2017年6月30日金曜日

「よみがえれ・熊本城 サムライの”英知”」を見る

 昨晩から明け方5時過ぎまで降り続く大雨と鳴りやまぬ雷。大雨洪水警報発令と共に朝5時過ぎまで寝付けなかった。8時45分、目が覚める。午前2時半、いつもとは違う音がする携帯電話。広島市からの大雨警報避難勧告を知らせるエリアメール。この時点では我が町はその範疇にない。しかし、その後は隣町のサイレンと共に、次々と避難勧告が放送される。ついには非常事態発生の鳴りやまぬサイレン。そして鳴り響く雷の音。

 先ほど雷発生のメカニズムを調べる。何百回と発生する雷。ピカッ、ピカッと雷光が轟亘る。夏の雷は冬と違って発生回数が何十回と多くなるらしい。今朝はJRも全線不通だったが、今は山陽本線は一部通っているようだ。梅雨の季節。それなのに雨が降らないと思っていた。その矢先に降り続く大雨。まだ大雨は油断できそうにない。

 大雨洪水警報発令前に見る昨夜のテレビ。「よみがえれ・熊本城 サムライの”英知”」。国の文化財は修復の際に文化保存を重視するらしい。そのため、壊れた熊本城の石垣の石一個でも修復に際してそれを利用する。今回破壊した石垣の石は2万個以上あるという。それを一つずつ並べて番号を記す。それを修復する際には元と変わらぬ位置に石を一個ずつ置いていくという。それには今の時代、ソフトを駆使してその位置を確認するとか。

 ところが、運良く壊れなかった石垣が中から異常をきたし、外から見ると膨れた箇所があるという。これはいつ壊れてもおかしくないらしい。保存と修復を考えているうち、昔の人の知恵はどうだったかを書類で確認する。なんと細川忠利という城主の時代、城が壊れても「人」に被害がないようにすべきとの書状が熊本大学で見つかる。

 文化財を保存するだけでなく、のちの世代まで「人」が安全であるようにすべきとの先人の知恵に学ぶ。これにより文化財保存と現代の技術の両方を取り入れた修復方法で話がまとまる。これには文化庁も納得したらしい。

 熊本城へは中学校の修学旅行以来!?その後、一度出かけたかもしれないが、長く行っていない。いつの日か修復なった熊本城へ行ってみたい。

 夜はテレビ三昧も午後にはプールで泳ぐ。泳ぎ疲れて後に見るテレビ。さて熟睡、と思った矢先の大雨洪水警報。寝不足の日は注意散漫になりそうだ。気を付けよう!

2017年6月29日木曜日

先入観を捨てて

 「清原和博氏、社会復帰の第1歩「Number」で半生記連載へ」。これは今朝のネットで見た清原元プロ野球選手の最新情報。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170629-00000069-spnannex-ent (参照)

 名前はよく知っていても活躍した時代をあまり知らない。それでも事件で知る前に毎日更新する清原のブログを見ていてどうしても悪い人に思えなかった。むしろ人が良すぎるから自分を見失って罪を犯した!?誰でも魔がさすことはある。犯した罪は確かに悪い。しかし応援したくなる人だ。「Number」を読もう!

 罪を犯すといえば毎日のように報道されるムスリムによるテロ事件がある。これもすべてのムスリムが暴力的なわけではない。むしろ「ムスリムは唯一絶対の神であるアッラーにすべてを委ねる人たち」。だから「暴力的で危険なイメージがあるのは誤解であり、欧米の差別的な見方に影響された先入観だ」。昨日の地元紙で内藤正典同志社大大学院教授はこう述べる。
 
 記事のタイトルは「隣のムスリム」、「先入観捨てて素顔知ろう」。イスラムは怖いイメージがあるのは誤解だとする内藤。確かにそうかもしれない。イスラムによるテロが起こる度にますますイメージを悪くする。すべてはヒト、モノ、コトを見る際の先入観がそうさせるのだろうか。清原元プロ野球選手もメディアで書かれる度そのイメージが悪くなる。犯した罪は悪い。しかしそれは過去のコト。これからは先入観を捨ててモノ、コト、ヒトを見ないといけないかもしれない。

2017年6月28日水曜日

ソロは「天使のミロンガ」

 広島駅2階のコンコースに新たなお店ができた。フルートのレッスン帰りに立ち寄る。お店に入るにはJRに乗るチケットか入場券が必要だ。ということは、今まさに列車に乗る人がお店のターゲット!?ともあれ、店内に入る。入口には買ったものを入れる籠が用意されている。だが、それを持ち歩く人はいたのだろうか。ざっと辺りを見渡すと広島産と思われるお土産が並ぶ。なかでもレモンをアレンジした商品が目につく。

 レモンの木は我が家に1本ある。春には50個くらい実がなると思った。ところが、何がいけないのか見る度に結実した小さな実が庭に落ちている。今朝も何個か落ちていた。まだ苺ほどの大きさではないがそれでも親指くらいになっている。それがどうしたことか落果する。50個以上は実をつけると思っていた。この様子だと何個、大きくなるのか。さてさて…。

 話は戻って先ほどの広島駅。7月に日帰りで出かけるバス旅。集合場所がこれまでは駅北口のタクシー乗り場付近だった。駅2階の自由通路が新たに開通してペデストリアンデッキが集合場所となっている。

 半分開通している自由通路が秋には全面開通する。そうなるとデパートなども出店するとか。ますますにぎやかになる広島駅。今後が楽しみだ。


 秋といえば発表会の季節。昨日のフルート・レッスンではソロで吹く曲をさらう。「天使のミロンガ」をさらう。この曲をソロで吹くことに決めよう!動画は「天使のミロンガ」。

2017年6月27日火曜日

BSシネマ「炎の人ゴッホ」を見る

 最近、お昼のBSシネマをよく見る。昨日は「炎の人ゴッホ」を見る。会社に勤め始めてから辞めるまで映画館で観た映画は何本だろう。それくらい映画とは無縁の生活だった。それなのに、いつの間にか家のテレビで放送されるBSプレミアムシネマを見ている。これもすべてが見たいわけではなくテーマに惹かれて見る。

 「炎の人ゴッホ」は伝記映画。以前美学の講座に通っていた頃、自らの耳を切ったゴッホに関心を抱く。その前には、糸杉を描いたゴッホにも興味があった。ゴッホの絵に関してはよくわからない。それでも映画に出てくる絵を見ていると次第にその良さがわかってくる。

 弟、テオとの手紙のやり取りで映画を構成する。ゴッホが亡くなった年は1890年。この年、先日来から気に入っている画家、高島野十郎が生まれている。

 『愛国と信仰の構造』サブタイトルとして「全体主義はよみがえるのか」(中島岳志、島薗進 集英社、2016年)のなかで1880年代生まれは「煩悶青年」だという。その例として「北一輝も石原莞爾も、藤村操や三井甲之と同じく1880年代生まれで、煩悶を抱えながら、日蓮宗に帰依していった」とある。そして藤村は自殺へと至る。53p

 ゴッホは父の影響を受けて牧師を志す。しかし、自分のやりたいことは違うと試行錯誤の末にたどり着いたのが画家の道。だが描いても絵は売れない。孤独の中、ゴーギャンと生活を始める。それもうまくいかず、精神を病む。

 高島はゴッホが亡くなった年に生まれている。日本でいうエリートコースを歩みながら専門外の画家になる。存命中よりも亡くなってその良さが認められる。絵を描きながらも兄の影響もあってか、その時代が迷える時代だったのか、仏教に深入りする。絵に精神性が漂う。

 ゴッホが生きた時代は西洋も日本も「煩悶」の時代だったのだろうか。同じころに読んだ本とゴッホの映画を見て取り留めもなくそう感じる。その時代をもっと深く把握すればいいのかもしれないが…。

2017年6月26日月曜日

日曜美術館「青いケシを描く~洋画家・入江一子 101歳のアトリエ~」を見る

 100歳過ぎても第一線で活躍する人たち。昨夜は日曜美術館でシルクロードを描く洋画家入江一子を見て感動する。入江はシルクロードへ30回ほど訪れているそうだ。その究極は入江が76歳の時に青いケシを求めて訪れた四姑娘山。この山は4000ⅿ級の山々が連なっている。今から25年前に入江は訪れた。

 青いケシはブルーポピーと言われ、同じ時期にブータンで見ている。狭い山道を歩いていた時、誰かが「ブルーポピー」といって写真に納めていた。だが、それを見てもカメラに収めなかった。軽い高山病になったこともあり、写真にとろうという気持ちがなかった。今となっては残念な気もする。しかし、この目で見ただけでもよかったと思おう。

 それにしても入江一子、青いケシを求めて出かけた四姑娘山は4000m以上の高地にある。御年76歳で24時間馬に跨り、2日ほどテント生活で探し求める。見つけたときはあまりの美しさにその場で写生し、のちに絵に仕上げる。番組では再度、その記憶をたどって馬に跨る作家と青いケシが咲く山を作品にしていた。

 どういっても101歳の御高齢。100号ぐらいの真新しい画布にデッサンし、彩色していく姿は素晴らしいの一語に尽きる。絵を描くのは体力との勝負と入江は話す。背は曲がり、シルバーカーを押しての移動も、いざ絵を描くとなればしゃきっとした姿勢で椅子に腰かけて筆を動かす。101歳という年齢を生きていることさえ立派なことなのに、さらに大作を描くとは…。

 翻って我が身はさて如何に?紫陽花の季節に日本画が休みの週ぐらい、家で描けば…との気持ちはある。だが、重い腰が上がらない。

2017年6月25日日曜日

『日本で100年、生きてきて』

 図書館で予約する本の順番がなかなかやってこない。こうなると活字に餓えてくる。今朝の新聞で本離れが進み、月に1冊も読まない人が33%とある。スマホなどで雑誌や新聞、そして本も無料で読める。それにしてもひと月に読む冊数がゼロとは驚き。

 活字中毒とまではいかないが、なにも目にしないと飢えを感じる。図書館の書架を物色してとりあえず3冊借りる。その1冊はむのたけじの『日本で100年、生きてきて』(朝日新書、2015年)。この本は木瀬公二がむのたけじに聞き書きした本である。むのたけじは昨年、101歳で亡くなっている。本の裏表紙には「1945年8月15日、敗戦の日に新聞社を辞めて故郷横手(秋田県)で週刊新聞「たいまつ」を創刊した。嵐はたいまつを消すこともできるが、逆にたいまつが盛んに燃えるのも嵐の夜という。この国の深い矛盾を、ずっと見続けてきた100歳の現役記者が、これから生きる人たちへの熱い思いをこめた伝言である」と書いてある。

 この中にユダヤ人虐殺後のドイツについて書いている。これを知るために借りた本ではない。にもかかわらず、こういったことに目がつくのも何かのご縁と思って読む。

★ドイツ国民もヒトラーが出たとき歓迎した。国家社会主義ドイツ労働者党なんて左翼のふりしてくるんだな。ストライキがあると一番応援したのはナチスだった。だからユダヤ人を虐殺するとは思わなかったものな。わかったのは戦争終わってから。ドイツ国民は、これはナチスだけの問題でなく民族全体の問題だ、と受け止めて全国民で裁くことにした。そして、アンデスの山奥までナチスの残党を捕まえに行ったでしょ。ドイツを旅行すると、小さな広場に標柱があってね。「何年何月、ここに500人のユダヤ人が集められて、アウシュビッツに連れていかれたが、我々は止められなかった」と書いてある。二度とこんなことをしないぞという決意表明。そういう碑がちゃんと建っている。90p

★ナチスがやった大量虐殺をドイツ人全体の過ちだったととらえて、ユダヤ人の救済をした。日本は中国などに行って大勢の人を殺したが、ドイツのようにけじめをまだつけられていないでしょ。外国にいけばそういうものが見られるんです。そしていろいろと考えるのよ。そこから日中関係をどうするかと進んでいく。ぺこぺこするのではなく「一党独裁はおかしい」と思えば、それを言う関係にだ。外国旅行に行きなさい。何かをやろうと思うときに、もう遅いという年はないんだ。229p

★残虐行為をやったのは、善良な市民と言われていた人たちです。戦場に行けばそこに身を置く誰もが、相手を殺さなければ自分が殺されるという恐怖の前に、3日もいれば人格が狂ってしまうんです。日本に帰ればまた善良な市民。戦地でやってきたことはとてもじゃないけど口にできない。沈黙するしかないんですよ。とても娘や妹に聞かれて話せるもんじゃないんです。でも、それは事実がなかったということではありません。54p

★差別をする人間は、自分を粗末に扱っている人間だね。…自分を大事だと思う人は決して他人を差別しない。そうなるためには、一人ひとりが自立した生活の主人公になることですよ。ごく当たり前の、人間主義の生き方をするということです。それができれば、永遠の繁栄なんてことを求めなくなるでしょう。92p

★地球は小さなものが住むのに合うんだ。威張るもの、乱暴なものは嫌いなんだ。小さくて弱いもの、軽くて低いもの、少なくて細いものなどを大切にしなくちゃ。そうすれば人間優しくなるんじゃない。花が傷つけずに咲き合う「共生」という感覚も大切にして。106p

★人間というのは、苦労があっても大切にされているという基本がしっかりしていれば寂しさや不安はない。大切にするというのは相手をしっかり見てしっかり耳を傾けることです。166p

★マイナスは、プラスがあるから存在するということです。マイナスとプラスを切り離して考えてもだめなんだ。夜はだんだん暗くなっていくけど、もう一つ先をみれば次の朝に向かっている。そう考えないと。199p

★この年になって確信できたことは、人間は何のために生まれて何のために生きているか、ということへの答えだ。前も言ったけど「喜ぶため、楽しむため」だ。泣くためではなく、笑うため。222p

★楽しむというのは、一人ではしないな。一人で泣いても誰もおかしく言わないでしょ。…ところが一人でアハハと笑うと、あいつは馬鹿でねっかて言われる。つまり悲しみや嘆きは一人でやるが、楽しみ、喜びは複数の人間で味わうものだということだ。223p

★老いるということは経験を積むということ。忘れることはあるけど、オラは96歳の今が、頭の働きは最高だと自信をもって言える。これまで考えることができなかった問題も考えられるもの。若者も年寄りもなく、つながり合わないと。223-224p

★海外旅行というのは絶対必要だよ。どんどん行く方がいい。金があれば自分らで計画を立ててもいいけど、安い団体旅行だって行くべきだな。まずは相手と知り合わないと話は始まらないが、見てくるだけでも勉強になる。見れば考えるもの。いろいろ見ながら自分を見る、日本を見るということで、自分の人生の中身を確かめることだ。これは頑張ろう、これはまねをしようとな。227p

★生きていれば毎日、何かを経験するでしょ。ああだったとか、これは間違っていたとか何か考える。それが前進なんですよ。死ぬときが人間のてっぺんなの。1日生きることは1日新しい経験をする。出てきたのが悲しみであっても悪いことではない。悲しむことを知らない人が、喜びを知るわけがないもの。231p 

★私は50歳ぐらいから、自分を戒める言葉をこころに描いて文章を書いてきたの。…文章に限らず、行動の一つひとつを「私は」旅行に行きたくて「行った」のか、「行かされた」のかを確かめながらすすむことが大事なことなんだ、という戒めだ。主語を生きろ、だ。60歳代になって言い聞かせたのは「形容詞は書くな」。「寒かった」「暑かった」じゃなくて「気温が何度だった」と書けばいいじゃないか。主語を鍛えるためには、客観的データをしっかり把握することが重要なんだ。70歳になって「動詞を動かせ」ってね。雲の動きだって「流れた」「飛んだ」「溶けていった」と実際の動きが目に浮かんでくるじゃないの。平板な文章だと心に残らないもの。…そうやってきて、行きついた考えは「文章は面白くないとダメ」だ。231-233p

★心に決めていることは、自分が使った食器と下着の選択は死ぬ日まで自分でやること。これは50歳くらいから続けています。自分が汚した物、アカや汗は自分で始末する。人に迷惑をかけない。死ぬ前の日までパンツを洗うつもりです。236p

2017年6月24日土曜日

ブログとSNSの違い?

 先日、NHKで放送されたSNSに潜む危険性を見る。画像をSNS上に発信したとする。それをその道のプロが見れば瞬時ともいえる速さで画像の場所を特定できるという。これを見てブログ発信が心配になる。ブログはSNSに入るのかどうかをネットで調べた。https://m-ochiai.net/blog-sns/ (参照)

 どうも意味合いは違うらしい。今月でブログを開始して丸8年が過ぎ、9年目に突入。この間、ブログに関するトラブルは一度もない。とはいっても油断大敵。昨日、旅で知り合った人のブログを見ると次に出かける旅の一覧が削除されている。テレビでこれから出かける旅のスケジュールをアップすると空き巣などに狙われやすいと話していた。このことにもあるのだろう。

 以前に出かける先の予定をアップしたことがある。その時、危ないと教えてもらった経緯がある。それ以降、次に行く日程の詳細は投稿しないようにした。投稿と言えば、数か月くらい前から、その日の行動もアップしないようにしている。そして昨日からはブログに記しているメールアドレスも載せないようにした。

 話は戻ってブログとSNSの違いは「ブログはストック型メディア、SNSはフロー型メディアという特性の違いがある」そうだ。ブログについて参照によると「過去の記事が生き残るということは、記事の数を積み重ねる程、それは資産となっていく」という。これに対してSNSは「SNSでのコミュニケーションを通じて関係性を深める」という。

 改めてブログとは何か。同じ参照によると「ブログとは、ウェブログ(Web Log)の略です。ウェブサイトに記録(ログ)するから、ウェブログ(Web Log)。略してブログ」だそうだ。

2017年6月23日金曜日

「海軍兵手記」の記事から

 地元紙に「海軍兵手記見つかる」の見出しがある。シベリア出兵を「戦国時代の如く」と手記で言い表している。ロシア革命が起きた翌年から書かれた手記。100年前のこととはいえ、最近思うことがある。それは100年前は自分自身の今の年齢を考えるとそれほど遠い昔のことではないということ。両親はその頃に生まれている。戦争で駆り出された人の日本人の話をあまり聞かない。しかし、今朝の記事を見ると「銃殺」とある。一兵士がどうこうよりもすべては上からの命令!?「日本に於ける戦国時代の如く」の表現をみても戦争とは野蛮なことだと思い知る。

 それにしてもこれを書いた田辺和市という人。戦時下、冷静な状況判断で書いたのだろう。すべてを読んでみたくなった。

 今よりもずっと若い頃、歴史は好きでなかった。ところが今朝の記事のような100年前の話はつい最近のことのように思えて興味津々になる。両親の両親である祖父母は生きていれば150歳前後。しかし、祖父母4人のうち誰とも会ったことがない。もしも会ったり話をしていたら江戸時代も身近に感じるだろう。せいぜい100年前のことであっても歴史が好きになったことは自分自身にとって、おめでたいことかもしれない。

 話は変わって8月のバス旅。昨日、どうなるのやらと思っていた矢先、旅行社から電話がある。7月に催行とのことで日時を変更する。ともあれ、これも楽しみ!気分をよくしてプールで泳ぐ。背泳ぎで泳ぎながら気持ちに余裕が生まれるといろんなことが頭をかすめる。いつまで泳げるのだろうか、と負の感情もわいてくる。さらには今習っているコトに対してもそれを感じる。最後に行く着くのは他のコトは習うのをやめてもプールだけは歩ける限り、自転車に乗れる限り泳ぐだろう、と。

 今朝の海軍兵の手記を読んでいろいろと思いを巡らす。運動嫌いがここまでプールにのめり込む?これは我ながら不思議。それは歴史嫌いにもあった。絵もそうかもしれない。人は何歳になっても変わることができる。しみじみとそう感じる。

2017年6月22日木曜日

文春オンラインから

 二大週刊誌といえば文春と新潮がある。ネットで見る「デイリー新潮」。これは以前から見ていた。昨日から見始めたのは「文春オンライン」。以前に見たことはあってもデイリー程の読みやすさがなかった。ところが昨日、久しぶりに見ると画面も新たになったのか読みやすい。今朝は「『お買い得』のメカニズム 楠木健の『好き』と『嫌い』――好き:グリーン車 嫌い:ビジネスクラス」を見る。

 哀しいかなグリーン車は乗ってもビジネスクラスに乗ったことがない。先日の旅では数人がビジネスを利用。うち1人と話すと体調不良で飛行機の長旅が心配のようだった。それでビジネスにしたそうだ。今回の旅で長旅への体調の心配がなくなり、次回からはエコノミー利用とのことだった。その時、旅する回数を減らせばビジネス利用も可能という。

 そうはいっても所詮貧乏人。ビジネス利用は頭から無い。ところが最近届く旅行社のパンフにはビジネスクラス込み料金の記載が多い。ちょっと高めくらいの金額でエコノミーとそれほどの差はない。それでも「文春オンライン」の記事ではないがビジネスとエコノミーの差は席の広さと機内食!?機内食はどう頑張っても大したことはない。元から機内食は不味い感がある。その点でもこの記事の著者に同感する。

 乗り物の記事を読むとどこかへ行きたくなる。この気持ちを山歩きや旅番組で紛らわすけどやっぱり自分で行きたい。他の記事を見ていてこういう心境になるのも元気が底辺にあるのだろう。

 それにしても8月のバス旅。催行かどうかの知らせがこない。さてさて…。

2017年6月21日水曜日

「ページソース」

 就寝間際に発生する地震。すぐに携帯のワンセグを見ると地震発生の表示はない。しばらくすると震源地の大分は震度5強だった。広島市内は震度1。今朝テレビを見るとひどい被害はなさそうで一安心。それにしてもいつやってくるか分からない自然災害。本当に怖い。揺れを感じても自分自身がおかしいのかと思って、テレビで確認する。やっぱり地震だった。

 話は変わってパソコンのお話。今使っているパソコンは3台目。2台目までは大型電気店で購入。いずれも自分で持ち帰って使える状態にした。3台目はメーカーからダイレクトで購入。宅急便で送られたものを段ボールから取り出して自分で設定した。誰の手も借りずによくも設定したものだと自画自賛。これくらいならば誰でもできるといわれればそうだけど自分ではよくやっていると思う。

 今朝届いたパソコンメーカーのwareニュースは「ホームページの仕組みが分かる!HTMLプチ講座!」。この記事に思いを寄せる。それは社会人大学生の頃のお話。1年生は教養科目として「情報科目」がある。パソコンの設定は得意としていたのでこれくらい、と思っていた。何と課題で出されたのはHP作成だった。それは決められたあるHPのHTMLを参考にして作成する。「ページソース」という言葉をその時知った。だが、ソフト面での知識がない。当時の年齢は50代半ば。大概のことは頑張れば何とかなる。英語だって短大卒業以来何十年ぶりに習ったではないか。だが、パソコンに関してはその時は世に出てそれほど経っていない。若い現役学生は生まれたころからパソコンになじんでいる。その人たちについて行くには大変な作業だった。もう一人社会人がいた。その人と最後にとった行動は若者を買収する!?これももう時効?

 どんな課題よりも苦しかった情報科目。あれから10余年が経過。9年前からブログを開始。その頃のことを思えばブログは簡単だ。

 会社に勤め始めた頃はテレックスに始まり、ファックス、パソコンと事務仕事は大きく進歩した。しかし、キーボードに関する仕事は視力が悪く、避けていた。それでもパソコンは時代の波に押されてやむなく職務遂行。今となってはこれで良かったのかもしれない。

 またまた話は変わって昨日のフルート・レッスン。アリアの曲をさらう。まだどれをソロにするか決めかねている。しばらくどちらにするか様子を見て決めよう!

2017年6月20日火曜日

テレビ三昧の一日

 テレビ三昧の一日を過ごす。まずはBSプレミアムシネマで「帰らざる河」を見る。西部劇?と思ったら西部開拓劇だった。若い頃のマリリンモンローはやっぱりきれい。その後はBS1で「日本百名山」のダイジェスト版を見る。夕飯後もBS3で別の山の百名山を見る。そして一日の終わりに見たのはBSジャパンの「ワタシが日本に住む理由」。

 昨夜のゲストはイスラエルから日本にやって来た岐阜県八百津町の国際交流員ハニトさん。八百津町は杉原千畝の故郷だそうだ。杉原はユダヤ人に対して出国ビザを発給し続けた人でイスラエルでは知らない人はいないらしい。それにしてもポーランドで知ったユダヤに関するヒト・モノ・コトはテレビでも目に付く。

 杉原千畝記念館のある八百津町には毎年2000人のイスラエル人が訪れるという。その案内をハニトさんがやっている。番組の冒頭で「ユダヤ人はずる賢いです」とハニト。このキーワード、何回か話していた。他国の人が言うのならまだしも自嘲ネタなのかユダヤのご本人がそう語る。

 「日本は子育ても安心ですから…」と日本に住む理由を話す。土地を持たないユダヤの民は世界中に散らばっている。アメリカはユダヤの民に土地を与えてイスラエルという国を作った。
 
 

 ユダヤの民は頭がよく、世界で活躍しているお金持ちはその人たちだ。昨夜、テレビで見たハニト一家はさてさて…。それにしても「帰らざる河」の英語の歌詞は聞き取りやすい!

2017年6月19日月曜日

読者モニターetc.

 新聞の読者モニターになって2回目の依頼が先日届いた。朝刊の商況以外は隅から隅まで読んでいるつもりだった。ところが見たことも聞いたこともないタイトルの質問がある。何といい加減な読者モニターと思わず苦笑。それでもそれが何か調べようともせず、アンケートの回答をする。昨日の朝刊でそのタイトルの掲載がある。やっぱり読んでいなかった。もっと丁寧に読まないとモニターとは言えない。

 モニターと言ってもこちらから名乗りを上げたわけではない。新聞掲載のコンサートチケットなどの読者プレゼントを毎週のようにメールで申し込んでいる。このメールアドレスを新聞社が利用してモニターになったようだ。ともあれ、引き受けたからにはもっと新聞を読まなくてはいけない。

 地元紙といえば昨日の朝刊を見ると我が家の近くのスーパーに72歳の人が車で突っ込んだ記事がある。毎日のように買い物に出かけているスーパー。人に被害はなく、ただ店舗内にまで車が突っ込んだらしい。それにしても物騒な世の中だ。

 プロ野球の交流戦が終わった。1軍はしばらく休みでも2軍が気になる。不本意に2軍行きとなった堂林選手。今朝も見るとウエスタンで3打点を挙げている。2軍になってホームランやヒットで打点を挙げている。早く1軍に戻るといいけど…。

 話は変わってソロで吹く曲、まだこだわっている。ピアソラはアルゼンチンの作曲家。ヴィラ・ロボスはブラジル。クラッシックの作曲家は西洋に多いはずなのによりによって2人ともその出身ではない。どちらの国も出かけたことがない。そのなかでもアルゼンチンに行って本場のタンゴを聞いて見たい。だが、すぐには行かれそうにない。南半球はあまりにも遠すぎる。

 一人投票でピアソラに軍配をあげたけどまだ迷いがある。さてどうする!?

2017年6月18日日曜日

「ある文民警察官の死 ~カンボジアPKO 23年目の告白~」を見る

  昨夜NHKで放送された「ある文民警察官の死 ~カンボジアPKO 23年目の告白~」を見た。途中、新聞の番組欄を見ると「~選」とある。再放送だった。番組HPを見ると以下のように書いてある。

「1993年5月4日。タイ国境に近いカンボジア北西部アンピルで、UNTACに文民として初めて参加していた日本人警察官5人が、ポルポト派とみられる武装ゲリラに襲撃された。岡山県警警視、高田晴行さん(当時警部補・33歳)が殺害され、4人が重軽傷を負った。湾岸戦争以来、日本の悲願であった人的な国際貢献の場で起きた惨劇は検証されることなく、23年の月日が流れた。しかし、今、当時の隊員たちが重い口を開き始めている。番組ではカンボジアPKOの襲撃事件を様々な角度から描き出す。そこには、戦後日本の安全保障政策が大きく転換しPKOでもさらなる任務が求められることになった今、私たちが目を背けてはならない多くの“真実”がある」。

 見ていて人的な国際貢献どころかまるで戦場に駆り出された人たちだ。1993年ごろから話が始まる。見ながら旅のメモ帳を取り出すとその2年後の1995年8月にカンボジアに旅行している。亡くなったPKOの話題は何となく覚えていた。しかし、これほどひどい光景だったとは…。国際貢献となれば「銃は持ってはいけない、~してはいけない」といろいろ制約があるそうだ。それでも何ドルか出せば銃も手に入る。国際貢献とは名ばかりの状態で現地に赴く。ある時、ある場所へ行くのが怖くなった隊員は名前を貸して現地の人を身代わりに参加させる。その人は襲撃されて亡くなる。それを依頼した隊員は悪かった、とテレビで話す。しかし、日本の大使館や政府はそれでも職務を全うするようにとけしかける。

 名ばかりの国際貢献。協力者だと思っていたポルポト派。そのうちの一人を隊員は23年ぶりに訪ねる。今でも職務に着く元ポルポト派の一人。懐かしさをもって日本人を迎えても決して当時の真相を語りはしない。

 戦時中でなくても国際貢献の下、職務を全うしなければならないコトがある。見ていて現地に赴く人の安全保障をもっとわかって送り出すコトも大事と知る。

 それにしても我々庶民には報道されないモノ・コト・ヒトは多くあるのだろう。朝からぶつぶつ言ってしまった。

 ブログをアップしようとするとまた再起動の表示が出る。ブログを中断してお墓へ参る。先月いろいろと取り込んでいてお墓参りをしなかった。帰宅すると頭から顔から汗が噴き出る。朝から大仕事をした感じがする。再起動は順調に終わっていた。

 昨日と言えば他にも日本画教室へ行く。スケッチした落ち葉をトレーシングペーパーに写して木製パネルに再度写す。地塗りのパネルはどう見ても黄土色が黄色すぎる。先生に話すと今度は全く異なる濃いワイン色で地塗りする。さてさてこの落ち葉、どんな日本画になるのやら…。

2017年6月17日土曜日

再度♪天使のミロンガ♪

 数週間前から週に一度の割合で歯医者へ通い出した。歯を抜かれるのが嫌で恐る恐る通う。通い始めるとその日にぐらついていた歯を動かないようにしてもらう。抜かれなくてよかった、と思って歯医者を信頼する。「次は1週間後に…」の言葉で毎週通っている。昨日も「大丈夫!」と言われて、次週に通う。通い始めるといつまで通うのか気になりだす。ともあれ、去年、来院するようにと言われて行かなかった。その矢先、被せていた歯がとれた。その罰が当たった、とその時は思った。しばらくは罰が当たらないようにと歯医者通いとなりそうだ。

 通い始めると週に一度のことでも結構日程が詰まる。別に仕事をしているわけでもなく常に遊び人。せめて歯医者ぐらい、と思って通うのもいいのだろう。

 今朝の地元紙にノンフィクション作家の保阪正康氏が「2020年の改憲」について書いている。「『百年守護』、私は主張する」の大見出しが目につく。安倍首相が2020年改憲の期限付きの発想で「実際にこのペースで進むのであれば、日本社会は一気呵成に独裁政治体制、あるいはファシズム体制になってしまうのではないか」、「ファシズムとか軍事主導体制は行政独裁が真の姿であり、その本質なのだと私たちは知っておく必要がある」という。

 先日の「共謀罪」法成立もファシズムへと向かうかもしれない。こうなると安倍は独裁者!?一度辞めた人を誰が2度も首相にした?困った国になりつつある。


 気を取り直して、発表会のソロで吹く曲は一人投票で♪天使のミロンガ♪に決める。再度動画をアップ。

2017年6月16日金曜日

「共謀罪」法成立から

 朝刊のトップ記事は「共謀罪」法成立がある。「これはいけんじゃろう」、思わず声が出る。先日出かけて目にしたり、聞いたりしたアウシュビッツや「カチンの森」事件。これらはナチスドイツやスターリン時代のことだ思う。ところが今回の法案成立はまさにこの時代に戻りそうなにおいを感じさせる。〇朝鮮や〇国などの一党独裁政権。ひとたびことが起きればこの鶴の一声ですべてが決まる。他の意見を顧みる政治ではない。

 政治や宗教のことは話題にすべきではないとよく言われる。それでも、この法案はどう見てもよくない。文科省の事件でもだれが嘘をついているのか。久々に日本の政治にモノ申したい。

 すべてが監視され、家族であっても自らを正当化するために互いが罵り合う社会になりそうだ。第二次世界大戦の頃の本を先日読んだばかり。この時代に戻ってはいけない。大概のことは自分一人が楽しく生きればいいと能天気に考えるところがある。しかし、これと後に続く世代を考えないのとはまたモノゴトは異なる。

 民主主義の社会。やっぱり「共謀罪」法はやめるべきだ。日本にはたくさん偉い人がいるはず。だれかこの国を何とかしてくれ、と声高に叫びたい!

 気分を変えて昨日は泳ぎに出かける。梅雨とはいえ、雨も降らず湿度も低い。過ごしやすい日が続く。午後のプール。迷った挙句元気を出して泳ぎに行く。いつもとは少し遅れてのプール。中学生たちが泳ぎ始める。それも浅い方でバタフライで泳ぐ。次回は早めに出かけよう。ということで1キロ泳がずにプールを出た。

2017年6月15日木曜日

パソコンの再起動から

 延長12回は昨夜のカープの試合。試合終了時刻は何と午後10時半。誠也のサヨナラホームランで勝鯉となった。勝ったのはいいのだが、それよりも2時間近く前にパソコン画面に出た「今すぐに再起動」。再起動か、と思ってその通りにする。ところが、ところが…。

 カープの試合終了後になっても画面は「再起動中…」のまま。いつまで再起動が続くのか不安のまま寝る体制に入る。それから、1時間経過しても画面はそのまま。どうする?と考えた挙句が強制終了。パソコンが壊れたら壊れたでいい、と強気になる。強制終了後、再度パソコンを起動する。何とか、いつもの通りになった。

 それにしてもこのパソコン、いつまでたっても気を持たせる。パソコンがない生活は今のところ考えられない。ということでパソコントラブルが起こるたびに変な神経を使う。先ほどこういう時の対処法をネットで検索すると、やはり強制終了とある。

 これも結果論であって、パソコンのトラブル時は検索できない。これもボケ防止と言われればそうかもしれないけど、たまにやって来るこういったパソコントラブル。いっそうのことパソコンのない生活を、と思ったりするがそれはできそうにない。何とか迷いながら神経を使いながら時代について行く、これしかないのかもしれない。

2017年6月14日水曜日

ヴィラ・ロボス♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪

 フルートのレッスン後、歩いて三越裏にある画材屋に出かける。「方解末をください」と告げるとお店の人曰く「何両ですか?」。「何両?と言われてもわかりません」とさらに話すと瓶に入った方解末を見せてくれる。それほど大きな瓶ではない。「これを…」と言いかけそうになって気づく。「両」とは商品を売る量の単位と。それでも何両でなく何gならば大凡の見当がつく。店員の目の前には秤量の秤が置いてある。子どもの頃に見た粉薬などを測る秤だ。この秤にも驚く。

 何度聞いてもわからず、金額で注文する。家に帰って品物を見ると品番9で5両、600円だった。次はスケッチブックを購入。日本画の人からばら売りの用紙を売っていると聞いていた。そう告げると大きな用紙を出される。水彩画用か何用かと聞かれ日本画用と答える。これもまたおかしな返答らしい。「F6の大きさで…」とお願いするとメジャーで測り始める。ああじゃこうじゃとやりとりの挙句「スケッチブックの方が安くつきますよ」とスケッチ帳を出してくる。これは重たいのでばら売りをと思った。ところが店員の言う通りスケッチブックを購入する。

 それにしてもまるで子供のお使いと同じだ。わけがわからず買いに行った結果がこのありさま。「ほんまに日本画、わかっとるんかいね」と自問自答する。

 昨日は購入といえば他にもフルートの楽譜がある。先生にお願いしていたヴィラ・ロボスの♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪。遠藤剛史編の『フルートによる愛の歌曲集』に収められている。曲集の「はじめに」では「いろいろなものが氾濫、錯綜し、オリのなかのねずみのような強迫観念に囚われてしまいそうな時間の流れの中で、いい音を、いい音楽を求めるのは大変なことだと思います。だからこそ、それが必要だと思うのです。…」と書いてある。「いい音楽」を求めてこの曲にたどり着いた、といえば様になる。ともあれ、この曲が気に入ってしまった。先生に感謝!


 楽譜をしみじみ眺めて動画と聴き比べる。途中、楽譜とアレンジが異なる。スローな曲で息が続くのか心配になる。発表会のソロで吹く♪天使のミロンガ♪。先生の前で吹くと出だしは自分でも上出来だった。今日からもう一つの候補曲である♪ブラジル風バッハ…♪を練習してどちらをソロにするか決めよう。ともあれこれまでさらっていた♪アンネ・クライネ・ナハトムジーク♪はどうにかしあげる。

 なお動画は新たに見つけたヴィラ・ロボスの♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪から。

2017年6月13日火曜日

『女の一生 二部サチ子の場合』

 遠藤周作『女の一生 二部サチ子の場合』(新潮文庫、昭和61年)を読んだ。この本はポーランドの旅で移動するバス車内で聞いた添乗員の言葉による。何の話でこの本が出たのか今となっては覚えていない。バスの長い移動の車内で説明する添乗員。キュリー夫人、シンドラーのリスト、アンネの日記、日露戦争でポーランドの孤児を日本赤十字社が助けたこと、そしてこの本など調べてきた資料だろうか、車内で話を続ける。

 思わず本のタイトルだけでも、と思ってメモする。この2,3日、図書館で借りてこれを読む。久しぶりに文庫本、それも小説を読む。405頁もある分厚い文庫本。読みごたえはあった。

 本の裏表紙には「第二次世界大戦下の長崎で、互いに好意を抱きあうサチ子と修平。しかし、戦争の荒波は二人の愛を無残に引き裂いていく。修平は聖書の教えと武器を取って人を殺さねばならないことへの矛盾に苦しみつつ、特攻隊員として出撃する。そしてサチ子の住む長崎は原爆にみまわれる。激動の時代に、信仰をまもり、本当の恋をし、本当の人生を生きた女の一生を鮮やかに描き出す」とある。
 
 幼い頃にサチ子と修平は長崎の教会で知り合う。この教会に神父として勤めたコルベ神父はポーランドへ帰国後アウシュビッツ強制収容所に入れられて、そこで亡くなる。このアウシュビッツ強制収容所で行われる出来事と、サチ子と修平の出来事を交互に織り交ぜて本は構成されている。どちらも第二次世界大戦中の出来事だ。アウシュビッツ強制収容所で行われた悲惨な出来事は読んでいて辛いものがある。アウシュビッツの博物館で目にしたことよりも文章の書き方がリアルすぎる。それくらい悲惨さが伝わる。なお、悲惨さの一番はアウシュビッツやビルケナフ強制収容所でユダヤ人が虐殺された後の大量の屍。これを同じ収容所の人により骨を砕く作業の場面は人間のすることか。しかし、この仕事をやり遂げたモノだけが遅くまで命を長らえる。いずれ殺戮される身であっても…。このことがアウシュビッツ強制収容所の鉄条網に掲げられている「働けば自由になる」の言葉だったとは…。

 これらのことは父母たちが生きて来た時代に実際に世界で起きていた。戦争に加わって生き延びた人たち、決して口にはできないことがあったのだろう。この本にも書いている。アウシュビッツ・ビルケナフ強制収容所の責任者は家に帰っても決して仕事の話はしなかったという。

 一方、日本でのサチ子と修平。特攻隊員となった修平。キリスト教信者として戦争へ参加する心理がサチ子あての手紙を通して書かれている。読み終えるころには涙なくしては読めない。ひさびさに読む心洗われる本だった。そして読後に自分の人生はサチ子と比べると何と薄っぺらな人生、と思う。それと同時に、なんと幸せな時代を生きているのだろう、とも思う。

 本は読んでも小説というジャンルは歳を取るにつれてほとんど読まなくなった。しかし、この本のように素晴らしい本もたくさんあるはず。ともあれ、旅で聞いたこの本は読んでよかった。ポーランドで当時何が起きていたのかもわかる。

 この本にある言葉から。「旅は人生であり、青い山脈は若者の憧れです」。171p

 哀しいかな「旅は人生…」まではいいが後半部分の「青い山脈…」はもはや遅すぎる!? 

2017年6月12日月曜日

ポーランド7つの世界遺産を巡る8 日間の旅

 2017年5月7日から5月14日までの8日間、ポーランドへ出かけた。出発日の朝が早く、博多駅近くのホテルに前泊する。出かける数日前に添乗員から旅の注意事項などの電話がある。日本と違ってまだ寒いヨーロッパ。薄いダウンのジャケットを機内持ち込みのリュックに詰める。他にも現地通貨ズロチの両替と現地ホテル到着時には夕飯がないとのことだった。両替は教えてもらった博多駅構内の両替所の電話番号を聞いて電話予約する。ところが新幹線チケットは変更・取り消し不可の「おとなび」利用ですでに購入済。博多駅到着時刻を見るとなんとか両替可能な時刻だった。
 
 両替を済ませると「先ほど宮崎の人も来られました」との係りの言葉。これを聞いて気持ちもほぐれる。心配していたことが解消し、ホテルに向かう。博多口のホテルに泊まるのは今回が初めて。どういっても博多駅は広島駅とは違って人が多すぎる。旅行社から送られてきた宿のチラシを手に持ち、人に聞きながら歩く。若い女性に尋ねるとホテル近くまでの道を教えてくれた。しばらく歩いてもホテルが見えない。若い兄ちゃんに聞くと親切にスマホで探してくれる。ほぼ目の前がホテルだった。年々年を取る。今回の旅の教訓は「何でもわからないことは若者に聞くこと」。若者は婆を見捨てない。
 
 ホテルに着くと荷物を置いて翌日の空港行きのバスターミナルの確認に出かける。いつもは筑紫口に泊まる。だが、今回はそれとは真反対の博多口。何度も来ているはずなのにここでも乗り場確認に手こずる。何と聞く人聞く人が韓国人だった。しばらくして制服姿の係りに聞くと乗り場のホームの番号まで教えてくれる。確認すると安心して夕飯に出かける。ともあれ、この夜は日本食の鯛めしの御膳をいただく。この夜の夕食場所も和風レストラン以外、混雑は半端でなかった。
 
 夕飯を済ませてホテルに戻る。大通りを一歩入ったホテルは外の喧噪を忘れさせる。大きな浴場がホテルの謳い文句かどうかしらない。ともあれ早めにお風呂に入ってこの日は早く寝る。

第一日目 2017年5月7日 福岡✈ヘルシンキ✈ポーランド


 
地図の説明
                                                      YOHOO 地図から引用 (ポーランドの位置図)
           

ウイキペディアから引用(ポーランドの国内地図)




 5時25分 アラームセットで目を覚ます。博多バスターミナルから福岡空港国際線ターミナルまではバスで移動する。到着後は3階にある南側26番カウンターを目指す。8時ちょうどの集合もすでに手続きを済ませた人もいる。列に並ぶと一人参加の人が前だった。知り合った人と機内に預ける荷物検査に出かける。機内の席は空いていれば変更可能と教えてもらう。カウンターで航空チケットをもらうと運よくトランジット後も通路側だった。知り合った人は窓側らしく、席は後部になってもいいといって通路側に変更。搭乗を済ませるとまずはヘルシンキの到着ゲートまでの旅が始まる。

 10時 離陸後、機内で映画を見る。操作はわかっても音が出ない。CAに問うとイヤホンの故障だった。30分経過すると飲み物とおつまみが出る。隣の隣の人は同じツアーの人。だが、席が空いているとのことで旦那さんは前の席に移動。4人掛けも2人空席だと旅も快適。その人はビールを飲むという。機内でビール?と思ったが誘惑に負けて飲む。フィンランド・エアのCAはアサヒと見知らぬビールのどちらにするかを笑顔で問いかける。ここは”KARHU”。後で調べるとフィンランドで有名なビールだった。
 
カルフ(Karhu)はフィンランドで1,2位を争う有名なビール
 

 離陸後1時間半後に機内食が出る。カレーシーフードなどだった。ここまでの食事は日本で作られているので美味。機内で”THE LAKE HOUSU”と”THE NOTE BOOK”の映画を見る。前者は手紙のやり取りを通して人間模様を描く。その中で「私はちゃんと自分の人生を生きなきゃならない」の言葉。思わず自分に問われている気がする。

 18時半 機内食として釜めしが出る。ヘルシンキと日本との時差は6時間。現地時間ではこの時刻は真夜中に当たる。福岡✈ヘルシンキまでの飛行時間は10時間25分。

 14時25分(ここから現地時間表記) ヘルシンキ到着。その後のトランジットまで約5時間ある。その間、再集合場所を確認後、解散。ここで知り合った人と長時間話をして過ごす。どういっても日本時間では午後8時半から真夜中過ぎの1時までの長時間のフリータイム。空港内の椅子に限りがあり、確保してゆっくりする。知り合った人と話をすると機内で見た2本の映画の回想録のようなお話だった。ポーランドに旅する目的も話された。ポーランドから日本の某大学に留学中に知り合った人と20年ぶりに再会されという。留学生の旦那さんはバリトン歌手らしい。鞄から資料を出してはいろいろと話される。習っている外国語、楽器の話も出た。フルートを習っていると話すと、その人は何とチェコのフルート奏者で広島で結婚された人の結婚式に出席したとのこと。これを聞いて以前、広島交響楽団のフルート奏者だった人の名を出すと同一人物だった。ほんまに世間は狭い。楽器はハーモニカをされていた。手元にハーモニカ2本を差し出してお話しされる。家には70本のハーモニカがあるそうだ。普通の人ではない。

 20時15分 ヘルシンキを離陸後、クラコフまで2時間のフライト。到着後バスで移動して12時45分、クラコフのホテル着。ホテルは「ノボテル クラコフ シティウエスト」。日本時間にすると翌朝の午前7時前。ということは博多のホテルを出て24,5時間が経過し、その間ずっと起きていたことになる。眠い!この日からホテルは3連泊。ミネラルウ―タ―はホテルの廊下に無料で備えてある。これをカラ容器に入れて早めに寝る。

第二日目 2017年5月8日(月) 曇りで気温は2~14度の予報
 
 旅の参加人員36名ともなると点呼も簡単ではない。うち一人参加は14名。広島からは4名、熊本の人は8,9名と多い。他には福岡県内、山口、宮崎、佐賀などの人たちですべての人を把握しきれない。いつの間にか話す人も限られてくる。「類は友を呼ぶ」はまさにそうでいつの間にか気の合う者同士が集まる。
ホテルの廊下に置かれた無料のミネラルウオーター
 世界遺産クラコフ歴史地区観光
 
 9時にホテルを出て午前中は世界遺産クラコフ歴史地区を観光。クラコフ(=クラクフ)はポーランド王国の最盛期に首都として繁栄する。第二次世界大戦中、ドイツ軍の司令部が置かれたため震災を免れる。旧市街全体が世界遺産に登録されている。クラコフは歴代ポーランド王の居城であるヴァヴェル城(大聖堂)、ゴシック建築の壮大な聖マリア教会、織物会館、中央広場などを見学する。  


ヴァヴェル城
ヴァベル城の純金の建物




 屋根が金色の建物は純金と現地ガイドは話す。これについてのエピソードをガイドはしきりに話す。女王アンナ・ヤデロンカは醜い王女で結婚相手がいなかった。そこで女王が残した財産で女王亡き後、純金の建物を建設。当時の建物にはお風呂がなく3か月に1回くらいしか体を洗わなかった。そのため香水が普及したらしい。またトイレは無臭対策として王宮の下に作った。しかし、フランスではそのようなトイレもなかったとガイドは話す。他にもフランスにはフォーク、ナイフはなくポーランドから取り入れたそうだ。
ヴァヴェル城の中庭
中庭の壁にはフレスコ画が残っている

ポーランドの国旗

観光に訪れたポーランドの子供たち



ヴァヴェル城(大聖堂)へは聖体式があり、
中に入れなかった

聖堂(カテドラル)の壁にあるマンモスの骨
これは「人も永久に」との願いが込められているという


ポーランドの子供たち



聖マリア教会
 ポーランドでは中世、モンゴル軍の襲撃にあった際、ラッパ吹きが危険を周知させるためラッパを吹いた。その最中に矢で射殺されたという言い伝えがある。それに倣い、広場にある聖マリア教会の塔の上では、1時間おきにラッパが吹き鳴らされ、演奏中に突如途絶する。ツアーの一行も午前11時と正午にラッパの音色を聞いた。いずれのラッパも演奏中に吹くのが止んだ。この伝統は中世から連綿と続いている時報としての聖マリア教会のトランペットコールだ。珍しいモノが聞けて幸いだった。
 
 11時40分、聖マリア教会を見学するが、もの凄い人出で暗い聖堂内を人にはぐれないように歩く。ところが、 教会を出たところで点呼確認がなく男性3人が行方不明になる。慌てた添乗員は現地ガイドに連絡して歩行をストップさせる。どういっても日本人現地ガイドは日本人とは思えないほどの高身長。歩く歩幅も広い。しばらくして全員を確認。
 
 途中、小休憩がある。織物会館内のトイレは有料。2ズロチ(70円)。その後、スーパーのカフールに行く。これはいわゆるコンビニだった。現地通貨でチョコなど購入して枕銭などに使うコインを用意する。
聖マリア教会のトランペットの演奏
(写真が撮れなかったためウキペディアから引用)
ドイツ軍に破壊されてもなお残り、
それを寄進した人の名が記されている

ヴァヴェル城の壁

ポーランドの英雄の像 コシュースコ 
戦後ドレスデンの市民によって当時と同じものがつくられた

クラコフの旧市街


先々代ヨハネパウロ二世の関係先は今は美術館となっている


お洒落なレストランで昼食

住所はその昔、ライオンの家というように動物で表示していた

あちこちに春を告げる花が咲いている
クラコフの街の屋台(パン屋?)
 

 屋台のパンはウイキペディアによると「クラコフ式オブヴァジャーネック」といわれ、「一度ゆでてから焼いたパン」の意味らしい。これはクラコフのユダヤ人文化の代表格で市内でライセンスを取得したパン屋だけが製造販売できるという。

クラコフ市内のトラム

以前はこの石垣より下にお城があったらしい


織物会館と中央広場には観光用の馬車が駆けていた
織物会館入口
織物会館内にはたくさんのお店がある
 アウシュビッツ・ビルケナフ強制収容所観光
 
 ポーランドの旅が始まるにつれて「ユダヤ人」、「シンドラーのリスト」などのキーワードが頻繁に聞こえてくる。アウシュビッツ・ビルケナフ強制収容所を見学中、現地ガイドの中谷さんから訪れた5月8日は奇しくもヨーロッパ戦勝記念日と知らされる。第二次世界大戦において連合国ドイツ降伏して、ヨーロッパにおける勝利を記念する日であった。

 私たち一行を案内してくださった中谷さんはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所内のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の最初で唯一の外国人公式ガイドである。奥様はポーランド人らしく、ガイドにも力が入り、聞いている側にも問いかけながら話される。あれがいけない、これがいけないと過去をダメダメ尽くしで言うのでなく、どうすればこれからがよくなるのかと問いかけられる。これは聞いていて聞き流せなくなるほど真剣になる。見学者の中にポーランドの子供たちの姿もある。懸命に聞く子どもたち。国を挙げてこの子たちの未来を考えているようだ。

 ユダヤ人を救った杉原千畝。この人により難を逃れた人を運ぶ手配をしたのは私たちが今回利用したJTBだそうだ。これは中谷さんから聞いて初めて知る。他の日本人ツアー客ガイドは中谷さんではなかった。私たちの一行は中谷さんのガイドを聞けていろんな面で有難かった。

アウシュビッツ強制収容所

 アウシュビッツ強制収容所入口の鉄条網には”ARBEIT MACHT FREI” (働けば自由になる)の言葉が掲げられている。実際は「働けば自由になる」どころかここからが死への旅の始まりとは…。

アウシュビッツ強制収容所入口

この日5月8日はヨーロッパ戦勝記念日
ここでたくさんの人が亡くなり、花束が手向けられている

広い収容所内のあちこちにはここで
何事もなかったかのように美しい花が咲いていた

収容所の全部でなく一部の建物がミュージアムとなっている

収容所の位置図

収容された人が履いていた靴
収容所周辺は整備されてまるで楽園のように思える
 アウシュビッツ収容所から歩いてビルケナフ収容所に移動



ビルケナフ強制収容所の一部

「ガス」、のキーワードも見える

ビルケナフ強制収容所のトイレ

 

収容所の明かり、ではなくてここからガスが入れられた

アウシュビッツ強制収容所から
ビルケナフ強制収容所に向かう

ビルケナフ強制収容所
 
 
 約2時間の見学を終えてバスはホテルへ向かう。19時、ホテル着。着いたところで久々にバスに酔ったのか気分が悪くなる。夕飯は食べず、朝ホテルで失敬したオレンジ1個を食べて22時就寝。クラコフのホテルは3連泊。ノボテル クラコフ シティウエスト宿泊。


第三日目 2017年5月9日(火) 晴れ 気温は2~8度の予報


 この日は食べずに寝たのが良かったのか気分爽快で朝食も美味。だが、気温は4度と低い。7時45分、バスは世界遺産ヴィエリチカの岩塩坑観光に移動する。車窓からはシンドラーの工場の跡に建つ丘の石碑が見える。旅の間幾度となく耳にするシンドラー。この人はドイツ人実業家第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場雇用していた1,200人を虐殺から救った。なぜ、シンドラーは雇用していたユダヤ人を救えたのか。ウイキペディアによると次のようなことがわかった。
 
 「シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求できたのである。 彼は、これらの労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけることが出来たのである」。


 世界遺産ヴィエリチカ岩塩坑観光

 ヴィエリチカの岩塩坑は旅行社にもらった旅のパンフによると「13世紀中ごろから1990年代まで採掘が続いた岩塩採掘場。9層の岩塩坑は最深部が327ⅿ、坑道の総延長は約300㎞。現在は採掘道具や岩塩の彫刻などを展示する博物館となっている」とある。
 

ヴィエリチカ岩塩坑観光の入り口

ヴィエリチカ岩塩坑は1978年に世界遺産に登録された

 ヴィエリチカ岩塩坑内に入るにはエレベータを利用する。一般的にはエレベータは一つの箱になっている。ところがここでは多くの人たちが坑内に入るためか、縦に連なる4段の箱でできている。列車で例えるならば一両の列車が横に連なるのでなく、縦にというか下へ下へと連結している。エレベータから降りる時も入りる時とは違ってドアの開き方に特徴がある。特徴といえば他にもエレベータを作動させる際、エレベータの外に立っている係りがまるでドラのようにカンカンと鐘をついて合図する。そして順番に並んでエレベーターに乗り、さらに順序よく坑内へと入っていく。

 この鐘の音にもよるのか、悪いジョークが飛び出す。「まるでガス室へと送られるユダヤ人のようだ」。決して口には出せないジョーク。今が幸せな世の中だから言えるのかもしれない。
ヴィエリチカ岩塩坑に入るエレベータ


エレベータからヴィエリチカ岩塩坑内に下りたところ

エレベータを降りたこの辺りは地下64mの深さの表示がある

何世紀にもわたって採掘された岩塩坑
今は博物館として整備されている
そしてここが地下深くとは思えない

歩きながら壁を触って口にすると塩の味がした

坑内は14度の気温に保たれ、この中で一生を過ごした馬は
外で過ごす一般の馬よりも長生きだったそうだ

採掘で使う道具を実際に動かしてみた
力を入れなくてもすぐに動いた

延々と続く岩塩の洞窟内
両側はもちろん岩塩

 暗い坑内は足元を確認しながら奥へと進む。かなり行くと開けた場所に出る。教会だった。ここには礼拝堂もある。また岩塩坑内にはゲーテの彫刻もあった。
かなり奥へ奥へと進むと開けた場所に出る
岩塩採掘に従事した人たちが作った教会だった
この為ヴィエリチカ岩塩坑は塩の宮殿ともいわれる
これはこれは見事な教会で礼拝堂ももちろんある
どういう気持ちでこれを作ったのだろうか
途中、水がたまった池のようなところもあった
美しい水の色はエメラルドグリーンだった

 岩塩坑内には教会もトイレも売店も、さらにはレストランまである。それらはまるで地上に建設された博物館といった感じでうまく整備されている。これらはすべて地下130ⅿにあり、さらに地下深くへは水がたまっていて観光はできない。

 ヴィエリチカ岩塩坑をウイキペディアで探すと次のように書いてある。「特筆すべきは、観光客向けの 3.5 km の坑道で、歴史上や神話上の様々なモチーフを象った彫像が並んでいる。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものである。さらには屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながらそこは岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈しているのである」とある。それにしても、これらのすべてが坑夫たちの信仰のためだったとは…。

 今ではここから出る塩水を利用して観光用の「塩」が生成されて販売される。皆さん、塩を購入されていた。塩は重たいので買わずに、陶器でできた小さな塩入れなどを購入。約2時間の観光は終わった。現在、多くの観光客を運ぶトロッコ列車が作られているそうだ。この岩塩坑、今回の旅のハイライトともいえるほど素晴らしかった。
 
塩が氷柱(塩柱?)になっている

 11時半 昼食。外では雪が降り、気温7度と寒い。温かいスープがたっぷりと出る。ポーランドの食文化は豊かなのだろう。これまで出かけたヨーロッパの中のどこよりも美味だった。そしてどういっても清潔感に溢れている。スープの次はポーランドの名物ピエロギ。これも美味。だが一皿に10個ぐらいあり、とてもじゃないが全部は食べきれない。3つ食べて後は残す。どの人を見ても完食の人はいないようだ。美味しいけど食べきれない。本当にもったいないお話。最後にデザートが出る。これも全部は食べきれないほどの量がある。前夜、食事を抜きにしているので一度に多くを食べると体に良くない。もったいない、が口から出るけど食べるのを控える。
野菜がたっぷり入ったスープ

メインディッシュはポーランド名物のピエロギ


デザート
 世界遺産カルヴァリア・ゼブジドフスカ観光

 12時半にバスは出発して1時間後に世界遺産カルヴァリア・ゼブジドフスカ観光に到着。カルヴァリア・ゼブジドフスカは1600年頃、この地の領主であり、エルサレムのゴルゴダの丘に見立てて礼拝堂を建造した。その後、周辺に礼拝堂が続々と建てられ、巡礼地となった。どういってもポーランドの95%以上はカトリックの信者。この地を訪れる人は多い。
世界遺産カルヴァリアゼブジドフスカ

聖堂の内部

先々代のローマ法王、ヨハネパウロ二世の寝室

先先代のヨハネパウロ二世の愛用品


2006年にペネディクト16世はこの地を訪れた


聖堂の外の景色

聖堂から見える光景

聖堂の外の光景

先々代のローマ法王ヨハネパウロ二世の像

         聖堂の裏山一帯は巡礼地になっている


 1時間の見学後、バスに乗る。途中車窓からは雪が降るのが見える。16時15分、早めにホテル到着。部屋に荷物を置いて皆で歩いて10分のところにあるスーパーに繰り出す。現地通貨をほとんど使っていない。飲み物代もこれまでアルコールを避けていたので使っていない。ともあれ、お土産を買いに出かける。

 17時半 バスで夕食のレストランへ移動する。このテーブルは10人掛けくらい。この席は楽しい人たちが集まる。画家の〇〇さんからボトルのワインをご馳走になる。ポーランド語での乾杯は知らなくても楽しく乾杯!この席には熊本の人が多かった。レストランは添乗員から後でミシュランと聞く。今宵の宿も3連泊のノボテル クラクフ シティウエスト。
トマト味のスープ 本当に美味
多すぎて全部はいただけない

メインディッシュ 美味しかった

デザートも美味
そしてワインも美味!
ミシュランのレストランだった
マークがある

第四日目 2017年5月10日 曇りのち晴れ 気温は3~11度の予想
  
 ホテルのレストランで朝食をいただく際、受付のカウンターで名簿を確認すると”BLACK”と表記がある。日本人は黄色人種で色がついているから”BLACK”!?

 チェンストホバにあるヤスナグラ修道院見学

 この日の起床は5時10分と早い。7時にバスは出発して9時、修道院到着。午前中の観光はポーランド南部のヴァルタ川が流れる都市チェンストホバにあるヤスナグラ修道院見学。ここは1655年のスウエーデン軍侵略の際、最後まで屈服せずにチェンストホバを守ったとされる聖画「黒いマドンナ(聖母)」がある。 

 もらったパンフによるとわずかな人数の勇ましい防御で奇跡的に陥落しなかったのは、このイコンの聖母が助け守ってくださったお蔭だと伝えられている。個人的にもこの聖母を信奉していたポーランド出身の先々代のヨハネパウロ二世は「マリアよ、私のすべては、あなたのものです」との金言をもって、ここヤスナグラで司教的使命を委ねられた。

 訪れた日はミサが行われており、聖堂内は観光客とミサに参加する着飾った人たちで溢れかえる。人でいっぱいの聖堂内の裏側に進んでの見学もある。多くの人の前で参列するミサの人の気持ちは如何なものなのだろうか。

ヤスナグラ修道院への道

ヤスナグラ修道院

信者からの寄進の品

信者からの寄進

信者から寄進

黒いマドンナ

ミサに集う人々

子供たへのミサ

ミサ


大聖堂内の本堂

聖堂の外は春の日差しがいっぱいだった

青空に映える聖堂

聖堂の外

 12時50分、バスはチェンストホバを出発してヴロツワフ観光に向かう。ヴロツワフは、ポーランド西部にある第4の都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつ。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。車窓から見えるのは菜の花畑。どこまでも続く。
バスの車窓から望遠で写す
菜の花畑はどこまでも続く

 ヴロツワフ観光

 お昼をいただいた後、ヴロツワフを観光する。ここは街角に突如現れる小人の置物が有名である。10数年前に第1号が現れて観光客の撮影スポットになっている。年々増えるようだ。
スープ

メインディッシュのバルシチ


デザート

 
中央広場

ここも建物に動物がいる

カラフルな色の建物

ゴシックとルネサンスの美の調和がみごとな旧市庁舎


広場の大道芸人

中央広場

ヴロツワフ名物の小人たち

彩り豊かな舗装

小人

小人

小人

小人

 ナポレオン率いるフランス軍との戦いに勝利した記念に造られた世界遺産百年記念会館がある。百年記念会館とよばれる由来は、1813年の対ナポレオンのライプツィヒの戦い100年を記念し1913年に建てられた。当時は世界最大のドーム型コンクリート建築として脚光を浴びた先駆的存在らしい。内部直径69m、高さ42mあり、2006年に世界遺産に登録された。
百年記念会館

百年記念会館前に咲くチューリップ


百年記念会館の横
 

旧市街

旧市街

旧市街 
菜の花畑が目の前に開ける
菜の花畑の前に立つ

 16時、バスはヴロツワフを後にして175km先にあるボズナンへ向かう。予定のバスの移動は3.5時間。車窓からは相変わらず菜の花畑が続く。この日、バスの座席は降車しやすい位置だった。19時、トイレ休憩で早めに降りて建物の後ろ側に回ると幸いにも目の前が菜の花畑だった。この時ばかりは車窓からではなく目の前の菜の花畑を写す。初めての動画撮影も試みる。動画はうまくできたのだがブログへのアップが今一歩分からず残念!

 ホテル予定到着時刻は19時半。しかし、この時刻はトイレ休憩を済ませたばかりの時刻。1時間くらい遅れてのボズナンのホテル着となった。日本で知り合われたポーランドの留学生とホテルで待ち合わせの人は無事再会されていた。ホテル到着までにも車窓から見えるのは菜の花畑。望遠にして菜の花畑を写す。ボズナンのホテルはホテル ノボテル ボズナン セントラム。部屋番号は701号室。ところが”7”の書き方が日本とは違って”1”との区別がつかない。”707”は”701”だった。他の人も数人迷う。係りに部屋を案内してもらってやっとたどり着く。 

車窓から望遠で写す菜の花畑

車窓から望遠で写す菜の花畑

車窓から望遠で写す菜の花畑

第五日目 2017年5月11日(木) 曇り 気温は7~17度の予想

 ポーランド建国の地ボズナン観光

 8時、ボズナンのホテルをバスは出発してポーランド建国の地ボズナン観光に出かける。途中、バスの車窓から美しい光景を目にする。もらったパンフによるとボズナンはポーランド中西部の中心都市であり、べルリンとワルシャワの中間に位置する地の利から商業で繫栄。初代ポーランド王朝の発祥地であるともいう。

車窓から見る美しい風景

車窓から見る風景
ボズナンの美しい観光スポットの水辺
まるでコペンハーゲンで見た船に似ている

 まずはポーランド最古のキリスト教会であるボズナン大聖堂を見学。
ボズナン大聖堂内部

ボズナン大聖堂内部

ボズナン大聖堂

聖堂の内部 
 
 
三角屋根の建物はシナゴーク(ユダヤ人の集会所)→プール→今はヒルトンホテルになっている
 聖堂内を見学後は古き良きヨーロッパの面影を残す旧市街広場に出る。シナゴークと呼ばれるユダヤ人の集会所はプールになり、さらに今はヒルトンホテルに買収されている。ボズナンには現在ユダヤ人は50人しかいないそうだ。
 
 9時40分、バスは出発してトルンへ向かう。この日はボズナンからトルンまでバス移動は3時間。さらにトルンからワルシャワまでは4時間の移動。旅の2日目から添乗員はバス車内が満員のため、座席を毎日変えて指定席にする。旅の初日からバス酔いがあり、一番長い移動日のこの日、幸いにも前の方に一人座って気も和らぐ。 
人々を懲らしめる見せしめの塔

ボズナン旧市庁舎をアップで写す

ボズナン旧市街広場


ボズナン旧市庁舎

 世界遺産トルン観光

 昼食はレストランでいただく。メインディッシュはロールキャベツ。このレストランは元来ポーランドは清潔なうえにさらに清潔だった。温めたお皿はナプキンの端をもって直接手に触れることなく各自のテーブルに置かれる。ロールキャベツをお皿に盛ってもらう際、1つだけお願いする。3色に盛られたものは日本で言えば前菜だろうか。細かく刻んだ甘酸っぱい酢漬けというところ。一皿が一人前なので全部食べると他が食べられなくなる。

 トルンは地動説で知られるコペルニクスが生まれた街。またドイツ騎士団の拠点の一つで、中世の風雅な雰囲気が漂う旧市街全体が世界遺産に登録されている。なお、ドイツ騎士団は『大辞林』によると「騎士修道会の一。1190年の第三回十字軍で活躍。一三世紀以降東方植民の先頭にたち領土の拡大に寄与。ドイツ騎士団領は、プロイセンの基礎となった」とある。
ヴィスワ川岸にバスを停めて
ヴィスワ川岸にバスは停車




トルンのお昼の前菜?

スープ
ロールキャベツにジャガイモが添えてある
ジャガイモは主食なのか、メインディッシュに添えられている



ショパンの祖父の生家





アップにしたもの
 


コペルニクスの生家

 菩提樹は葉っぱがハート形と熊本の画伯から教わる。菩提樹はリンデンバウムとも言われ、熊本の画伯とハーモニカ奏者のお二人は🎵リンデンバウム~♪と歩きながら楽しそうに歌われる。美しい歌声だった。
菩提樹の葉はハート形
トルン旧市街を歩く


何処の国の子供もマックは大好き!?
歩道にはトルンの街
ドイツ騎士団城跡

ドイツ騎士団城跡に建つ標識

ドイツ騎士団城跡

ヴィスワ川

トルンの市街

トルンの旧市庁舎とコペルニクス像
 
聖ヨハネ大聖堂

聖ヨハネ大聖堂内

トルンの 旧市街広場
コペルニクス博物館
コペルニクスの生家




  聖パウロ大聖堂や旧市街地を観光後、15時50分、バスはワルシャワへ向けて出発する。ワルシャワまでは250Kmで所要時間は4時間の予定。ポーランドは高速道路がないらしい。それでも車道の両脇にあるパネルが気になる。これは交通の騒音遮断のパネルかそれとも太陽光パネルか、後でガイドに聞くと騒音遮断用だった。それにしてもところどこにしかなく大きさや形も場所により異なっていた。
 
 ワルシャワのホテルはインターコンチネンタル ワルシャワ。夕飯はレストランでいただく。

車道の横に設置されたパネルは何?


ワルシャワのホテル22階から見下ろす


夕飯はビールで乾杯!
レストランで夕食


メインディッシュ



デザート
第六日目 2017年5月12日(金) 曇りのち晴れ 気温は8~18度の予想

 ワルシャワのホテルでも宿泊する階が皆バラバラ。朝の食事で他の人とは違う場所で食事をする。周りを見ても日本人はおらず、中国人や西洋人が多い。戸惑っていると親切な中国の宿泊客がスープを入れてくれる。中国人とわかったので中国語で話した。それで親切にしてくれたのだろう。後で聞くと私たちのツアーはその会場ではなくて他の場所が朝食場所だった。ともあれ、高級そうな雰囲気に浸って朝食をいただいた。

 世界遺産ワルシャワ観光

 ワルシャワと言えばショパン、それしかないのかというほどすべてはショパン。ショパン様のお蔭で今でもずっと、さらにこの先までも街は栄えるのだろう。まずはワルシャワ市民の憩いの場であるワジェンキ公園へ行く。


ボタンを押すとショパンの曲が流れる

ショパン像の前での演奏会もある

ショパン像
ワジェンキ公園入口
      ワジェンキ公園
  
 
 





ショパンの心臓が納められているという聖十字架教会


案内標識

 

 

 
台湾を紹介する学生のデモ風景

日本紹介の学生のデモ


 

日本紹介のデモ風景

 

 ワルシャワ市民の憩いの場であるワジェンキ公園やショパン像、ショパンの心臓が納められているという聖十字架教会、ワルシャワ市民の復興のシンボルの旧市街広場などへ歩いて移動中、韓国衣裳のチョゴリを着た人が見える。次は日本の着物も見える。近くの大学生による各国を紹介するデモンストレーションのようだ。話をするとイスラエル、韓国、台湾、日本などを紹介していた。韓国のブースで知っているハングルを並べると爪楊枝で作った国旗をくれた。台湾のブースは中国語でも繁体字で簡体字の中国とは一線を引いていた。、
こちらはイスラエル紹介だった

韓国紹介のデモ風景

デモの近くに大学があった
 旧市街広場で短いフリータイムがある。お土産屋を除いた後、広場のベンチに腰掛ける。広場はワルシャワ市民の憩いの場で地元の人たちや観光客で溢れている。旅に出たからにはいろいろな国の人たちと触れ合いたい。その思いはいつも強い。腰かけたベンチの横の人と片言の英語で話をすると聴き易い英語での返答だった。学生?と思ったら娘さんがいるとのこと。スマホで見せてくれる。いろいろと話していると台湾の人もやって来る。せっかくの人だかり、と思って一緒に写真に納まる。台湾の人は私たちのツアーは何人か、と中国語で聞いてくる。頭は中国語と英語でこんがらがる。しばらくすると台湾人のツアーは出発し、その後もポーランド人と話を続ける。
 
 「ちょっと待って!」とポーランドの人は英語でその場を去る。そのまま椅子に座っていると何と「お土産」を渡される。もうびっくり。これまでいろんな国へ出かけている。今回で現地の見知らぬ人からお土産をいただたのは3度目。最初はドイツのライン川湖畔を散策中、ふと立ち寄ったアンティークショップでのことだった。やっとインターネットができるようになった頃のお話。家にまだパソコンはなかった。ネットをしている店の主。旅で知り合った人と店内を物色中、ワイングラスを2個もらう。もうびっくり。どこへ出かけてもどうも物ほしそうにしているのだろう。ともあれこれもドイツ旅行の良き思い出。旅の楽しみは知らない人とのふれあいにもある!
 
 ポーランドの人からのいただきモノはショパンの生家の写真入りマグネット。大事に使わせていただこう。
 
 ポーランドと日本は友好国らしい。日露戦争で孤児となった人たちを日本の赤十字社は日本で保護した。他にも杉原千畝のお話。さらには梅田良忠という人もポーランドと日本の親子2代にわたって懸け橋となっている。梅田の本は旅に出る前に偶然目にして読んでいた。アウシュビッツのガイドをされている中谷さんにこの人のことを問うとやはりご存じだった。今、ポーランドは政治的にも落ち着いている。ずっとこの状態が続くといい。
旧市街広場
旧市街広場
ユネスコの表示がある
広場には大道芸人の姿もある
ここのベンチで腰かけてポーランドの人たちと話す


ワルシャワ蜂起記念碑


ポーランド語が読めないけど2010年4月7日の碑?


 ガイドから元ポーランド大統領は双子の兄を首相に任命してカチンスキ政権が誕生したと聞いて知った。ロシア西部のスモレンスク西方20キロに通称「カチンの森」と呼ばれるところがある。1940年4月から6月にかけて約4400人のポーランド将校や聖職者らがソ連の秘密警察によって銃殺された場所らしい。ロシアは2010年4月7日、初めて追悼式典を主催し、プーチン首相がトゥスク首相とともに現地の慰霊碑にひざまずいた。だが、反ロ姿勢を示してきたカチンスキ大統領は招かれなかった。

 
それもそのはず、カチンスキ大統領は4月10日にポーランドが主催する追悼式典にのぞむため、「カチンの森」犠牲者遺族とともに政府専用機で現地近くの空港に向かっていた。なんとこの政府専用機は墜落し100人近くが犠牲になった。これは闇に伏されたままとなっているそうだが、どう見ても変なお話。どこかの誰かの謀略に違いない。ポーランドに関することは他にも現地ガイドや添乗員から話を聞く。『アンネの日記』のアンネのお父さんはアウシュビッツ収容所で生き残った人。もし生き残らなかったら『アンネの日記』は世に出ることがなかったかもしれない。またキュリー夫人などの興味ある話も出る。

  観光中、現地ガイドがポーランドのお菓子を配ってくれる。美味だった。これを買いにガイドとスーパーへ繰り出す。

キュリー夫人の生家

政府庁舎
 

ポーランド軍の大聖堂
 
 
 
昼食場所近くの風景
スープ
ワルシャワのお昼
デザート
お昼のレストランでのピアノ生演奏
 
バス車窓から見る菜の花畑








ショパンの生家へと続く道
  ワルシャワ市内を観光後、約60㎞先のショパンの生家があるジェラゾヴァ・ヴオラまでバスで向かう。その前にワルシャワのレストランでピアノ演奏を聞きながらお昼をいただく。ショパンの生家は広大な庭園に囲まれている。赤い花の栃木やこれまた赤い花の野生のりんごの木も多くみられた。また庭園内の教会では時間をおいてショパンの曲のピアノが演奏され、園内に響き渡っていた。
庭園は広くてショパンの生家は大きな樹木に囲まれている
ショパン像
庭園内
向うに見えるはショパンの生家
庭園内は新婚さんの記念撮影会?
大きな木の幹から鳥たちが出はいりする姿もある
ショパンの生家内の様子
実際に使っていたものではないらしいい
 
ホテル近くの横断歩道はピアノの鍵盤模様だった
このような歩道は3か所あるそうだ
これもピアノの詩人ショパンに因んでいるのだろう
ワルシャワでの最後の晩餐

 ポーランドの旅の最後の晩餐はピアノ演奏を聞きながらポーランド風カツレツのコトレットをいただく。貸し切り状態のレストラン。旅も終わりごろになると自ずと仲間ができてくる。この夜のテーブルは優しい人たちばかりで楽しくいただく。ワインで乾杯!ピアノを聞く暇もないくらいみんなと楽しく話す。隣の男の人にブログの話をすると反応してくださる。それまではブログの話をしても誰からも反応がなかった。ついつい嬉しくなって話していると同じテーブルの人からもブログのタイトルを聞かれる。

 ピアノの演奏が終わると添乗員がまるでこの夜の晩餐会の司会者の如く現れて、例のハーモニカ奏者の人を紹介される。さあ、ハーモニカ演奏の出番!🎵荒城の月🎵が響き渡る。アレンジと変調での素晴らしい演奏だった。思わず声を出して歌った。曲が終わると誰彼となくアンコールのコールが鳴り響く。私も思わずブラボー!ここ一番の旅のハイライトとなった!アンコール曲は🎵赤とんぼ🎵。素晴らしい晩餐会であり、演奏会となった。

ワルシャワでの最後の晩餐会場のレストラン

メインディッシュのポーランド風カツレツのコトレット

デザート

 楽しいポーランドの夜を終えてバスはワルシャワのホテルに向かう。1時間経過後ホテルに到着。この日のホテルは前夜と同じインターコンチネンタル ワルシャワ。22階から眺める夕日は美しい。
ワルシャワの夜も更けて
 

 この夜、NHKワールドのテレビのチャンネルを聞いて何度も画面に挑戦。だが、どうやっても見られない。それでも何度かやっているとわかった。日本のようにリモコンでチャンネル番号を押してもダメで「72」チャンネルならばある表示で10を7回やってそれから2番目を押すと表示できた。
ホテルの部屋から見る夕日

第7日~8日目 2017年5月13(土)~14日(日) ワルシャワ✈ヘルシンキ✈福岡

 この日は日本に帰国する日。ホテルの出発時刻も10時半と遅い。やっと表示できたNHKワールドを見ていると”WOULD MORE MONEY MAKE UP YOUR HAPPINESE?”のタイトルで各国の人が議論している。しばらくわからないなりに見て思う。これはないよりはあるほうがいいと。しかし、より多くあれば幸せになれるかどうかわからない。それなりにあればそれでいい。なぜ旅先でこんな話題を、と思ってしまう。

 ワルシャワの空港に着いた。ポーランドの現地通貨ズロチはうまく使い切った。ただお水を空港で没収されて喉が渇く。残っていたズロチに加えて足りないズロチを人からもらって自販機に向かう。水1本は5ズロチ。自販機へはお金を入れるのでなくコインの形の箇所にのせてスイッチをあげて入れる仕組みだった。これだと日本とは違って2度手間がかかる。そしてほしいドリンクの番号も押さねばならない。わけがわからなくて迷う。そばにいる外国人に教えてもらってやっと水をゲット。

 機内は搭乗手続きの際、通路側に変更した。ワルシャワ✈ヘルシンキまでは隣の席はポーランドの3人連れだった。片言の英語で話すと中国の北京から西安へ3人で2週間の旅をするという。ヘルシンキでトランジット後の隣は偉そうな態度をとる見知らぬ若者。無視して映画を見る。映画のタイトルは”LIVE OF PI”。この中に出てくる言葉を思わずメモする。「ああ、何もかも失くした。これ以上何が欲しいというのか」。そうだ。「これ以上、何が欲しいんだ」と自問自答。

 楽しいポーランドの旅は終わった。ああじゃこうじゃと要らぬことを考えず、楽しく旅を続ける。これも考えてみれば幸せな人生かもしれない。旅をご一緒した皆さま、ほんとうにありがとうございました!そして長い文につき合っていただき感謝いたします!

 それにしてもポーランド、やっぱりいい国。ポーランドは「野原」を意味するらしい。その名前の通り、バスの車窓から見る光景は何処までも続く菜の花畑。あまりにも美しすぎる。美しいといえば食事の度に入るレストラン。ここはどこもまるでメルヘンの世界。かわいい!これまでずーっと平和が続いたように思えるポーランド。悲惨な出来事もたくさんあった。しかし、この平和な時代はこれからずーっと続くだろう。

追記 旅の間に聞いたヒト、モノ、コトetc.
 
杉浦千畝
遠藤周作『女の一生』(サチ子の場合)
『アンネの日記』
「シンドラーのリスト」
中谷剛 アウシュビッツ・ビルケナフ博物館公式ガイド
宮永匡和 クラクフの現地ガイド テンペラ画家
コペルニクス
キュリー夫人
ショパン
梅田良忠
「カチンの森」
ワイダ監督
連帯ワレサ議長