2018年12月9日(日)から2018年12月12日(水)までの4日間、大連・旅順・金州の旅をした。この時季の大連は旅行社の旅の最終案内では最高気温3度、最低気温マイナス3度とある。これを見て衣服類を日本の一番寒い時季に着る服装に変更する。靴はトレッキングシューズを履いて通す。これは大正解。大連に出かける前日は大雪で広島からの飛行機が飛ばなかったそうだ。前日の雪が根雪となったのか、夜の間に新たに積もったのか、どこの観光地も大雪だった。これほどの大雪の中を歩くのは初めてのことで、ただ滑らないようにとそればかり気を付けて歩いた。雪道で転べば人生これでアウトとなりかねない。
大連に行こうと思ったのは中国近代に関心があり、それには日本が統治していた旧満州国をこの目で見てみようと思ったことによる。これまで中国に11回、出かけていても旧満州国があった中国東北部は出かけずにいた。日本から近く、いつでも行かれるとの気持ちがそうさせた。今回、広島空港発着のツアーが催行されてやっと出かける。最初の予定では11月を希望した。ところがツアーが催行されず、寒い12月の旅となった。冬季であれば大連の空気汚染が気になる。ところがそれは全く心配なかった。
1日目 2018年12月9日(日) 広島空港✈大連 晴れ
12時半 広島空港に集合。今回のツアーは添乗員が同行せず、現地係員がつく。中国国際航空の係りからEチケットを受け取り、大連到着までの説明を聞く。出国検査の際、隣に並ぶ人のタグが同じだ。話しかけると同じツアーで、しかも同じ町内に住んでいる人だった。それも1丁目違いで年齢もほぼ同じ。その後、各自で出国手続きを済ませて機内に入る。
14時半 広島空港を離陸。座席は通路側を要求。15時、機内で珈琲が出る。15時半、機内食のメインとしてチキンと豚のうちからチキンにする。日本の親子丼のような味がした。食事を配る際、キャビン・アテンダントはチキンと豚と手書きで書いた紙を見せる。
15時25分 直行便で大連周水子国際空港到着。たった2時間の空の旅だ。ここからは現地時間表記。日本との時差は1時間遅れ。ここでツアー客8人は現地係員と合流。合流時点の点呼でツアーの人の名前を知る。先の人は市に合併する前の町長のお孫さんだった。中国の入国検査は厳しい。衣服をまくり上げられ、また靴も脱がされる。
大連周水子国際空港着陸 機内撮影 |
大連周水子国際空港 機内から撮影 |
大連周水子国際空港到着後、大連港を観光する。バス車内からは雪景色。前日は雪のため広島からの大連便の飛行機は飛ばなかったとの情報が入る。緯度が日本の仙台と同じらしく大連の日没は早い。何の予備知識もなく大連に出かけた。寒さ対策はしていても雪への備えはしていない。ただトレッキングシューズを履いていた。冬の旅はトレッキングシューズに限りそうだ。
大連港付近はきれいに整備されており、ここが中国とは思えない。ついついガイドに中国に来た感じがしないと言ってしまった。広島のタワーマンションが50数階であっても大連のビル群はそれをかなり上回る。ましてやどこまでバスで行ってもこれが続く。日本が満州を統治していた時代に当時の著名人はその汚さを表現した。ところが大連はこれまで出かけた中国の中では一番きれいだ。
大連港
バス車内から見る大連の雪景色 |
大連港 |
大連港 |
大連港から眺める市街地のビル群はどれも立派 |
大連港を観光後、ホテルに向かう。チェックイン後、夕食を食べに小型バスに乗ってレストランへ向かう。大連は餃子の本場らしく餃子をいただく。レストランの部屋は個室でなく、中国の人と同じフロアでの食事。この時、ツアーの参加者と一つの円卓になる。この後のツアー中も参加者8名はずっと同じテーブルでの食事。この時、自己紹介が始まる。8名のうち1組は夫婦、もう1組は男同士で仕事関係の人。残り4名は1人参加で、そのうち女性は私だけ。8人とも県内在住でこのツアーが急きょ決まったことが話題に上がる。また、男同士はここでは書けないようなやり方で各自個室を取っていた。この話を聞いて何度も海外に出かけてこんなずるい方法で個室を取る、と聞いて呆れてしまった。頭を使えば世の中、いろんな方法があると悟った瞬間だった。尚、餃子は水餃子でこれまで中国で食べたどんな餃子よりも皮が厚い。お茶がつきものと思ったら最後まで飲み物は白湯だった。
日没が早く、大連滞在中の夕食を終えるとホテルへは連日18時半には着く。それ以降、オプショナル・ツアーが予定される。初日は大連市内のナイトツアー。1人あたり180元(3240円)。8人のうち6人参加。2日目と3日目はマッサージのオプション。これには誰も参加せず。金額も280元(5040円)と高い。3日目は雑技などのショーのオプション。この季節、観光旅行客もシーズン・オフで人が集まればショーを催行するとか。連日の寒さで誰も参加せず。これも280元くらいだった。
大連オプショナル・ナイトツアー
星海広場
19時 夕食後、しばらくしてナイト・ツアー(1人当たり180元=3240円)に参加する。外は暗いので持参した懐中電灯をつけようとするが思うようにならない。旅行用にと持参した懐中電灯。使わずにいるといざとなった時、使えない。これは旅の教訓。
大連は中国の北方に位置する。香港返還(1997年)を記念して建造されたアジア最大を誇る巨大な星海広場。もちろん北京の人民広場よりも何倍も広いそうだ。
白い光はアカシアを模している 大通りにはこの白い物体が光を放つ |
星海広場 天安門広場よりも数倍広いそうだ 真ん中の黒いのは1000人分の靴の足跡 |
星海広場 |
星海広場 |
星海広場 |
星海広場からの光は何処もライトアップされている 特に建物は建物全体をライトアップ 「北方の香港」と称して香港の夜景を真似る? |
向うに見えるライトアップされた青い橋はできたばかりの星海湾大橋 広場の先は星海湾 |
星海広場 婦人警官のモニュメント |
バスを降りて星海広場に立って周りを見渡すと大通りの白い街灯はアカシアの花を模している。どこまでもそれは続く。またマンションなどの高層ビル群は林立し、それらの建物全体がライトアップされている。この電気代は誰が出す?と思わず庶民は考える。ガイドに聞くとライトアップは年中らしく、国の政策のようだ。「北方の香港」を目指しており、ライトアップされた夜景は香港を意識しているのだろう。冷え切ったままの体で小型バスに乗り込み、大連電視台(テレビ局)のテレビ塔へ移動する。
南山
南山のふもとに着くと歩いて登る観光客を目にする。また途中で車が動かなくなったのか止まったままの車もある。10数人乗りの私たちの小型バスは何とかテレビ塔に到着。下車してテレビ塔の周りを歩くがかなりの雪道。ましてや夜なので暗いし、冷たい。観光後の下りのバスもスリップしないかと安心できない。このままバスごと坂道を転がり落ちそうで怖い、怖い!南山から見る夜景は寒さ半分、美しさ半分でゆっくりとは見られなかった。
南山の山頂に立つ高さ100mのテレビ塔からの夜景 |
南山電視台のテレビ塔 |
大連京劇院(旧東本願寺)
次にバスが向かうは大連京劇院。ここは日本統治時代の旧東本願寺。冬季は観光客がいれば興行されるらしい。今回は誰も参加しなかった。それにしても日本統治時代の建物はあちこちに現存し、修復されて使われている。
大連京劇院(旧東本願寺) |
大連京劇院外観 |
夜市
日本統治時代の建物を見た後は夜市に出かける。ここは観光客よりも現地の人が利用するお店らしい。果物や海産物などが並ぶ。大連はリンゴやアワビが特産らしく、特にアワビの貝殻に調理したものを載せて売っている。アワビは食べるよりも真珠養殖に利用されるらしい。この時季の夜市は寒いためか人出も少ない。ただ、お店を見て歩く。以前の中国で見られたような不潔さはここでは皆無だった。
夜市の果物類 |
夜市で売られる豆類 |
夜市で売られる果物 |
バス車内から人民広場を見て、ホテルに戻る。ナイト・ツアーは1時間半経過していた。ホテルに戻っても広い部屋(1組の夫婦以外は1人参加)で何もすることがない。テレビをつけると東京の民放数局とNHK総合はリアルタイムで見られた。部屋を写真に撮っていないが、広い部屋だった。お風呂もバスタブ付きとシャワールームがある。しかしバスタブの水は出ないようにしてあるのかお湯しか出ない。これは他の人もそう話していた。ある程度熱湯をバスタブにためて、それを冷まして体を浸ける。これでは顔も洗えないのでシャワールームで体を洗い、すぐさまバスタブに浸かる。そうしないと体が冷える。初日はシャワールームだけで済ませたので体が冷えた。
ホテルは3連泊でホテル日航大連。五つ星ホテルで快適だった。
2日目 2018年12月10日(月) 大連市内観光🚌金州観光🚌大連市内
旧日本橋と大連駅
8時半に小型バスに乗って大連市内観光に出かける。どういっても大連は旧満州国の面影を残す街。日本統治時代の旧日本橋に降り立つと、旧満州国時代からの鉄道が通っている。旧日本橋は勝利橋と言われ、ここでバスを降りてしばらく歩くと旧ロシア人街がある。建物は修復されており、中国というよりもここはロシアが似合う。
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日本統治時代の旧日本橋 向うに見えるは大連駅 |
旧日本橋から見る大連駅は大雪だ |
旧ロシア人街 |
大雪の中、列車は走る |
ロシアのマトリョーショカを販売 |
旧ロシア人街 |
復元された旧ロシア人街 |
旧満鉄総裁邸宅 |
旧大連市自然博物館 |
旧ロシア人街 |
大連・俄羅斯風情街 簡体字表記で俄羅斯はロシアの意 |
大連中山広場
大連賓館は旧大和ホテル |
大連賓館外観 |
マンホール |
旧横浜正金銀行(現中国銀行大連分行) |
中山広場から見る |
中山広場から見る サッカーボールのような丸いものが中山広場の目印 |
中山広場から見る |
中山広場から見る |
旧南満州鉄道標識 |
旧満鉄大連医院は今は大連大学の附属中山病院となっており、診察を受ける患者が右往左往する。その一角に旧満州時代の歴史館がある。当時の診察で使われた品々やその状況が展示される。尚、中山とは孫文のことで革命家の前は医師だった。
満鉄大連医院標識 今は大連大学附属中山医院となっている |
大連大学の中山病院 院内に歴史館があり、通路は通院客で溢れていた |
大連大学の中山医院のなかに歴史館があった |
歴史館 |
歴史館 |
歴史館の説明書き |
旧日本陸軍奉天特務機関大連派出所の標識 |
次は旧日本人街に向かう。ひっそりとしたたたずまいの街は観光客もほとんどいない。以前は満鉄関連の施設があり、当時の要人の邸宅は政府が接収したまま活用している。だが、一般住宅は老築化が進んで解体や再開発が進む。それもあるのかつい最近老築化した建物が火災に遭ったという。
旧日本人街 ひっそりとしていた |
旧日本人街(旧南山観光風情街) |
旧日本人街にある最近焼けたという建物 |
観光後、真珠店に立ち寄る。大連はアワビの産地でこれを真珠に養殖する。黒真珠や真珠クリームなどのお店の人によるデモがある。だが、誰も買わない。旅行社からの日程表に必ず2か所お店に立ち寄る、との条件があった。しかし、買うことを強制していない旨の断り書きもある。買わなくて申し訳ない気持ちになるがお店を後にしてお昼のレストランに向かう。ここで四川料理をいただく。大連での食事はどれも癖がなく、これまで出かけた中国のどの料理よりも食べやすかった。
金州観光
11時55分 昼食を終えて金州の響水寺へ向かう。バスから降りるとこの辺りはさらに冷たさが増す。ふと川に目をやると凍っているようだ。
響(响)水寺
響水寺(「響」の中国語簡体字は「响」)で、道教の寺院。境内に入ると観光客はまばらだ。というか旅の間、シーズン・オフなのかどこも観光客の姿はほとんど見えない。
響水寺 |
響水寺 |
響水寺 |
響水観 |
大きな線香を焚いた煙がもやもやとあがる |
三清殿 |
响水観は响水寺、韵水寺とも称す 「响」は「響」の中国語簡体字 |
究極の「財」!? |
財宝殿 |
「財」の字があちこちにある これを踏んでお参りすると金運があるのだろうか |
ここにも「財」の文字がある |
赤い糸で結ばれるそうだ |
赤い糸で結ばれようとここを訪れるのだろう |
向うに見える山は大黒山 |
大黒山風景区の案内板 |
金州副都統衛門博物館
金州副都統衛門博物館はウイキペディアによると金州の町の中心部にあり、歴代中国の中央政府が金州地域を治める代表者を派遣して住まわせた場所であったそうだ。日本時代には金州警察署があり、1949年後は金州公安局があったが、1999年に引っ越して、金州副都統衛門博物館になっている。 また正岡子規が日露戦争末期に従軍記者として金州を訪れて詠んだ俳句「行く春の酒を たまはる陣屋哉」の句碑はこの敷地内にあった。
金州副都統衛署標識 |
副都統衛門博物館へは入られなかった |
九 |
正岡子規の句碑 金州城にて子規 「行く春の酒をたまはる陣屋哉」 |
正岡子規詩碑は句碑の後ろに設置されていた |
金州清朝街
大連で見たこれまでの市街地はどれも新しく、いわゆる中国は何処へ行った、という感じだった。ここに来てやっと中国を感じる。観光シーズンでないためか、それともここは観光に重視しないのかさびれたままだ。道もデコボコしており、気を付けて歩かないと危ない。
金州清朝街の入り口 |
金州清朝街に入る門 |
金州清朝街の中の通りの道はデコボコで観光客もほぼゼロ さびれた様子がうかがえる |
金州清朝街の中の通りの道 |
大連に出かける前までは予備知識もなく、まさか大雪の中をこれほど歩くとは思いもしなかった。移動の小型バスを降りると、そこは何処も雪道。ちょっとでも坂道を歩くときは滑らないようにと葉を落とした木の小枝につかまって歩く。小枝も草も寒冷地に生えているためか、どれもしっかり根付いていた。
南山古戦場は1904年、金州の南山でロシア陸軍と日本陸海軍が戦った場所。まずは南山戦跡の碑まで歩き、そこから横道にそれて南山日俄(ロシアの意)戦争遺跡の碑を見る。ここで戦争があった場所と聞き、戦跡の台石に上がって周りを見渡すがよくわからない。
日露南山古戦場へ歩いて向かう |
南山戦跡の碑 |
雪道を歩く |
まだまだ道は続く |
南山日俄(ロシアの意)戦争遺跡の碑 |
南山戦争遺跡の台石 |
南山戦争遺跡の台石 |
南山戦争遺跡の台石 |
15時10分 金州の観光を終えて早めに大連のホテル到着。観光中は冷たくてホテルで温まる。しばらくすると部屋のベルが鳴る。ドアを開けると女性の服務員が枕を持って立っている。何の用かを尋ねる。前夜、枕を使用せず、バスタオルをたたんで枕がわりにした。係りは枕が柔らかいために使用しなかったと思ったらしく、もってきた枕をすすめる。この時、中国語の「枕」がわからず、手こずる。日本でも枕は使用ないと中国語で説明してやっと納得してもらった。尚、枕の中国語は「枕头(頭の簡体字)」でピンインはzhěn・tou。
1時間後、夕飯の火鍋料理を食べに小型バスで移動する。大連滞在中の夕飯は連日17時過ぎと早い。ホテルを出ると街中のあちこちから湯気が出ている。まるで温泉街のようだ。これはスチーム暖房の熱らしい。
暖房の熱が湯気になって出ている |
以前、火鍋料理本場の四川省で食べたのと違って、日本のしゃぶしゃぶに似ていた。火はテーブルに1人前の電磁調理器が設置されて清潔感に溢れる。初めての経験だった。日本では和風旅館などで陶器に固形燃料を入れた鍋が出る。これよりもここの火鍋の電源はもっと本格的な鍋料理ができそうに思えた。また鍋に入れる材料はお肉は1人前ずつ出る。写真には載せてないが他にも具材が出た。
この時、2人組の1人がお肉を残して私たちやお店の係り、そしてガイドに食べ残しをすすめる。これはいけない。仲間内ならば分け合えばいいけど、残り物を中国の人すすめるのは失礼だ。タレとして醤油味とゴマ味が出ていたらしい。醤油味をつけて食べるが日本のお醤油と違って辛さというか、濃さは半端でない。皆さん、同じもので食べているとばかり思っていた。食事後、ゴマダレが美味しかった、との声。これを聞いてゴマダレがあったとは知らずにいた自分が情けなかった。食べながらポン酢があれば、とばかり言ってたのに……。鍋の締めはご飯でなくて麺類だった。それも幾ら火にかけても柔らかくならない麺だった。
火鍋料理の1人前のお肉 |
鍋に入れる具材 |
鍋に入れる野菜 |
鍋の具材 |
鍋の具材 |
この日の宿も前日と同じくホテル日航大連。携帯万歩計は6880歩だった。
第3日目 2018年12月11日(火) 大連市内🚌旅順観光🚌大連
東鶏冠山北堡塁は東鶏冠山に築かれた日露戦争時のロシア側防御要塞跡で1900年から4年かけて作ったコンクリートのトーチカ。1904年の第1回旅順総攻撃で日本軍が全滅。その後、トンネルを掘って、敵陣を地下から爆破して肉弾戦となり、かろうじて陥落させた。死傷者は日本側9000人を超え、ロシア側守備兵はほぼ全滅したほどの激戦区だった。
この日も朝から冷たい日。小型バスから降りると185m高台にある東鶏冠山北堡塁のすぐ西にある望台山砲台を目指して雪道を歩く。旅順防備のためにロシア軍が造った砲台だ。なお、「堡塁」(ほるい)とは辞書によると「敵の襲撃を防ぐため、石・砂・土・コンクリートなどでかためた堅固な構築物。とりで」の意とある。この言葉さえも初めて聞く。この辺りはそれほどの坂道でなく、雪もシトシトと降り続いて真っ白な世界だ。これほどの雪を見ることはあまりない。戦争の跡を見るよりも雪に埋もれた樹木の美しさに目が行ってしまった。
東鶏冠山景区案内図 |
雪道を歩く |
かなりの雪 |
堡塁跡? |
砲台まで歩く |
東鶏冠山北堡塁などの標識板 |
東鶏冠山北堡塁 |
東鶏冠山北堡塁を通って砲台まで歩く |
東鶏冠山北堡塁 |
ロシア軍の司令部跡 |
ロシア軍のコンドラチェンコ少将の慰霊碑 |
雪に埋もれた樹木は絵になる |
ロシア軍の指揮部 |
ロシア軍司令部跡 |
1926年に建立された東鶏冠山北堡塁の慰霊碑 |
東鶏冠山北堡塁の慰霊碑 |
雪に埋もれた樹木 |
東鶏冠山のすぐ西の185mの高台にあるロシア軍が造った望台山砲台(レプリカ) |
ロシア軍が造った望台山砲台(レプリカ) |
旅順口 日俄(露)戦争遺跡 |
東鶏冠山北堡塁を観光後、小型バスで移動して日露戦争の激戦地である二百三高地に出かける。二百三高地とは203mの高さにあることからその名がつく。今回の旅のハイライトとも言える場所で、ツアーの人は『坂の上の雲』の話題で話が弾む。二百三高地は漠然と知っていても、司馬遼太郎の小説を読んでいない。悲しいかな話の輪に入れない。この本を読むことが今回の旅の宿題となった。二百三高地は本来ならばバス駐車場で降りて、そこから専用のカートに乗り換え、下車後15分ほど歩くと着くらしい。ところがこの日は生憎の大雪。駐車場で小型バスを降りると、まずはトイレに直行。外が寒いためかトイレの中は温かくしてあった。
歩き始める途中でガイドからカートは雪で動かず、片道45分歩くと聞く。広い道には地元の美術大学生が描いた絵が描かれている。それはカートに乗ってから降りるまでの距離に描かれていた。その絵の上を歩くがそこは雪道。滑らないように、とただそれだけを願って歩き続ける。本来ならばカートから下車、というあたりで8人のツアー客のうち3人がリタイア。リタイア組の1人は肺の病気らしく、2人は夫婦。残るは5人でガイドが加わって6人。だが、ガイドは中国東北部の人なので背が高い。身長は180㎝だった。ツアーの日本人も男性ばかりで背は高い。その中に1人交じって歩くのは大変。どういっても歩幅が違う。
ただトレッキングシューズを履いていたのでそれだけが幸いだった。踵に力を入れて歩くようにすると歩幅が広くなる気がする。また、滑りにくく感じられる。時に靴を地面にカタ、カタ鳴らして雪を払いのけながら歩く。カートに乗ったとしても下車後15分ほど歩かねばならない。それがカートに乗らずに雪の坂道をふもとから歩く。息を切らせて滑らないようにと必死で歩いた。たまにすれ違う下山の観光客に「あと、どれくらいで着く?」と聞いても誰も答えてくれない。登り道よりも下り道が危ないらしく、人の言葉を聞くどころではなさそうだ。
案の定、下山の時、2人組の参加者の1人が滑って転んで尻もちをついた。大きな音の尻もちだった。すぐに立ちあがり大丈夫のようだ。もしも、自分が転べば骨折間違いない。誰にも頼らず、必死で雪道を歩いた。もしも、この日が雪でなければバスから降りてカートに乗り換えて15分歩けば二百三高地に着けたはず。そうでなく自分で雪の坂道を登り下り1時間半もかけて歩いたという、それだけでなんだか大きなことをしたような気がした。小型バスに無事戻ったときは本当に嬉しかった。リタイア組から「元気だ!」、とほめられた。ここで思わず出た言葉は「水泳で鍛えた体」と言ってしまった。自分にとっては忘れられない雪の大連での良き思い出となった。二百三高地到着時、記念碑前でこの旅で初めて個人写真を1枚撮る。
入り口からカートが通る広い道 地元の美術大学の学生が絵を描いていた 徒歩で30分の区間の道に描かれていた |
本来ならばここらあたりでカートを降り、15分歩くと二百三高地に着く しかし、この日は大雪でカートが通らず、雪道を往復1時間半歩く |
二百三高地紹介板 |
山と山の間に見えるのが旅順港 |
二百三高地とちゅから旅順港を眺める |
山と山の間に広がるのが旅順港 |
二百三高地に建つ爾霊山記念碑(乃木希典の碑) この後の山に乃木将軍の亡くなった2人の息子が祀られている |
二百三高地 |
二百三高地にある砲台は当時のモノではなくレプリカ |
山と山の間に広がる街が旅順港 |
ここからは下り道 |
滑らないように下り道を歩く |
下り道での光景 |
下り道での光景 |
下り道 ツアー参加者8名のうち1人は旅の間中、ずっと半袖だった |
帰り道、振り向けば山の頂に二百三高地が見えた |
二百三高地を観光後、11時50分に小型バスは出発。途中、川島芳子(粛親王)の旧居を中へは入らず、外から見る。
川島芳子(粛親王)の旧居 |
川島芳子(粛親王)の遺跡碑 |
お昼は旅順料理、そう聞いて朝鮮料理?と思った。ところがそうでもないらしく食べやすかった。ご飯は日本以外の国によくみられるぱさぱさしたものでなく、粘っこくて美味だった。ここで成田から来たというクラブツー〇ズムのツアー客と出会う。隣の席だが個室でないため、話し声の日本語か聞きづらい。すれ違いざまに問うと日本人だった。シーズン・オフなので日本人観光客と出会ったのはこの1組だけ。
旅順料理のお昼 |
関東軍司令部旧址碑 |
旧関東軍司令部(現関東軍司令部旧址博物館) |
中蘇(ソ連の意)友誼記念塔 |
中蘇(ソ連の意)友誼記念塔をアップで写す 上部に中国とソ連の国旗のマークが表記されている |
中蘇(ソ連の意)友誼記念塔碑
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旅順博物館
お昼を済ませると旅順博物館へ小型バスに乗って移動する。博物館のハイライトは何といっても日本の大谷探検隊によって発見されたミイラ。この日は2体のミイラが眠っていた。ミイラの写真撮影はご法度で、他の展示物はフラッシュがなければ撮影OKだった。『地球の歩き方』によると「大谷探検隊のコレクションが有名」とあり、「中国国内外から収集した青銅器、彫刻、陶器、書画、仏像など6万点以上の収蔵品を有する中国東北地方を代表する博物館。1917年に関東都護府によって開館され、1919年に関東庁博物館と改称された。なかでも京都西本願寺第22代目の住職だった大谷光瑞が中央アジア探検で発掘収集した仏教関係の文物は『大谷コレクション』と呼ばれ、必見の価値がある」と書いてある。
旅順博物館 |
旅順博物館展示品 |
旅順博物館展示品の説明 |
旅順博物館 |
館内には見学者のマナーが書かれていた。それは「安静は修養である。安静はあなたの風采である。安静はあなたの儀容(礼儀正しく堂々とした態度)である」とあった。
旅順博物館を出たところ |
博物館の中は思ったよりも展示品が少ない。館内の係りはミイラの担当者は別にして、展示品と向き合わず、窓の外を向いている者もいた。この辺りは以前の中国の感がある。博物館内の見学は各自で見て歩く。バスに戻るとツアーの人から博物館のパンフと栞をもらう。勝手にもらっても良かったらしく、気づかずにいた。もらった栞には「社会主義核心」と大きな字で書いてあり、その下に「価値観」として3点書いてある。
「富強 民主 文明 和諧」
「自由 平等 公正 法治」
「愛国 敬業 誠信 友善」
この3つのスローガンが今の中国を現すのだろうか。小型バスで移動中の車内で見た電光掲示板にこのスローガンが多く映し出されていた。この辺りはまさに社会主義、中国を感じる。
次は旅順にある旧大和ホテルへ移動する。この大和ホテルも修復中でその周辺も大規模に修繕されている。中へは入らず外観だけを見る。
旅順の旧大和ホテルは修復中だった |
旧表忠統(現白玉山塔)は日露戦争終結後、連合艦隊司令長官の東郷平八郎と陸軍第三軍司令官の乃木希典が日本兵慰霊のために建てさせた高さ66.8ⅿの塔。1907年6月に着工し、1909年に完成。旅順港を一望できるそうだが、今回は下から写真を撮るだけだった。
ホテルに帰るバス車内から旅順駅、旅順港、渤海が見える。この時間を利用してガイドはお土産品の車内販売の予約を取る。その後、もう一か所、民芸品店に立ち寄る。皆、旅慣れていてお土産を買う人がいない。たとえ買ったとしても僅かな量だった。何も買わずにお店を出るのは体裁が悪い、とは皆の意見。
19056年建築のヨーロッパ風木造駅舎の旅順駅 山の上の塔は旧表忠統(現白玉山塔) ここからは旅順港が一望できるという |
旧表忠統(現白玉山塔) |
旅順から大連市内へ帰るバス車内から写す 対面はだいれんだいれんに来た日の夜に出掛けた星海広場 |
旅順から大連市内へ帰るバス車内から写す |
旅順から大連市内へ帰るバス車内から写す 対面は星海広場 |
旅順から大連市内へ帰るバス車内から写す 星海湾大橋を渡る |
ホテルに戻って休憩後、今回の旅の最後の晩餐に出かける。場所は大連を代表する「天天漁港」。海鮮料理のお店らしく、水槽にあるアワビなどの新鮮な材料を調理してくれるようだ。ツアー客は個室でコース料理をいただく。はじめに出てきたのはヒラメの生き作り。料理が運ばれてきたときはエラが動いていた。海鮮料理といっても他の料理は中華料理だった。このお店の料理もそうだけど、大連でいただいた料理はどれも日本人の口に合っていて美味だった。それでもお茶は出なかった。この頃の中国は、というか大連は政府の方針でお茶を出さないようにしているのだろうか。代わりにどこでも白湯が出た。
海鮮料理のコースからヒラメのお刺身 |
海鮮料理のコースから |
海鮮料理のコースから |
テーブルセット |
海鮮料理のコースから |
海鮮料理のコースから |
海鮮料理のコースからスープ |
海鮮料理のコースから |
海鮮料理のコースから |
「天天漁港」は大連で人気の海鮮料理店らしい 料理は他にもテーブルに並べられないほど出てきた
この日の宿もホテル日航大連。携帯万歩計は9343歩で雪道を滑らず、怪我もせずに本当によく歩いた。
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4日目 2018年12月12日(水)大連✈広島空港
「デラックス大連・旅順・金州4日間の旅」と銘打った旅もあっという間に終わった。帰国日もいつもの時間と同じく一日が始まる。ホテルの朝食で若い中国の青年から声をかけられる。ヴァイキングでデザートの抹茶ケーキを取っているときだった。日本語で話しかけられたので日本人と思った。青年は「中国人」と中国語で話した。それからは日本語と中国語で話すと日本の三菱マ〇リアルの広州駐在の社員だった。この日までが大連の出張らしい。この会社は日本の大企業で有名な会社などと話して別れる。
自分の席に戻って朝食をとっていると青年が席に来た。そして名刺をくれる。中国へは今回で12回目。そう告げたので広州に来るようにと言ってもらう。こちらの名刺はないのでホテルの封筒に名前を書くとスマホで写していた。こういうやり取りをしていると今よりもっと若い頃に中国へ出かけた頃の気持ちがよみがえる。どういっても以前は「中国迷」だった。
日本と中国の関係は決していいとは言い難い。しかし、以前、ある文化人類学の先生から聞いた「民族と出会うのでなく一人の人間と出会うのです」を思い出す。中国の人々や風土は日本人にとって決して悪い印象がない。ただ政治的な面でのぎくしゃく感はぬぐえない……。
部屋に戻るとチャイムが鳴る。ドアを開けるとホテルの係りだった。毎朝、モーニングコールが鳴る前に朝食を食べに行っていた。今日は帰国日、それを知らせに来てくれたようだ。
広島空港に着くと修学旅行生らしき人でごった返している。その列につられていると何やら書いている。だが、それは日本人には関係ない書類だった。ツアーの人から遅れをとっていると係りは日本人がいるとわかったらしい。わざわざ1人だけ別の箇所で入国審査をすると他の係りに告げてくれた。日本は優しい国だ。お蔭で手荷物を受け取るときは皆と合流できた。
短い大連の旅だったがブログは長くなった。今回は添乗員なしの現地ガイド付きのツアーだった。それでも同じ町内の人と出会い、自宅に帰るまで同一行動となった。どの人も旅慣れているようで楽しい旅となった。今回の旅に味を占めて添乗員なしの旅の参加を考えてもいいかもしれない。ともあれ楽しい旅は終わった!また機会があれば「アカシアの大連」と言われるように5月の大連に出かけてみたい!
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