2017年11月16日木曜日

『物語ポーランドの歴史』

 日本画展の打ち上げが近づいてきた。はがき大に描いた絵は一枚の「落ち葉」。これを打ち上げの交換会に出す予定。それに各自メッセージを託す。何をメッセージに込めるかを考える。思いつくままにパソコンに入力して保存する。今朝も短い文に書き改める。もしかして、ハガキに描いた絵よりもメッセージにかなりの時間を割く!?まあ、受け取る人はさらっと流してしまうかもしれないが…。ともあれ、これも自己満足かもしれない。

 先ほど、姪からメールがある。無事、台湾から帰った様子だった。まだ30歳代と若い友人の訃報を知り、急きょ台湾へ行くと聞いてびっくり。外国に行くのも日本を移動するのも感覚は同じなのか、ネットで航空券や宿を予約して海外へ飛ぶ。千代田区にある職場に勤務する姪は海外へ行く場合、休暇届を出しても許可がいるらしく、それを心配していた。ともあれ、1泊2日で台湾の花蓮に出かけ、先ほど無事帰国したとの報告が入る。それにしてもエコノミー席がなくマイル利用でビジネスにしたとか。まあ、いずれにしても元気で帰ってくればそれでいい!

 何度も外国に出かけていてもツアーでなく一人でネットで予約して出かけたことがない。誰もがすぐに一人で海外に飛べないと姪に話すと笑っていた。一人で海外に出かけることに慣れているモノにとってその感覚はないのかもしれない。

 以下は先日読んだ『物語ポーランドの歴史』(渡辺克義 中公新書、2017年)。サブタイトルは「東欧の「大国」の苦難と再生」。またいつものように気になる個所を記そう。本では縦書きを横書きで入力する際の漢数字の変換の難しさ。ましてやこれを読むとさらに読みづらい。それでも、本の通りに入力しないと違反になりそうだ。

☆十七世紀はバロック音楽が栄えた時期である。バロックという名称は「歪な形状の真珠」を意味するポルトガル語の「バロッコ(barcco)」に由来すると言われる。実際、豪華絢爛ではあるが、気品には欠ける芸術が発達した。バロック建築を代表するのが、ヤン三世と王妃マリシェンカのために建てられた、ワルシャワ郊外のヴィラヌフ宮殿である。30p

☆十九世紀前半、「ロマン主義」という学問・芸術における新たな潮流が現れた。ロマン主義者は、自由を謳歌したかつてのポーランドを直接知らない最初の世代である。…音楽では、フレデリック・ショパン(ポーランド名はフリデリク・ショペン)やスタニスワフ・モニュシュコが活躍した。ショパンといえばマズルカやポロネーズで知られる愛国者である。63p

☆ソ連軍によるポーランド侵攻は、ドイツにとって事前の諒解事項であった。96p

☆ナチス・ドイツの政策はポーランド人を単なる奴隷労働者とすることであり、それゆえ、知識階級が迫害の対象とされた。99p

☆とりわけ受難だったのはユダヤ人である。大戦当初のポーランドのユダヤ人人口は九・七%(三五〇万人)であった。ユダヤ人を幽閉するため、四方をコンクリートの高い塀で囲った「ゲットー」が設けられた。100p

☆一九四二年夏、ドイツ軍はゲットーのユダヤ人に対し、労働キャンプに行きドイツのために奉仕するならば食料と衣服を与えると伝えた。これは、絶滅収容所や強制労働収容所におくるための口実に過ぎなかった。115p

☆社会主義リアリズムは一九三〇年代にソ連で生まれた。ポーランドでは第二次大戦後にこの潮流が現れた。画家、彫刻家、作家らのモチーフとなった労働者は農民であった。芸術家たちは労働に従事する彼らの姿を描いた。一九五一年からはロシア語が必修科目になった。西側の文化は、映画であれ文学であれ大幅に制限された。学問の世界でも捏造・歪曲は日常的なことであった。163p

☆敗戦後一〇年以上の歳月を経てようやく一九五六年に日ソ間に国交が回復すると、日本・ポーランド間にも外交関係回復の機が熟することになる。両国は翌五七年五月十八日に国交を回復した。173p

☆半世紀にわたった社会主義政権ののちにようやく獲得した民主主義であったが、今ポーランドではこれに逆行する動きも見られる。…ポーランドは今どこへ向かおうとしているのか。「失敗の後の賢いポーランド人」という諺がポーランド語にはあるが、その叡智は活かされるだろうか。206p

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