多田茂治著『野十郎の炎』(葦書房、2001年)を読んだ。本の半分くらいまでは高島野十郎の「画家への道」(第一章)、「故郷を捨てる」(第二章)からなり、第三章で「おれのパラダイス」としてやっと「野十郎の炎」が出てくる。第四章では野十郎亡き後の「死後の栄光」が大凡の本の構成となっている。また、いつものように気になる個所を抜粋しよう。
※画壇で言えば、大方の会派が、会友、準会員、会員、理事、常任理事といったランクづけをしているし、それは作品の巧拙、価値とは相応しないことが少なくない。野十郎はそういう階級社会からはみ出してきた。彼が人間の生きる姿で最も尊重したのは、大地で汗して働く農民であった。119p
※東京に居た頃から、野十郎は赤々と燃える一本の蝋燭の絵を描いていたが、増尾のアトリエのランプ生活にはいってから、一段と蝋燭の絵に熱がこもった。電燈はなく、人声も車の音もしない。太古のしじまだ。夜の静寂に侵されたアトリエは、一本の燃える蝋燭の炎を描くにはうってつけの環境だったろう。120p
※花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事・・・それは洋人キリスト教者には不可能
野十郎は早くから、万物に神を見る汎神論的な思考の持ち主ではあったが、年とともにその思いが深まり、花一輪、砂一粒にも、造化の神の妙を見るようになっている。127p
※生まれた時から散々に染めこまれた思想や習慣を洗ひ落とせば落とすほど、写実は深くなる。写実の追求とは何もかも洗ひ落として生まれる前の裸になる事、その事である。128p
※野十郎最後の個展は、『新美術新聞』四十九年三月十五日号で紹介されている。
ことし八十五歳を迎えた高島野十郎の風景と静物二十点の個展である。東大農学部の卒業後画を描きはじめ、さらにフランスに留学して画を学んだというが、独身をおし通し、人と交わるのをいとい、無所属のままひとすじに自分の画を描いてきている。日本画の手法を思わせる丹念でこまやかなリアリズムは、そのようなこの作家の生き方を反映してか、清純な澄明さをきわめている。・・・すべてが生き生きとそれぞれ情感をたたえ、見る者の心を洗う。162-163p
※孤高の人ではあったが、土地の農民たちから「やさしい画家さん」と親しまれたのが、彼が慈悲の心を持っていたからにほかならない。165p
※
足音を立てず
靴跡をのこさず
空気を動かさず
寺門を出る
さて
袖を拂ひ
裳をた々ひて
去り歩し行く
明々朗々遍無方 (野十郎碑の言葉)
世におもねらず、ひとり静かに靭く立ち、慈悲の心を絵に託し、清貧無欲の生涯を送った高島野十郎に、まことにふさわ遺偈(ゆいげ)というべきものだろう。193p
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