2022年3月23日水曜日

『十一番目の志士(下)』

 一昨日、縮景園の桜が開花したと報道で知る。先日の日本画教室で、教室の人は縮景園にある樹木と社を描いていた。自分自身、樹木を好んで描いているのでその人が描く樹木を自分も描いてみたいと思った。縮景園をくまなく歩いているがその人の描く社がどの辺りにあるのかわからない。図書館で春の日本画展開催のチラシを見つけた。場所は八丁堀の某金融機関だ。4月になればこの日本画展と縮景園の樹木と社を見に行こう。

 図書館も開館し縮景園などの公共施設も行かれるようになった。ついでにプールも、と思う。が、プールのある町には連日コロナ感染者が出ている。水泳を再開すれば気持ちも体もスッキリするはず。と、思いながらも決心がつかずにいる。今月末には区民センターで自衛隊のコンサートがある。徐々にいろんなところへ出かけるように行動開始!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は大分前に読んだ『十一番目の志士(下)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2009年新装版第1刷)から気になる箇所を抜粋。

★しかしながら、かたきの晋助がいまからやろうとしている行動は、日本の知識階級の合言葉である「攘夷」であった。夷荻(いてき)ヲ攘(ウチハラ)ウ、これが、佐幕勤王を問わず時代の正義である。新撰組でも、「攘夷の先鋒」ということで京にあつまった志士たちの結社であり、元治元年長州軍が蛤御門に討ち入ったとき月下にかかげていた大旆も「尊王攘夷」であった。いまそれを晋助は一人で断行しようとしている。しかも、高杉が英国公使館を焼きうちしたようなものではなく、フランスの国家と武威を象徴する軍艦に斬りこんで金を奪おうというのである。(49p)

★この当時、勤王志士でも古参、新参がある。かれらの仲間では、最古参の尺度を、「癸丑(きちゅう)以来」という言葉であらわした。癸丑(みずのとうし)の年という意味である。癸丑の年は、嘉永六年にあたっている。ペリー来航の年である。このペリー来航から幕末の騒擾(そうじょう)は幕をあげたが、その嘉永六年以来の志士のことを。「かれは癸丑以来の志士である」と仲間ではいう。(77p)

★月性は、西郷と薩摩潟に身を投じた京の清水寺の勤王僧月照ととよく混同される。月照は僧であり、月性は詩僧である。月性の詩としては、「男児志ヲ立テテ郷間を出ヅ、学モシ成ラズンバ死ストモ還ラズ」というのが、後世にまで親しまれている。(77-78p)

★新選組は、ダルタニアン物語にあるような陽気な剣客集団ではない。陰気な謀略の結社でもある。幕末、これほどの諜報と謀略の活動をした団体もないであろう。(86p)

★奇兵隊の尊王は、革命思想である。「一君万民の世を」と奇兵隊士は熱にうなされるような気持で、それをいう。天皇のもと、三千万日本人は無階級の社会を、という理想であり、将軍、大名、士格という階級の廃止である。階級の廃止、つまり討幕である。ところが、新選組はちがう。新撰組の尊王は、具体的には王城の治安維持、ということである。あくまでも、幕藩体制下での京都治安の維持であり、徳川封建体制の擁護にある。(90-91p)

★皇国とは当節の流行語である。はなしはとぶが、この言葉は明治後死語となり、やがて昭和に入ってこの言葉は右翼思想家たちにひろいあげられ、まったく概念のちがう思想用語としてつかわれた。幕末にあっては概念がちがう。「日本」といったほどの意味である。(153-154p)

★世間の庶人は、この物価を高騰させた兇因は幕府の開国方にあると信じている。事実であった。対外貿易が鎖国経済を破壊し、米価が開国以前より三倍になり、しかもその勢いは奔馬のようでとどまる気配もない。これを制御するのは長州藩の攘夷主義だけであろう。長州が理想とする天皇中心体制になればふたたび国を鎖し、外国を追いはらい、異人貿易を停止し、国内の経済はもとの静安な状態にもどる、とひとびとは信じ、ひそかに長州人を指示していた(もっとも長州藩の指導者が密かに開国主義に転向していることは、藩内はむろん、世間もしらない)。(323p)

★高杉がかつていったことがある。「事をおこすのは人数ではない。唐土のばあい、明朝をほろぼして清朝を興したのは、満州の地で酋長愛新覚羅氏にひきいられて反乱をおこした満州族八十万人である。八十万人がいかに剽悍な騎馬民族であったとはいえ、これでもって明の帝室をほろぼし四百余州を征服できようとは、泰平の世では考えられぬ。しかし天命尽きた相手にはこの半分でも十分である。長州藩の渺小をなげくにはおよばない」(324p)

★(非道いことをしやがる)幕府が徴募した歩兵ほど、この地球上で劣悪な兵はいないであろう。第一、一国の政府たるものが、国軍を編成するのに市井の無頼漢をあつめるというような例は、世にも世界にも類があるまい。まったくのところ、この国の封建制の悲喜劇といっていい。徳川家をまもるべく三百年江戸に駐留している旗本八万騎は、代々殿様、旦那様といわれ、都市貴族になり、食禄に飽き、世のうごきに超然としている。幕府が洋式歩兵を設置しても、いまさら小銃を執って泥に起き伏しするような一兵卒の訓練を受けたがらず、結局、給金をえさに庶人から徴募せざるをえなくなった。幕府もあわれであった。かんじんの旗本・御家人が有閑階級化しているために、この危急存亡のときにごろつきどもを代人として庸わねばならないのである。(351-352p)

★攘夷とは幕府の官学である朱子学から出たことばである。朱子学がゆきわたっていた当時、平たい意味では攘夷派日本じゅうの”常識”だった。……ただ、長州人とちがうのは、ふつうは攘夷というものを行動にまでもってゆかなかったことである。まして幕臣や諸藩の責任者の場合、そういう行動をすることは、幕府を困らせることになる。なんといっても、幕府は、国内的にも国際的にも、日本国の責任政府だった。ただ反幕的な志士は、攘夷行動をすることが幕府が窮地に追い込むということを知っていた。……大きく世を変えたのは、長州藩が藩是として行動的攘夷主義をとりはじめてからである。堂々たる一体制が、書生論にまきこまれてしまうなどは歴史の壮大な数奇としか思えない。(371-372p あとがき)

★この小説の中の天堂晋助は、そういう不燃焼ガスのなかにいた。似たような生いたちの伊藤俊輔が伊藤博文になったことにくらべると、晋助はつねに草のなかにいた。時勢に乗るよりも人間に執着したためとしかおもえない。(375p あとがき)

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