2021年7月31日土曜日
東京の地下
2021年7月30日金曜日
ラフマニノフ作曲ヴォカリーズ
2021年7月29日木曜日
WEB上の記事&動画
暇つぶしに興味をもってみる動画やネットニュースなどがある。その大半は無料だ。動画のYOU TUBEにいたっては有名人がこぞって参戦する。見る側としては無料で動画を見られるし、テレビなどもTverやNHKプラスで見逃し配信を無料で視聴できる。これらを提供する側はNHKは別としても見る頻度で収益があるそうだ。
今朝の地元紙に文春の偉い人が地元で講演した記事がある。それによるとネットニュースや記事にも動画と同じように収益確保ができるという。文春オンラインの記事をパソコンで読んでいる。これらはすべてWEB上で展開する側に収益をもたらす、とは驚き。というか収益のために無料でWEB上に記事を載せている。
出版のビジネスモデルは劇的に変化しているらしく「無料提供の後に、費用を回収するというのが一般的なモデルになってきている」。動画やネット記事を発信する側も「サイトの閲覧数だけでなく、質でスポンサーの評価を得て、ビジネスモデルを構築するというのも一つの方法だ。どうやってこれからの収益構造を見つけていくか、挑戦を続けている」という。
今の子供は将来の夢としてYOU TUBERになりたいという子供もいる。職業としてこういった仕事が出たことに驚くが、今の子供にとっては生まれてからずっとこういう状況下で育っているので何ら不思議なことでないのかもしれない。
収益云々でブログを投稿し続けてるわけではない。何でもかんでも金銭目当ての世の中。これから先は世の中どんな風に変化してゆくのだろう。末恐ろしい!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月28日水曜日
『近現代史からの警告』
司馬作品を読む合間にと借りてきた『近現代史からの警告』(保坂正康 講談社、2020年)を読む。暑いと言ってダラダラした生活はよくない。自分を戒めるためにも規則正しい生活をしているつもり。そして本を読む。以下は気になる箇所を抜粋したもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★明治新政府は、日本の軍事は「海主陸従」であるという方針を立てます。日本は海洋国家なので、海軍を充実させて諸外国からの侵略に備えるという国防方針でした。ところがこれが、明治十年の西南戦争で一新されるのです。「陸主海従」になるのです。……西南戦争という内乱を通じて、日本の軍事は専守防衛の形から、地上戦主体の軍隊へと変わっていきました。(136p)
★中国には古来から「好鉄不打釘、好人不当兵」(良い鉄は釘にはならない、立派な人間は兵士にはならない)という諺があります。これは武より文を重んじる国の認識であるとともに、中国においては兵がならず者や乱暴者、そうでなければ無気力者に担われてきたという歴史をも意味しています。清の兵隊は傭兵みたいな存在で、戦闘意欲はありませんでした。……そういう意味で、日本のほうが戦闘意欲が強かったということになるともいえます。……日清戦争においては兵士たちの恐怖感が戦闘意欲に転換されていった心理的メカニズムは、昭和に入っても続いていきます。(146-147p)
★私が歴史を奥行きをもって見るための方法である「因果史観」を紹介したいと思います。私たちは通常、歴史というものをアカデミズムの側の概念、また学問分野として理解しています。現実という水面の上の事象として起こったことを史実とし、それをある見方に従って解析、分析、検証することを批判する筋合いはありません。しかし、ジャーナリズムとアカデミズムの間には当然ながらアプローチの違いがあります。アカデミズムの研究者が史料主義のもとで、史料の中に入り込んで、史料によって歴史を描く。また、ある史観によって史料を捉え直す。こういった研究から私たちが学び得ることは確かに様々にあるのですが、ジャーナリスティックな歴史研究においては、日常の生活者として歴史を見るということも大事だと思うのです。
つまり歴史の中でさりげなく起こった小さなこと、あるいは史料には記録されていない出来事、また、いまでは見えなくなってしまった不可視の事実、さらにはかつて人びとの脳裏にこびりついたある観念が、実はその後の歴史のうねりを生じさせるような因果関係を有していることがあると私は考えています。因果関係を結び付けることで、私たちの歴史の本質が可視化されるのと同時に、不可視の領域で歴史がつながり合って流れているということを摑むことが大事なのだと思います。(204-205p)
★「君らには理解できないかもしれないが、昭和五、六、七年頃に、我々青年将校たちの間で『大善』『小善」という言葉がよく使われた」と彼らは言うのです。「小善」というのは、軍人勅論に従って、陛下の軍隊として命を捧げる。その枠の中で将校として、兵士として、一生懸命に尽くす。それが小善なのだと言います。一方、「大善」というのは、自分たちが陛下のお気持ちのほうへ一歩、踏み出して、陛下のお気持ちに沿って変革を起こす。それが陛下のためになるというのが「大善」なのだ、と。(206p)
★私たちはいま、コロナとの戦いの中で市民たりうるかどうかが試されています。もっとはっきり断言すれば、ファシズム体制がいかに人間性を損なうかを「歴史からの警告」として学んでいるのです。そう考えれば、今回のコロナとの戦いに意義を見出すことすらできるように思います。感染連鎖を断ち切り、私たちの生命と生活と民主主義社会を守るために、市民としての自覚と自己管理が求められているのです。(242p)
2021年7月27日火曜日
農家飯&キャンプ飯
2021年7月26日月曜日
投稿欄
地元紙の投稿欄「広場」を見ると36歳、会社員とあり投稿者の名がある。社会人大学生で共に学んだ人だ。一般的には18,9歳で大学に入る。(もう36歳になったんだ)と年月の経過を感じながら読む。3児の母になった人は1年前から会社勤めを始めたようだ。独身のあの自由だった時代を懐かしむ。今や時間に追われる日々を何とか工夫して一人の時間を作っている。そして資格をとるべく勉強を始めるようだ。
今、思い出した。この世代は「世界の中心で愛をさけぶ」が流行したころだ。投稿者もその当時、そう話していた。
妻、母そして一人の女性として生きてゆくことは並大抵のことではないはず。自分自身、妻でもなく母でもない人生を歩んできた。ただ会社勤めの毎日。それだけでも大変だった。幸いというか不運というか50代半ばで会社をリストラ。その翌年、大学で学ぶ。リストラのおかげで学ぶ決心がついた。何が幸いするか、人生はわからない。
どんな状況にあってもとどまることなく一生懸命に生きている人は潔い。これから先のどんなことにもきっと大丈夫!朝から暑い。ゴミ出しに外に出て見上げた空は一年で一番とも思えるほど真っ青だ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月25日日曜日
『国盗り物語』(一)
『国盗り物語』(二)を読み終えて『国盗り物語』(三)を読み始めた。この本は恐れ嫌われる人のたとえにある「蝮」、と言われた斎藤道三の物語である。この(二)を読み終えてその(三)も斎藤道三の話かと思ったら織田信長の国盗りの話だ。斎藤道三の娘婿が織田信長。その(四)はまだ手にしていないのでどんな話で終わるのか楽しみである。
世の中、オリンピックが始まった。だが、全く興味がない。いつもと変わらぬ日々を過ごしている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『国盗り物語』(一)(司馬遼太郎 新潮文庫、平成二十七年第百一刷)から気になる箇所をメモした。
ここで余談。昨日ブログに投稿した石原慎太郎は脳梗塞を患い、左手が不自由らしい。それでもパソコンのおかげで文を書けるそうだ。その、左手。カタカナの「ナ」も書けないとぼやく。自分自身、どこも悪くないといっても視力がよくない。パソコンに本などの引用を入力する際、人の何倍も時間がかかる。入力そのものは早い。が、目が悪いために本をそばに置いてそれを見ながらの入力ができない。その都度、本を見ての入力となる。その代わり自分が思いつくままの文の入力は早い。
ということで以下の入力も時間がかかった。
★現在(いま)も、山崎八幡宮(離宮八幡宮)は、東海道線京都・大阪間の山崎駅」の西浦にある。……神官は、庄九郎のころとおなじ津田氏の世襲で、当主津田定房氏は四十六代目である。むろん、ここが荏胡麻油の専売権をもっていたのは戦国時代までで、こんにち往年の盛大さをしのぶよすがもないが、ただおもしろいことに、東京油問屋市場、吉原製油、味の素、昭和産業といった全国の食用油の会社、組合が、いまなお氏子になっている。(52p)
★(日蓮上人がもっていたという数珠丸恒次はむかし身延山久遠寺が、その後転々とし、今は兵庫県尼崎市の本興寺におさまり旧国宝である。庄九郎の持っていた刀はおなじ作者の青江常次には違いないが、数珠丸であったかどうかは疑わしい)(55p)
★余談だが、庄九郎よりやや後年に出た黒田官兵衛如水の先祖は、一時、この備前福岡の市に居ついていた。黒田家が筑前一国に封ぜられ、博多の西方に築城したとき、先祖にゆかりの備前福岡の地名をとって、城下の地を福岡と名づけた。いまの福岡市がそれである。(87p)
★上古、温泉の多くは僧侶によってひらかれた。僧侶は、シナの医書を読んで、温泉の薬効あることを知っている。かれらは温泉に寺を建て、宿坊をつくり、大いに宣伝して俗人をあつめた。仏法を言葉で説くよりも、温泉の薬効で人をおどろかせ、しかるのちに「それこそ霊験である」と説いた。有馬の湯も、奈良町の僧行基がひらいたもので、温泉寺もこの行基菩薩の建立であった。(105p)
★奈良の興福寺大乗院などは、一つの寺院で、塩、漆、こうじ、すだれ、菰(こも)など、十五品種にわたる商工の権を握って、そこから得る収入はばく大なものであった。こういうばかばかしい制度をぶちこわして、楽市・楽座(自由経済)を現出させたのは、のちに庄九郎(斎藤道三)のむすめ婿になった織田信長であった。信長は単に武将というよりも、革命児だったといっていい。そういう経済制度の革命の必要を信長におしえたのは、道三である。(189p)
★庄九郎は、策略の多い人間だが、そのつどそのつど、心に濃烈な真実をこめていた。ただ濃烈な真実というものは、次の瞬間には色が変ずる、というむなしさも知っている。庄九郎の真実は、霜月に照りかがやく紅葉の美しさに似ていた。紅葉とは、翌月の師走にはもう色が褪せる。そういうはかなさがあればこそ、霜月のもみじは、より一層の美しさでひとの心を打つのであろう。(233p)
★戦国の英雄というのは奇妙な信仰を心のどこかにもっていて、自分を地上に下したのは天であると思っていた。一種の誇大妄想狂である。この「天命」があればこそ、行為はすべて正義であり、そういう強烈な正義観がなければ、誇大さがなければとうてい統一の大業は果せないものだ。……、事、成就すれば「天にもっとも近い者」であることを人にし知らしめるために天空を劃するような城をつくる。(261-262p)
★庄九郎のこの時代、茶道が社交の場として流行したのは、室町幕府がつくったうるさい小笠原礼法の反動のようなものだ。(270p)
★庄九郎は、生涯のうちで十三回姓名を変えている。変えるごとに身分があがった。後世もっとも有名になった斎藤道三という名は、その晩年のものである(筆者―-この物語ではまぎらわしため、庄九郎で通したい)。(313p)
★庄九郎はおもった。生のあるかぎり激しく生きる者のみが、この世を生きた、といえる者であろう。(生悟りの諦観主義者どもは、いつも薄暮に生きているようなものだ。わしは陽の照る下でのみ、思うさまに生きてやる)(331p)
★このため美濃平野のひとびとはこの東方の山嶺を怖れ、この一帯を、恵那郡とも明智ともいわず、ばくぜんと「遠山」と通称しているほどであった。ちなみに徳川時代の名町奉行といわれて講談などで「遠山の金さん」と親しまれている遠山左衛門慰景元(さえもんのじょうかげもと)の先祖はこの地から出ている。(493p)
2021年7月24日土曜日
月刊誌を読んで
コロナ禍により図書館で思うように雑誌が読めず予約して借りて読んでいる。発行月でなく遅れて読む「文藝春秋」6月号。今一歩、時代に追いついていない。が、司馬作品の合間に読むにはちょうどいい。月遅れの雑誌を読むにも予約を入れてすぐに借りられるとは限らない。何十人もの順番待ちの後にやっと借りて読むことができる。
「巻頭随筆」欄に朝吹真理子の記事がある。「人間に会えない寂しさが募っているせいか、今年は特に、花に慰められている。散歩をしながら、梅も、桜も、木蓮も、みつけると嬉しくなって、眺める。……」。最初の方だけ読んで、この気持ちに同感する。
日本画の帰りに目にする教室そばの交番横の狭い庭。誰が手入れするのかコンパクトに花が咲いている。これを見て(我が家の狭い庭にも花が咲く?)と気を入れなおして毎日水やりをするようになった。時に、水で薄めた液体肥料を与えることもある。その成果があるのか、長年葉っぱだけだったカラーが今年は見事なピンクの苞をつけた。今、苞はピンクから赤紫に変わって咲き続けている。その横に置く鉢植えのミニ薔薇は2輪花をつけた。その後も新たな芽が出て花をつけそうだ。ガーベラは一度に何本も蕾をつけず1つ咲いては枯れて次が咲く。今も1輪咲いている。紫陽花は梅雨も終わって時季が過ぎたのか新たな花は咲かなくなった。
室内に置いているペペロミアの鉢植え。以前、花屋で一鉢買ったペペロミアは大きくなって3鉢に増やした。そこからまた花穂が出た。これも毎日の水やりが欠かせない。
「文藝春秋」に戻って特別寄稿「晩節における『死』との対峙」を読む。石原慎太郎の記事である。その最後に「池江さんに教えられたこと」と小見出しがある。少々長いがこれを引用させていただこう。
★となれば晩節に於ける肉体の衰弱がもたらす『死』への予感を超克し安定した晩節を維持するために人間は何を杖として自分を支え人生を全うすればよいのだろうか。それは死の到来を予感させる老化を阻止する試みを反復する以外にあり得まい。それこそが人生を全うする唯一の手立てしかあるまい。……最近私は老いくちつつある自分をふるいたたせてくれた劇的な挿話を聞き実際に目にもした。……(池江選手の映像を見て)あれはまぎれもない未だ生ある人間がその強い意思の発露によって生きながら目の前の『死』を超克した歴然たる事実に他ならない。……晩節において当然対峙を強いられる『死』という『最後の未知』に臆することなく彼女のように自ら踏み込んで迎え撃つという姿勢こそが己を失うことなく『最後の未来』を迎えるに間違いない。
自分自身、老いてはいるが今のところ至って元気。そのため今は「死」について考えることがない。が、親を介護した経験から、いつか自分自身にもままならない日が来ると思っている。その時はどんな心境になるのか、今はわからない。が、どの人も同じ道をたどるはず。そう思っている。いつの日か自分自身、この記事と同じ気持ちになるに違いない。心に留めておこう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月23日金曜日
大暑
一年のうちで一番暑い時季はいつ?、と気になり電子辞書で調べる。二十四節気で調べると立春に始まって大寒まで24節あり、小暑、辺りから調べてゆく。大暑は7月23日とあり、今日が年間を通して一番暑い日のようだ。道理で連日34,5度の猛暑日が続く。なお、今年の大暑は昨日の7月22日だそうだ。
今朝もセミの鳴き声がけたたましい。鳴くのも一日中ではなく晴れの日の午前中くらいのようだ。このブログを書きながら、ふと「セミはなぜ鳴く?」と気になりだす。ネット先生に教えてもらうと「鳴くセミはおすだけで、めすは鳴きません。おすのセミは、めすのセミに自分のいる場所を鳴き声で知らせているのです」のようだ。セミも種を絶やさぬように生きのびねばならない。うるさく鳴くのもこれで了解。ヒトもセミに負けず元気に生きねば……。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月22日木曜日
セミの大合唱
本格的な夏になった。3日くらい前からゴミ出しに外に出ると「ジー、ジー」とあちこちからセミの大合唱だ。この夏ほどセミの鳴き声を意識したことがない。それくらいの大音響だ。今朝、ふと思いつく。(セミは雨の日に鳴く?)、と。また(セミが鳴くとカラスは鳴かない!?)のかと。大雨の降った日、カラスの鳴き声は異常だった。ところがセミの鳴き声とともにカラスはどこへ行った、と思うほど鳴かない。
ネットで調べると雨の日にはセミは鳴かないようだ。だが、カラスとセミの関係は探してもわからない。が、カラスが鳴くときは天候などの大きな異変はないらしい。
暑い日が続く。世の中、オリンピックがどうじゃこうじゃと騒々しいが、全く関心がないのは自分だけ!?それよりもコロナの感染者急増の方に目が行く。広島県は数日前までは1ケタ台の感染者数だった。ところが昨日は一気に上がって46人の感染者だ。涼しくなれば近場の旅を、と考えたけどこの様子だと旅の再開は難しそうだ。
というか、県としては外出機会を減らして人との交流をなくすように働きかける。今は、暑くて人と会う気は起きないが、運動不足解消のために毎日買い物で外に出ている。プールが一番体に良いとわかっていてもこう暑くてはプールどころじゃない。ナニゴトもコロナ禍が収まらなくては動きがとれない。せめて家の中でも、と体を動かすように気にはするが泳ぎに比べたらこれくらいでは運動にはならない。
結果、体を動かす部位は目と手くらい!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月21日水曜日
ああ、総会
広〇の会員になって長年音楽を聴いてきた。ところが昨年、コロナ禍で演奏会も思うようにならず、今年度の会員更新を継続しなかった。ところが会員継続を促す振込用紙が送付され、総会の年次報告書なども送付されてきた。総会には出席有無の確認もある。(もう会員をやめるのだから、出席有無のハガキも出すまい)と決めた。ところが先月、事務局から電話があり返信を督促された。(これでもう広〇とは何もない)と思ったら、昨日、7月下旬の臨時総会の書類が届き、出席有無の確認を迫られる。(いつまで書類が届くのだろう)と思いながら欠席のハガキを出す。
会員であれば会費を振り込まなければそれで済む、と思った。昨日の臨時総会の知らせは理事が1名退任し、新たな1名を任命するようだ。総会の理事は県内にある公共や民間放送、電力会社、ガス会社、県知事、市長など著名な人たちが名を連ねている。こういった人たちのおかげで音楽を聴く機会が保たれている。そう思うとありがたい。が、個人でそれを支えるとなると厳しいものがある。
と、何やかやと言いながらも自分自身、歳もとったし、コロナ禍を理由にして脱退する気持ちが加速した。とくに夜の演奏会は控えよう、と思う。と言いながら遊ぶことは話が別と思ったり……。何といい加減なことだろう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月20日火曜日
「巨樹 神様の木に会う 完全版」を見る
NHKのBSで「巨樹 神様の木に会う 完全版」を見た。これは以前の放送を編集しなおして完全版としての放送だ。1回目は今年の元旦に放送されている。2時間の番組だったが、完全版になる前に分割して放送されている。放送分の3分の1くらいは以前に見ていた。
日本に古くから生える巨樹。2千年以上も生き続ける巨樹もある。放送の巨樹は短いもので800年、その大半は千年以上も生き続けている。ところが最後に放送された下関の川棚にある巨樹は樹木の周りを公園にしたために一度は死んでいる。というか芽が生えず枯れかけた状態だった。これは巨樹の根元をコンクリや土で覆ったため、根が酸素を吸収できなくなったためだとか。その個所を何か所か竹筒を入れて空気を入れやすくした。結果、通常とは違う形で芽が出始めた。この芽は確か潜伏芽(?)と言っていた。
巨樹に潜む生きる力が芽となって再び出たようだ。この光景は何も樹木だけでなくヒトにもあるかもしれない、と思えてきた。生きたい、と願う人々の命をよみがえらす芽かもしれない。これはテレビの表現を借りると「不死鳥のごとく甦る巨樹の人知を超えた生命力」とある。今、ネットでその巨樹を探すと「1000年の時を生き抜いてきたパワーがみなぎる、神秘の森。国指定天然記念物 川棚のクスの森」があった。
ほかにも「怖い伝説が生んだ日本一の紅葉の絶景」がある。岐阜県にある大紅葉は日本一と思えるほどだが、決してこれを見に来る人はいないそうだ。撮影中もだれ一人、見学者はいなかったという。大紅葉を見た人は必ず不幸になるらしい。近くに住む人もそう話していた。
放送された巨樹はいずれも見たことがない。木には神様が宿るとか。旅行などの行き先々で大きな木に出会うと思わず触りたくなる。まさにこの瞬間が神様と出会えた時かもしれない。
コロナ禍が収束して以前のように気軽に外へ出られる日が来るまではしばし辛抱の時。昨日は旅行社からメールで旅の情報が届いた。7月は暑すぎる。9月の終わりごろになれば近場へ、とも思ったり。昨日はまた、一日遅れの月命日のお墓参りをする。墓地に着くともう汗びっしょり。参っただけでもいいか、と納得しながらお墓の周りの草を抜く。塩をまくようにしたら大分草も少なくなった。暑さもこれからが本番。遊びに行く元気を出すためには暑い、と言っていてはいけない!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月19日月曜日
天使のミロンガ
今日は予想最高気温が34度になるとか。昨日の最高気温と比べると7度も高くなる。雷が鳴り雨が降る。おまけに連日の地震発生。いったいどうなっているのだろう。母の月命日の昨日、降り続く雨の中を参る気もなく今日、これから参る。
2021年7月18日日曜日
「作ることが、生きること〜陶芸家・辻村史朗〜」
昨夜、いいテレビがないと思ってチャンネルを切り替える。BS1を見ると「作ることが、生きること〜陶芸家・辻村史朗〜」をやっていた。辻村夫妻のドキュメントである。ドキュメンタリーは好きな番組。だが、陶芸家辻村という人を知らない。番組HPによると<名だたる海外セレブが恋する陶芸家が奈良の山奥にいる。辻村史朗、74歳。妻と山を切り開き家を建て、独学で作陶を学び、自然と共に生き続ける-命巡る美しき日々の記録。 ロバート・デ・ニーロなど名だたる海外セレブが恋し、メトロポリタンな美術館など海外の有名美術館が作品を所蔵する、孤高の陶芸家が奈良の山奥に暮らしている。辻村史朗、74歳。妻と共に半世紀、山を切り開いて井戸を掘り、家を建て、師を持たず独学で作陶に挑み続けてきた。作ることが、生きること-野草を摘み畑を耕し、人間の本能に忠実に生きようとする辻村に半年間密着。命巡る美しき日々を4K撮影で彩り豊かに記録した>とある。
年齢的には同時代を生きている人だ。19歳で禅寺に入り、今は陶芸を生業にする人の口から出る言葉は「生きる」。花に囲まれて暮らすターシャや越後で古民家を再生するドイツ人建築家、そして養老孟司の猫との暮らしなどNHKの自然と暮らすドキュメンタリーをよく見る。昨夜の番組もこれと同じくらいインパクトある番組だった。
何かを窮める人は凡人とは全く違う。なぜそこまで考える、と思うほど極みをつくす。同じ陶芸家の息子も父親の姿をそう見る。ただただ、モノを作っていないと生きている気がしないのかもしれない。それも自身が納得する器を、である。
板の間で湯を沸かし、自身が作った器で茶を点てて飲む。作品ができれば茶を点てて飲んでいる。器の出来具合を確かめているのだろう。陶芸の合間には外に出て野草を摘み、自分でそれを調理して食べる。自然と共に生きる暮らしだ。テレビを見ていてまるで異次元の暮らしに思え、これはこれで人が生きる上で大事な暮らしに思えてくる。自分自身、到底まねのできない暮らしぶり。だからこそあこがれをもって見るのかもしれない。
話は変わって、昨日は日本画教室の日。先生からいただいたサムホールの木製パネルに鳥の子紙を貼り、地塗りする。地塗りは水干絵具のあまり使用していない絵具を塗る。違う色で2度ほど塗る。ティータイムになった。以前、教室で習っていた人が来場とのこと。先生の初期の頃の教え子らしい。個人的には所属する某比較文化研究会で2度ほど会っている。教室の人にお土産持参で来られた。しばし、絵を中断して話が弾む。教室の人は私ともう1人を除いて先生の教室の初期の頃からの生徒だ。その人は絵はもちろんクラシックバレエ、オペラ出演と芸術性がある人のようだ。
コロナ禍で家でひっそりと過ごすことが多い。教室に出かけると人に草臥れるのか、今朝の起床が遅くなった。ましてや大雨が降っている。梅雨明宣言後なのに雨は毎日のように降る。おまけというのではないが地震もある。昨夜もそうだ。椅子に座っていた。震度2か3のようだが地震は長かった。今朝は外で雷が鳴りだした。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月17日土曜日
こころ旅
火野正平が自転車に乗って出かける「こころ旅」。昨日で北海道の2週間の旅が終わった。簡単には行かれない北海道。ましてやこの1,2年はコロナ禍で思うように動けない。こころ旅は視聴者の心に残る地を火野正平が自転車で巡る。
心に残る旅は沢山あっても(さあ、一つを選べ)、と言われると(さて何処へ)、と迷ってしまう。ましてや生まれてからこの方、ずっと同じ地に住んでいる。取り上げられた旅は以前住んでいた場所や子供の頃に親に連れて行ってもらった場所などが多い。そう思うと子供の頃のこういった旅の思い出がない。
北海道の最終日の旅はオホーツク海を目指す。自転車に乗っての旅は車にはない旅のよさがある。道路わきに生える草花や風景もゆっくりと見える。木々の間を自転車が行く。(さぞかし気持ちいいだろう)と思って見ていると坂道が続く。自転車をこぐのもきつそうだ。下り坂では楽なのか道端に生えている花などに目をやり、歌も出る。網走からオホーツク海が見えるまでの旅はさすがに北海道。道がまっすぐだ。
2年前のこの頃、知床や釧路辺りへ行った。自転車の旅に映る木々や花々に見覚えがある。小清水原生花園で見た風景がそうだ。
こころ旅はしばらく休みで秋にまた旅が始まる。観光バスの旅もいいが自転車に乗っての旅も面白そうだ。とはいっても広い北海道。凡人が、ましてや老人が自転車で行く旅となるとそれは夢でしか行かれない。せいぜい、テレビの旅を楽しむ!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月16日金曜日
テラソン編曲「夢のあとに」
2021年7月15日木曜日
「折紙付き」
NHKの「先人たちの底力 知恵泉」、<真打折り紙国宝の謎 日本刀 猛(たけ)き心を満たせ>を見た。なんと刀から派生した言葉として相槌を打つ 頓珍漢 土壇場 折紙付きなどがあるという。折紙は秀吉が唱えたようだが、この意味に品定めの意味があるという。「折紙付き」というようにそのものの価値や品質を保証する。秀吉の時代、戦があると刀が散らばった。この中には立派な刀があるかもしれない。秀吉は刀狩をして人々に刀を集めさせた。そして刀の品質を鑑定して立派な刀は秀吉が折紙を付けた。
番組HPには「力と美を兼ね備える日本刀。あまたの人々の心をとらえるまばゆい輝きのウラには日本人が長く培ってきた知恵があった。武士の台頭でフォルムが大変化!そこには無理難題に悩み克服した刀工の格闘が!一振りの刀が一領国の価値がある?!そこには太閤秀吉の戦略が!日本刀に秘められた物語を酒肴(こう)に今夜もゆるりとお楽しみあれ。徳川将軍家を呪う妖刀、信長の愛刀などお宝も続々。庖(ほう)丁人土井善晴の名刀?も登場します」とある。
刀から派生した言葉である相槌を打つがある。刀をつくる際、鍛冶の職人が2人で交互に槌を打ち合わすことから相槌を打つが生まれた。その際に発生する音が頓珍漢と聞こえたからこの漢字を当てはめた。そして土壇場は刀で斬首の際に穴を掘って築いた土の檀から派生している。
刀、という言葉からいろいろと言葉が生まれた。普段何気なく使っている日本語だが、そんな言葉にも意味が込められていたとは……。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月14日水曜日
『嘘かまことか』
相変わらず司馬作品を読んでいる。読み始めて2年8ヶ月、かなり読んだ。が、司馬遼太郎の著作は半端なく多い。このごろは司馬遼太郎の全作品読破がライフワークとなりつつある。というか、ライフワークにしよう。そのためには元気でいなくてはいけない。合間には図書館へ新刊の予約を入れる。2冊確保した1冊を読み終える。それは『嘘かかまことか』(平岩弓枝 文藝春秋、2021年)で『オール読物』に掲載したものを単行本化している。平岩の本をあまり読んだことがない。もしかして初めて読んだかもしれない。代々木八幡宮宮司の娘である著者自身のことや家族、そして作家として世に出るきっかけを作ってくれた師匠の長谷川伸や戸川幸雄のことなどを書いている。平岩の夫は長谷川伸の同じ門下生だった。神社の一人娘であったためか婿入りしている。
以下はいつものごとく気になる箇所を記そう。
★人生は儘ならぬものではあるが、当人がその気になれば、師匠はどこにでも居るし、学ぶことは多い。人は死ぬまで勉強と努力。生きるということは、新しい価値を生み出すことだ。これは晩年の長谷川先生のお言葉だ。日暮れて道遠し、昔の人はいい事を言う。(114p)
他に次のことも気になる。昭和34年、宮内庁から参内するようにとの電話があり皇居へ向かう。当時、著者はテレビドラマの「旅路」を書いていた。そのことで陛下から話を聞きたいとの電話だった。その際の様子や実家の代々木八幡宮の松のことなどを聞かれたようだ。その最後に「来る時は足取りの重かった私だが、帰りはお土産に(恩賜の煙草とお菓子)を頂いて、いまにも駆けだしそうな気分で宮中を後にした」そうだ。(132p)
恩賜とはお上からの頂き物。今の時代は何になるのだろうか。恩賜を電子辞書で調べると恩賜煙草が出てくる。菊の紋章入りの紙煙草らしいが、皇居の清掃団にも配られるようだ。煙草は今では吸う人が少ないから違うものが恩賜〇〇になっているかもしれない。こういったことは自分自身と全く関係ないことだが……。ただミーハーになっただけ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月13日火曜日
成田発はどこ行き?
今年も水彩画展の案内状が届いた。8月のお盆前後にデパートで開催される。送ってくれた人の顔は知らないが絵は知っている。風景画の絵は絵葉書にしてある。来場者を確かめるのか番号も添えられている。見に行こう!
昨日のお昼1時、雷が鳴り響く。お昼というのに外が暗くなる。その時、パソコンで遊んでいた。部屋の電気が消えた。パソコンは充電になっているのか消えずにそのままだ。(停電?)と思ってブレーカーが落ちているか確かめる。落ちていない。他の電灯を点けて試すが点灯しない。(やっぱり停電だ)と思っていたら電気が点灯した。それからが大変。今や何にでも電気が使われている。トイレもお風呂も電気なしでは利用できない。早速、お風呂の時計設定とトイレの電源を入れなおす。電話機も入れなおさねば使えない。もっともっと文明的な暮らしの家はいざ停電となれば大変なことになりそうだ。
気を取り直してTVerで徹子の部屋を見る。岡田茉莉子夫妻が出ていた。ともに88歳になるとか。どういっても姿勢がいい。この年齢の人が出ると大概、骨折の話になるがそんなことは一切関係ないくらい元気なようだ。旦那はジム通いを1万日(42年間)続けている。岡田はエアロビクスとジャズダンスに5千日、通っているという。コロナ禍の時は家にマットを敷いて二人で運動し、外を1時間半歩くという。この話を聞いて思った。これまでいろんなことに首を突っ込んだできた。しかし体を表現するダンス系統をやっていないと。数年前に某研究会でクラシックバレエの先生と話したことがある。本格的なバレエでなく体を動かす基礎的なことを習ってみたかった。が、その勢いに乗れずそのままになった。
夫妻の話に刺激されて(プールで泳ごう)、という気になった。今、泳ぎを中断している。気候が落ち着いてきたら泳ぎに行こう。
岡田夫妻、と思って思い出す。もうかなり前のことになる。成田空港の出発ロビーで搭乗待ちの夫妻を目にした。二人とも黒づくめの服で一般人とは違うオーラがあった。(有名人とはこんな人たちなんだ)、と思った。自分自身、どの国へ行った旅なのか、旅のメモを見ても思いつかない。いずれにしてももう20数年前のことになる。
外国旅行の行き先、出かけた日、日数、旅行社は記している。が、出発した空港を記していない。成田空港からの出発は近場の国ではないはず。そう思えば1998年のイラン、1999年のポルトガル、2000年のドイツ辺りか。考えても今はわからない。
行先を記したメモが薄くなって見えにくくなった。ブログの下書きに書き直して保存しよう。しばし、昔を振り返りながら……。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月12日月曜日
『関ヶ原』(下)
朝のラジオで旬の野菜ならぬ、花を市場の人に聞いていた。花の名はクルクマ。聞いたこともない名前の花だ。電子辞書で探すとウコンと同じショウガ科に属する花らしい。だが、どんな花なのか画像がない。市場の人は花でなく苞と話していた。ネットで検索するととてもきれいな花だった。
相変わらず司馬作品を読んでいる。以下は『関ヶ原』(下)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年第百三刷)からの抜粋。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★家康の経験では、欲の熾(さか)んな人物ほど理解しやすくまた御しやすいものはない。その欲のありかを当方で洞察し、利をもって釣れば簡単にころぶ。いかに正義信もあり、道理に明るい人物でも、欲心のつよい男はついには欲に負けることを、家康は知っている。(28p)
★東軍の一行池田長吉の条理をつくした開城勧告をついに容れ、行弘は弟の行継とともに肩衣に扇子一本をもった隆将のすがたで城門を出、そのまま高野山に走り、入道して道喜と号した。この行広には後日譚がある。行広は戦後なお生き、家康の秀頼に対する仕打ちをみて、「あのとき、いずれが正か邪か納得できるまで兵を動かさぬ、と申したが、今ようやく納得したわ。家康は邪である」とし、関ヶ原戦後十五年目におこった大坂ノ陣に参加し、翌元和元年の夏ノ陣に天王寺口の激戦に加わり、味方の壊滅後城中にひきあげ、秀頼に殉じて自刃している。(36p)
★前線の諸将の本心はこれでわかったし、その緒戦の勝利も確認できた。これを確認するまで立ちあがろうとしなかった点、家康の周到と慎重という性格が、遺憾なく発揮された。この冒険嫌いの老人は、戦略の冒険性をすべて消してゆき、勝利がほとんど事務化するほどの状態にまで事を運び、時を待ち、しかるのちに腰をあげようとするのである。(154-155p)
★家康はむしろ、戦国以来、諸大名がもてあましてきた本願寺の勢力を、この教如を用いることによって二つに裂こうと考えた。やがて戦後、京の本願寺の東側にいま一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主にしてやった。いわゆる東本願寺である。全国の本願寺の末寺は二つに割れ西本願寺のほうには一万二千カ寺が残り、家康によって創建された東本願寺のほうに九千数百が集まった。(162p)
★――自分以外に神をもたぬ。という点では、信長も秀吉もそうであったが、三成はなおその極端なほうであろう。彼のいまの場合、その戦略である。かれが想定し、その想定の上で高々と組みあげた、対家康戦の戦略に、かれ自身が信者になった。(162-163p)
★三成の不幸は、こんにちの家康や、過去の信長・秀吉のように自前の大軍をもたぬことであった。三成の立場は単に諸侯の勧進元にすぎず、それも財力の点で乏しすぎる興行師にすぎなかった。(185p)
★(頭のするどいお人だが、やはり素人だ)と左近はおもった。戦さは、頭脳と勇気と機敏さの仕事だが、その三つがそろっていてもなにもならない。三成の場合、その三つは信長、秀吉とさほど劣らぬであろう。しかし致命的にちがうのは、三つを載せている資質だった。受け身の反応なのである。左近はそう思いつつ、素人だとおもった。(208p)
★間諜の使用と敵の内部撹乱のうまさは、乱世を生きぬいてきた家康は長技であったが、乱世をさほどに知らず治世のなかで世間感覚を学んだ三成には、その能力に欠けていた。(245p)
★得手不得手というものほど、奇妙なものはない。城攻めがたれよりも得手だったのは秀吉で、気がみじかいといわれている信長でさえ不得手ではなかった。ところが家康はこれを好まず、つねに城攻めを避け、ひたすらに野外決戦を好み、これを得手としてきた。(276p)
★「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)との八文字を大書した大旆(たいはい)を霧の中にひるがえした。これは徳川軍の戦争哲学を言いあらわしたというべきであろう。現世(穢土)をきらい、死(浄土)をあこがれよ、という浄土宗の言葉である。家康の宗旨は浄土宗で、麾下の士にもこの宗旨の者が多い……四キロむこうの笹尾陣地にひるがえっている三成の大旆の「大一大万大吉」の六文字が、勝利の運を呼ぼうとする現世利益のにおいに満ちているのにくらべると、家康の八文字はひどく厭世的であった。(313-314p)
★三成は、平素、源平盛衰記を愛し、ついには暗唱するばかりになっている。源家の再興と同様、志ある者は、十たび敗れても最後の一戦でその志を遂げるべきだ、と三成はいうのである。(418p)
★(世には、ふしぎな人間もいる)と、三成は、この百姓の甲斐々々しさを見るにつけ、いま一つの人の世を知る思いがした。……(義というものは、あの社会にはない)関ヶ原の合戦のなかばにして三成はようやくそのことを知った。利があるだけである。人は利のみで動き、利がより多い場合は、豊臣家の恩義を古わらじのように捨てた。小早川秀秋などはその最たるものであろう。権力社会には、所詮は義がない。……(しかし、人間には義の情緒はある)そこに、与次郎太夫がいる。痩せた、顔色のわるい、中年の百姓である。この取り柄もなさそうな男が、死と一家の滅亡を賭けて三成をかくまい、このように看病してくれている。(460-461p)
★「人々の心の底を、この目で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見どけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見届けた上でなければ死ぬ気にはなれなかった。三成は秀吉在世当時もその検察官的性格のために人々にきらわれたが、この期にいたっていよいよそれが露骨になり、いまや地にすわらせられながら、馬上の勝利者どもを検断する気魄だけで生きているようであった。(469p)
★――なぜ自刃されなんだか。ときくと、三成は正純を憐れむように微笑し、「ここ心事はこの大事を起こした者のみが知る。古に頼朝あり、いまに三成がある。汝らのような葉武者の知るところではない」といった。正純はおどろき、葉武者。と、あごをひいてつぶやいた。正純は家康麾下では万石の大名なのである。三成にひきつづいて、安国寺恵瓊、小西行長もとらえられ、大津に送られてきた。家康は、満足した。(474p)
★「あの男は、成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤への何よりもの御馳走になったであろう。豊臣政権へのほろびにあたって三成などの寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。かつは置き残して行った寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉もみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。(492p)
★実際、歴史上の事件が、人間についての洞察と秀れた描写力を通じて、われわれの身近なものとなるところに、司馬文学の魅力の重要な要素がある。(496p「解説」より)
2021年7月11日日曜日
信州・戸隠の絵、完成
信州・戸隠(写真) |
信州・親海(およみ)湿原(写真) |
2021年7月10日土曜日
JRの運行!?
2021年7月9日金曜日
「稗史」(はいし)
「雨は~降る、降~る」、といった風流な雨ではなく、これでもかというほどひどく振り続く。昨日降った市中の短時間の雨は3年前の豪雨災害よりも勝るとか。今、サイレンが鳴りだした。隣町のサイレンだ。何を伝えているのか聞こえない。が、急を知らせるサイレンかもしれない。昨夜は深夜零時に隣町の町内放送で目を覚ます。さらに鳴り出したのは救急車のサイレンだ。けたたましくなる。ナニゴトもなければいいが……。
話は変わって今朝の地元紙を見ると歴史には正史と稗史(はいし)があるという。恥ずかしながら「稗史」を知らずにいた。稗史とは庶民の暮らし目線の歴史らしい。電子辞書で調べると「昔、中国で稗官が民間の風俗・人情などの、こまごまとした事柄を集めて記録した書物。また、小説風に書かれた歴史書。民間の歴史書」とある。
これにならってかどうか、文芸誌「新潮」3月号に「コロナ禍日記リレー」特集を組んで作家たち52人が1週間ずつ執筆して1年間リレーしている。作家が綴る日記は文学となっている。著名な作家がなくなるとすぐにそれが書籍化される。まさにそれに当てはまりそうだ。
雨が降り続き、落ち着かない日々がつづく。これもあと2,3日すれば梅雨明け間違いなさそうだ。それまでは雨との闘い、それ以後は真夏の暑さになる!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月8日木曜日
避難指示
昨夜から降り続く雨、真夜中の地震、そして今朝の大雨に関する避難指示等で少々寝不足気味。今は雨はやんでいる。真夜中の1時24分、地震で目が覚める。震度2だった。今朝は6時20分頃とその後に緊急エリアメールが携帯に響き渡る。家の外からは隣町の避難指示を知らせる町内放送が延々と流れる。ましてや雷と共にひっきりなしに降り続く雨。寝ている場合じゃない。避難指示の一番怖い表現は「〇〇川が危険水域に達し、洪水の恐れがある……」。今は小康状態なのか雨も止んでいる。
我が家の前が避難所となっている。たった数歩、歩くだけだ。家にいる方が安全と思って外に出る気は全くない。しかし、もしも川が氾濫して洪水となると話は違う。生まれてこの方。家が水に浸かったことはない。大丈夫とは思う。が、外野が騒々しいとじっとしておれない。普段は朝からテレビをつけない。が、今朝はテレビを見たり、ラジオを聴いたりと落ち着かない。これから先、10日くらいまでは雨に注意が要るようだ。
新幹線は止まっている。在来線はどうなのか。列車の音が聞こえない。世の中、何もかも早く落ち着きますように、と願わずにはおれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月7日水曜日
図書館へ
『関ヶ原』全3巻を読み終え、次は『国盗り物語』全4巻を読む。この1巻目を読み終えそうなので2巻目を借りに図書館へ向かう。図書館は区の文化センター2階にある。昨日は広島県や岡山県を襲ったあの豪雨災害から丸3年になる。区民文化センター前には慰霊祭開催の表示がある。中に入ると物々しい雰囲気が漂う。うろうろしていたら失礼になりそうですぐに2階の図書館へ行き、『国盗り物語』の2巻目を借りる。月日の経つのは早い。地元紙によると災害の慰霊祭は各地で行われていた。
天気予報を見ると今週中はぐずついたままの状態だが、来週初めは晴れの日が続いて梅雨明けとなりそうだ。3日くらい前から蒸し暑さは半端でない。泳ぎに、と気も焦るがこう蒸し暑くては動きも鈍くなる。そのうち夏休みも始まればまたまたプールから遠のく。無理して泳がなくてもいいか、と自分を甘やかすこの頃。それだけ歳をとった証拠かもしれない。
今夜の歴史探偵は独眼竜・伊達政宗。この人を主人公にした司馬作品を読み終えている。司馬作品を読んで、歴史番組にまで影響を受けていると思った。昨日は他にも図書館の書架にあった長曾我部元親の子孫が書いた作品を借りる。3,4頁読むと長曾我部元親の元を糺すと中国の秦氏が先祖とのこと。その子孫が本を書いている。
歴史好きでなかった頃は歴史そのものが本当かどうかわかったもんじゃない、と疑っていた。ところが現代、近代と昔にさかのぼるにつれて歴史が少しでもわかりだすと面白くなる。歳をとるにつれて好き嫌いが激しかったことが大分薄れてきた。ナニゴトも食べず嫌いでなく、一度は首を突っ込んでみるのもいいと思えるようになった。嫌いなこともやれば興味が増す!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月6日火曜日
「友近・礼二の妄想トレイン」
BS日テレで「友近・礼二の妄想トレイン 特別編・etSETOraで行く瀬戸内の旅 前編」を見た。”etSETOra”、とはJR呉線や山陽本線を走り始めた観光列車。旅の募集パンフにもこの列車利用の案内がある。だが、まだ利用したことはない。昨夜のテレビでは呉駅から三原駅までを”etSETOra”に乗り、三原で在来線に乗り換えて次の糸崎駅まで乗車。糸崎でまた乗り換えて尾道で下車している。一駅ずつの乗車は乗り換える度に列車が代わり、トレイン好きとしてはたまらないからだろう。
JR呉線と山陽線が通る街に住んでいる。小さいころから列車というか汽車の音を聞きながら育った。列車への物珍しさはないが、鉄道ファンはいるもので自宅最寄り駅ホームにもたまに列車を待ち受けるファンがいる。昨夜の友近も礼二もまたゲスト2人も列車が来るたびに大はしゃぎで写真に撮っていた。
呉線を走る”etSETOra”からは呉駅を過ぎると瀬戸内海の島々が見え、また牡蛎筏を目にする。牡蛎筏といえば小さいころに近くを流れる川へ遊びに行くと必ず筏が浮いていた。それくらい筏のある風景はめずらしくない。この”etSETOra”は古い型のディーゼル車を改装している。広島駅の芸備線を走るディーゼル車と同じ型らしい。一方は古い車両であり、もう一方は”etSETOra”の豪華列車となって走っている。
テレビでは特別列車として運行されたので貸し切りだ。豪華になった列車内では飲み物、スイーツなどと至れり尽くせりとなっている。この日は車内で食べるお弁当を広島駅でゲストが購入。それを友近と礼二に配る。友近は「お弁当といえばむさしが日本一」とゲストに教えていた。広島に住んでいればお弁当といえばやはり「むすびのむさし」のお弁当が有名。またうえののアナゴ飯もいい。
昨夜は尾道までの旅だった。次週は三原から新たに就航した観光船SEASPICAでの旅のようだ。SEASPICAは昨年秋のGO TOを利用して乗船している。船は瀬戸内の島々に立ち寄って呉港や宇品港に到着する。都会に住む人が瀬戸内の海を船上から眺めると一幅の絵に見えるかもしれない。
妄想トレイン、という番組だが、今回は妄想でなく実際に乗車しての旅だった。礼二曰く、「旅の途中なのにまた次の旅に出かけたい」、と。ホント、どこかへ行きたい!
そういえば先日のNHK・BS「こころ旅」でテレビクルーは火野正平が手紙を読む場面で「中川家の礼二さんがこの番組のファン」、と話していた。それくらい礼二は旅好きのようだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月5日月曜日
情報
梅雨明けが近づくと豪雨災害に見舞われるように思える。それはなぜ?3年前の広島の豪雨災害もこの時季だった。今回は熱海辺りがひどいことになっている。災害といえば2011年3月を思い出す。その前の月、母を亡くした。テレビ画面に映し出される悲惨な光景は見たくない。それ以来、ニュース番組を見なくなった。今回の災害もテレビを通して見ることはなく、もっぱらラジオや新聞報道で知る。
テレビはニュースを見るのでなく、もっぱら娯楽のためにある。その思いが強い。それも嫌な場面がある番組は決して見ない。嫌なことを我慢して見たり聞いたりすると感情移入が激しいものにとっては自分自身が大きな被害を被ったようになる。それが嫌!
ここまで生きてくると嫌なモノ・コト・ヒトとはかかわりたくない。人に聞いたことがある。道が分かれている場合困難な方に進む、という。困難も自分自身が目的とするのであればそれもOKかもしれない。が、あえて嫌な道を歩むことはない、との思いが強い。
何もかも受け入れてしまうと病気になる。わが身を守る方法は災害だけでなく、メディアなどの受け入れ方にもありそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月4日日曜日
1か月ぶりに日本画教室へ
日本画教室に1か月振りに出かける。コロナ禍での休みとはいえ、この1か月が長かった。気の置けない教室の仲間と会うとホッとする。各自の机の上に何か置いてある。日本画の展覧会案内が2通とA3くらいの用紙1枚、そして日本画教室の作品展の詳細事項が書かれた1枚がある。9月に予定の作品展は11月上旬に変更となった。今年の作品展は例年と違って会場が倍くらいある。展示物は各自5m以内と決められ、A3の用紙はどれくらいの大きさの絵をどれくらい展示するかを書くようになっていた。
昨年、作品展はコロナ禍で中止となった。教室の先生は昨年と今年の2年分の作品展にしようと意気込んでおられる。しかし、個人的にはF6の大きさの絵を2点出すだけ。50号くらいの大きな絵を描く人もいる。その人たちに展示場所を使ってもらえばいい。
昨日の教室でミニ薔薇をくれた人にまずは携帯で写した写真を見せる。「今、薔薇の花が咲く?」と不思議そうだった。ましてやミニ薔薇なのにミニとは思えないくらいの大きさで咲いている。不思議がられるのも無理はない。これもすべては水と肥料と太陽のおかげに違いない
描いている絵は湿原に生える大きな樹木。気長に納得するまで描くつもり。その気持ちが先生にも伝わるのか、そっと見守ってくださる。1か月ぶりに目にする描きかけの我が絵も久しぶりに見ると(こんなもんよ)と思えてくる。決して納得する絵ではない。が、割と根気良く絵と向き合っている。絵具を溶いてさあ、と絵に取り掛かろうとする。先生は胡粉も別の絵皿に溶くようにとアドバイスされる。溶いた黄緑と胡粉の白を調整しながら混ぜる。これを木の幹に点、点、と描いてその上に水を含ませた筆をおいてゆく。
幹らしくなった。残りの絵具を樹々の間に陽が射すように塗ってゆく。途中、塗った箇所の絵の具が渇いたところで絵を眺める。絵らしくなる。かなり自分でも納得して思わず(いい具合になった)と声が出る。教室の人に変に思われそうだ。が、そこはいつものこと。この瞬間が絵を描くというか習う楽しみかもしれない。
3時間の教室は結構長い。途中、ティータイムをはさむ。各自持ち寄ったお菓子などをいただきながらしばしおしゃべりタイム。その時はティーならぬ珈琲を自販機に買いに行く。楽しいひと時だ。教室の人曰く、「絵を習いに来ているのかしゃべりに来ているのかわからない」、と。同じく自分もそう思う。これくらいの楽しみがないとナニゴトも長く続かない。別に今さらプロになるわけではない。楽しむために習っている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月3日土曜日
ミニ薔薇が咲いた!
昨夜は今季一番の蒸し暑い夜だった。沖縄の梅雨が明け、しばらく蒸し暑さが続くと広島も梅雨明けとなるだろう。その間、しばらく蒸し暑さに辛抱する!?
1か月ぶりに日本画教室が始まる。冬に教室の人が絵のモチーフにと持参した鉢植えのミニ薔薇。そのミニ薔薇をもらって帰った。冬にいったん咲ききったミニ薔薇を一回り大きな鉢に植え替えた。それから4,5か月経過してまた蕾をつける。2輪の花を咲かせた。今朝見ると深紅のミニ薔薇はまるでビロードのようにきれいに咲いている。早速写真に撮る。今日の日本画教室で元の持ち主に花の咲き具合を見せてあげよう。
我が家の庭は狭い。日本画教室の近くに交番がある。誰かが世話をするのか交番の狭い庭に色とりどりの花が咲いている。我が家の庭よりもさらに狭くても手入れをすれば庭らしくなる。そう思って鉢植えで買った花は花の時季が終わると鉢を大きくしたり、地に植えなおしたりしている。今年は毎日の水やりを続け、時に水で薄めた栄養剤を撒いている。そのお陰なのか、カラーが花をつけ、紫陽花やミニ薔薇、そしてガーベラも咲いた。ちょっとの手入れできれいな花を咲かせる。これもコロナ禍の暇つぶしに気づいたことかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月2日金曜日
広島国際空港誕生
昨日付で広島空港が民間による経営となり名称は広島国際空港となった。国際がつくだけでなんだか大きな空港に思えてくる。が、実際はそうでもない。ただ、何年後かを見越した計画を見るとヘルシンキへ向けての飛行もあるようだ。とはいってもこれもすべてはコロナが収束しなくてはどうにもならない。2月に10年用のパスポートを更新した。外国へ行けそうにもない時の更新だったが、ここに来てヨーロッパへの直行便が飛べばまた遠くへ行ける、との希望が湧いてくる。
国内向けには石川県などへの飛行計画もあるようだ。4月に定期便が飛ばない五島列島へチャーター便を利用して出かけた。1時間足らずで福江空港に着く。広島空港そのものは街中になくて少々不便。だが、広島国際空港と名称も変わり空港へのアクセスも考慮されるようだ。コロナが収束し、また以前のようにどこへでも行く機会が増えるのを楽しみにして……。
今朝の地元紙に掲載の訃報記事。社会人大学生として学んだ頃の先生だ。まだ70代の若さで亡くなられている。それも老人ホームで。老人ホームが悪い、というわけではなく、(なぜそこで?)と思ってしまった。ましてや年齢的にも自分自身と大差ない。それなのに……。
社会人として学んだ時期から今年で12年が過ぎた。在学中も修了後も教えてもらった先生の訃報を何人か目にした。現役での病死や自死も含めてどの人の死も早すぎる。他人から見れば自分自身も高齢者に間違いない。が、自分がこの世からいなくなる、とは今は想像できない。死は誰にもやってくるとはわかっていてもまだまだその境地にまでには至らない。母がいなくなって丸10年。母の年まで生きるにはまだ20年ある。その思いが底辺にあるのか人生これからと思っている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年7月1日木曜日
『関ヶ原』(中)
鉢植えのミニ薔薇が咲き始めた。梅雨のこの時期、狭い庭にいろんな草花が生えてくる。昨日、目にしたのはベゴニア。そこらじゅうに芽を出す。電子辞書で名前を確認するとベゴニアの仲間である秋海棠(しゅうかいどう)だった。何でも増えすぎるとよくない。
『関ヶ原』全3巻をやっと読み終えた。天下分け目の関ヶ原の戦い。家康に敗れた三成。その最後に三成が家康から辱めを受ける場面は芝居好きでなくても司馬作品を通して目に映る。それは下巻の最後にあるので、後日、アップしよう。今回は『関ヶ原』(中)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年101刷)から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★「申されよ」惺窩はいった。「古聖賢の語に、絶ヲ継ギ傾ヲ扶ク、ということがござりまする」と、山城守はいった。語の意味は絶えんとする家にあとつぎを作ったり、傾こうとする家をたすけるのは、義ある者の道であるということである。暗に豊臣秀頼を扶ける、ということをさしている。……「これを行おうとしております。先生はどう思われましょう」惺窩は沈黙した。義のために家康を討つという秘事をこうも堂々と明かされては、なにを答えてよいかわからない。ついに沈黙のままで座を去り、宿舎を出、その軒下で星を仰ぎ、「天心いまだ禍を悔いざるか。億兆の生霊再び塗炭の苦しみを受けんとす」という一語をのこして大津の宿を去った。(21-22p)
★「早々にじゃ。会津の陣にこの太刀をもってゆこう」たったいまの孟宗竹のごとく上杉景勝を斬る、という意味である。この一言は、一座の諸大名の耳に雷霆(らいてい)の走る音のように聞こえた。家康が会津上杉家を討つ、という宣言であったといっていい。やがてこの庭先からこの声は六十余州にとどろきわたるであろう。(142p)
★石田三成と大谷吉継の関係は、ひどく現代的で、ひょっとするとこの時代では稀有の例に属するであろう。西洋の概念でいう友情(フレンドシップ)というものは明治後の輸入倫理で、徳川期の儒教思想にもあまり見られないし、まして戦国、またはさかのぼって鎌倉期の武士の倫理の中では皆無といってよかった。その点でも、三成と吉継の友情は、珍奇とするに足るであろう。(212p(
★この国はじまって以来、僧侶で僧侶の形のまま大名になった者は。この人物しかない。その点、この時代でも珍奇な存在とされていた。安国寺恵瓊である。(226p)
★秀吉が死んだ。家康が政権を簒奪しようとしている。俊敏な観測者である恵瓊は、当然、――つぎの代は家康。と観測したいであろう。しかしかれはそれをしなかった。逆に家康を阻む側に立った。恵瓊にとって、彼の作品である豊臣政権を破壊しようとする者は、何者であれ、ゆるせなかった。(許さぬ男が、もう一人いる)佐和山の三成である。(232p)
★異装の人が歩いている。例の学者、藤原惺窩である。袖のひろやかな古代中国服を着ていたし、それにこの当時、「学者」という奇妙な自由職業をはじめたのは天下でこの藤原惺窩がだだひとりだったから町のひとびとはたいてい知っていた。(365-366p)
★播州を脱走し、京に入って僧となり学問に専心した。途中僧をやめて髪を貯え、道服をまとい、「儒者」と称した。儒者という倫理・政治哲学を窮める学者は徳川時代になって群がり出たがこのころは惺窩ただひとりであったといっていい。(368p)
★家康にとって上杉征伐など鷹狩り程度のスポーツにすぎない、というところをもみせる必要がった。そうなればかれらの心象に映じている家康像はますます巨きくなり、一身一家の運命を安堵して家康に託する気分が濃くなるにちがいない。いま家康にとってもっとも大事なことは、豊臣家諸侯に自分の威服をみせてかれらの心を攪ることであった。つぎに、理由がある。(天下をとる日はちかい)ということであった。(382-383p)
★人間というものは、運命の前ではこれほど珍しい動物はいないであろう。千里眼のごとく形勢を見通しているこの二人でさえ、江戸の人口が大坂どころか世界の一、二をあらそうようになろうとは、夢にも予想しなかった。かれにはただ現在のところは、上杉征伐と三成挙兵の予想、という二つの材料をどう処理するかということしかなかった。それだけでも、家康の立場からいえば、大化改新以来、日本史上の最大の規模をもつ仕事であろう。(385p)
★余談ながら秀吉のやり方、性格はすべて商人的であった。戦国中期以後の日本に成長した華やかな産業資本のやり方、気風というものを秀吉は濃厚にもっていた。かれは少年のころ、針などを売り歩いて旅をしたというそういうものが、成人後のかれを商人的な派手さ、商人的な投機好きにもって行ったのであろう。それにくらべて家康の生家松平家はもともと三河松平郷の豪農である。しかも三河は秀吉もうまれた隣国の尾張のような商業資本は存在しておらず、発生の条件もなく、純然たる農業地帯であった。家康の思想、ものの考え方、趣味にいたるまでが農業的であり、農家の大旦那ふうな地味さをもっていた。そういう家康と秀吉のちがいが、その居城のたたずまいにまであらわれていた。(386-387p)
★狡兎(こうと)死して走狗烹らる、ということばがある。すばしっこい兎が野山で取りつくされてしまうと、それまで猟師のために働いた猟犬が不用になり、殺して烹て食われてしまう、という意味である。如水はそのことばも知っている。(まだ殺されぬがましだ)とおもっていた。この男のおもしろさは、それを皮肉に思ったり拗ねたりしないところであった。……(当然の運命だ)とおもっている様子であった。如水とはそんな男だった。(411p)
★心の底からいえば、如水の敵は三成ではない。三成を家康にほろぼさせ、その家康が如水がほろぼす、というのがこの男の戦略であった。だから如水にすれば、この時期、三成をも家康をもだましておく必要があったのである。(421p)
★かれは信長や秀吉のように自分の天才性を自分自身が信じたことは一度もない。常に衆議のなかから最も良好と思われる結論をひろいとった。自分に成案のあるときも、それを隠して衆議にはかった。結局はかれ自身の案を断行するにしても、衆議にかけることによって、幕僚たちは頭脳を練ることができたし、それを平素練りつづけることによって徳川家の運命を自分の運命として感ずる習性を養った。(430p)
★「兵部、若い」と、正信が半畳を入れた。若いというのは諸大名の人情を察する上においてである。(135p)
★(なにか、上様は企んでおられる)正信はおもった。総大将というものは運命的な戦いに出るとき、多く、全軍の士気をあげるような演技をするものだ。足利尊氏も丹波篠村八幡宮でにわかに鎌倉幕府を討つ決意を表明したし、織田信長も桶狭間への出撃の途中、社頭で表裏同じの銭を投げて勝敗をうらない、勝ちの目を出し、全軍の士気を鼓舞したということもある。秀吉もそうであった。光秀を討つために播州姫路を出発するとき、髻(もとどり)を切った。信長の弔い合戦である、という悲壮感を士卒に与えたのである。(わが上様は、どうなさる)それが、正信の興味であった。……家康は、かぶりを振り、太刀をとり、手綱を操りつつ馬を路傍の竹藪により寄せて行った。「……」と、全軍が家康の挙動を見まもるうち、家康は馬上で太刀をぬき、一閃してそのうちの小竹を伐った。……家康は馬を打たせながら、蔵の前輪に紙一帖を押しあて、小柄をもって切り裂き、それを小竹のさきに結びつけて采配をつくりあげた。……この竹采配の評判はたちまち全軍にひろがり、味方を大いに頼もしがらせた。(532-533p)