人々。なぜ日本史の節目ごとに中央に兵を繰り出してきたのか?▽十津川郷の歴史を貫いてきたものとは?▽霊山に出入りする修験者の役割▽巻き込まれた幕末の天誅組騒動▽明治の大水害で壊滅的な被害。合議の末の北海道移住▽山里の公の意識とは?身銭を切って作った道路、大つり橋▽1999年放送の番組がよみがえる」ともある。
図書館で「十津川街道」を借りに行くと書架にこの本がない。今朝のメールで本が確保されたと入る。ホッとする。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
0 件のコメント:
コメントを投稿