2017年5月7日から5月14日までの8日間、ポーランドへ出かけた。出発日の朝が早く、博多駅近くのホテルに前泊する。出かける数日前に添乗員から旅の注意事項などの電話がある。日本と違ってまだ寒いヨーロッパ。薄いダウンのジャケットを機内持ち込みのリュックに詰める。他にも現地通貨ズロチの両替と現地ホテル到着時には夕飯がないとのことだった。両替は教えてもらった博多駅構内の両替所の電話番号を聞いて電話予約する。ところが新幹線チケットは変更・取り消し不可の「おとなび」利用ですでに購入済。博多駅到着時刻を見るとなんとか両替可能な時刻だった。
両替を済ませると「先ほど宮崎の人も来られました」との係りの言葉。これを聞いて気持ちもほぐれる。心配していたことが解消し、ホテルに向かう。博多口のホテルに泊まるのは今回が初めて。どういっても博多駅は広島駅とは違って人が多すぎる。旅行社から送られてきた宿のチラシを手に持ち、人に聞きながら歩く。若い女性に尋ねるとホテル近くまでの道を教えてくれた。しばらく歩いてもホテルが見えない。若い兄ちゃんに聞くと親切にスマホで探してくれる。ほぼ目の前がホテルだった。年々年を取る。今回の旅の教訓は「何でもわからないことは若者に聞くこと」。若者は婆を見捨てない。
ホテルに着くと荷物を置いて翌日の空港行きのバスターミナルの確認に出かける。いつもは筑紫口に泊まる。だが、今回はそれとは真反対の博多口。何度も来ているはずなのにここでも乗り場確認に手こずる。何と聞く人聞く人が韓国人だった。しばらくして制服姿の係りに聞くと乗り場のホームの番号まで教えてくれる。確認すると安心して夕飯に出かける。ともあれ、この夜は日本食の鯛めしの御膳をいただく。この夜の夕食場所も和風レストラン以外、混雑は半端でなかった。
夕飯を済ませてホテルに戻る。大通りを一歩入ったホテルは外の喧噪を忘れさせる。大きな浴場がホテルの謳い文句かどうかしらない。ともあれ早めにお風呂に入ってこの日は早く寝る。
ウイキペディアから引用(ポーランドの国内地図) |
5時25分 アラームセットで目を覚ます。博多バスターミナルから福岡空港国際線ターミナルまではバスで移動する。到着後は3階にある南側26番カウンターを目指す。8時ちょうどの集合もすでに手続きを済ませた人もいる。列に並ぶと一人参加の人が前だった。知り合った人と機内に預ける荷物検査に出かける。機内の席は空いていれば変更可能と教えてもらう。カウンターで航空チケットをもらうと運よくトランジット後も通路側だった。知り合った人は窓側らしく、席は後部になってもいいといって通路側に変更。搭乗を済ませるとまずはヘルシンキの到着ゲートまでの旅が始まる。
10時 離陸後、機内で映画を見る。操作はわかっても音が出ない。CAに問うとイヤホンの故障だった。30分経過すると飲み物とおつまみが出る。隣の隣の人は同じツアーの人。だが、席が空いているとのことで旦那さんは前の席に移動。4人掛けも2人空席だと旅も快適。その人はビールを飲むという。機内でビール?と思ったが誘惑に負けて飲む。フィンランド・エアのCAはアサヒと見知らぬビールのどちらにするかを笑顔で問いかける。ここは”KARHU”。後で調べるとフィンランドで有名なビールだった。
カルフ(Karhu)はフィンランドで1,2位を争う有名なビール |
離陸後1時間半後に機内食が出る。カレーシーフードなどだった。ここまでの食事は日本で作られているので美味。機内で”THE LAKE HOUSU”と”THE NOTE BOOK”の映画を見る。前者は手紙のやり取りを通して人間模様を描く。その中で「私はちゃんと自分の人生を生きなきゃならない」の言葉。思わず自分に問われている気がする。
18時半 機内食として釜めしが出る。ヘルシンキと日本との時差は6時間。現地時間ではこの時刻は真夜中に当たる。福岡✈ヘルシンキまでの飛行時間は10時間25分。
14時25分(ここから現地時間表記) ヘルシンキ到着。その後のトランジットまで約5時間ある。その間、再集合場所を確認後、解散。ここで知り合った人と長時間話をして過ごす。どういっても日本時間では午後8時半から真夜中過ぎの1時までの長時間のフリータイム。空港内の椅子に限りがあり、確保してゆっくりする。知り合った人と話をすると機内で見た2本の映画の回想録のようなお話だった。ポーランドに旅する目的も話された。ポーランドから日本の某大学に留学中に知り合った人と20年ぶりに再会されという。留学生の旦那さんはバリトン歌手らしい。鞄から資料を出してはいろいろと話される。習っている外国語、楽器の話も出た。フルートを習っていると話すと、その人は何とチェコのフルート奏者で広島で結婚された人の結婚式に出席したとのこと。これを聞いて以前、広島交響楽団のフルート奏者だった人の名を出すと同一人物だった。ほんまに世間は狭い。楽器はハーモニカをされていた。手元にハーモニカ2本を差し出してお話しされる。家には70本のハーモニカがあるそうだ。普通の人ではない。
20時15分 ヘルシンキを離陸後、クラコフまで2時間のフライト。到着後バスで移動して12時45分、クラコフのホテル着。ホテルは「ノボテル クラコフ シティウエスト」。日本時間にすると翌朝の午前7時前。ということは博多のホテルを出て24,5時間が経過し、その間ずっと起きていたことになる。眠い!この日からホテルは3連泊。ミネラルウ―タ―はホテルの廊下に無料で備えてある。これをカラ容器に入れて早めに寝る。
第二日目 2017年5月8日(月) 曇りで気温は2~14度の予報
旅の参加人員36名ともなると点呼も簡単ではない。うち一人参加は14名。広島からは4名、熊本の人は8,9名と多い。他には福岡県内、山口、宮崎、佐賀などの人たちですべての人を把握しきれない。いつの間にか話す人も限られてくる。「類は友を呼ぶ」はまさにそうでいつの間にか気の合う者同士が集まる。
ホテルの廊下に置かれた無料のミネラルウオーター |
世界遺産クラコフ歴史地区観光
9時にホテルを出て午前中は世界遺産クラコフ歴史地区を観光。クラコフ(=クラクフ)はポーランド王国の最盛期に首都として繁栄する。第二次世界大戦中、ドイツ軍の司令部が置かれたため震災を免れる。旧市街全体が世界遺産に登録されている。クラコフは歴代ポーランド王の居城であるヴァヴェル城(大聖堂)、ゴシック建築の壮大な聖マリア教会、織物会館、中央広場などを見学する。
ヴァヴェル城 |
ヴァベル城の純金の建物
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屋根が金色の建物は純金と現地ガイドは話す。これについてのエピソードをガイドはしきりに話す。女王アンナ・ヤデロンカは醜い王女で結婚相手がいなかった。そこで女王が残した財産で女王亡き後、純金の建物を建設。当時の建物にはお風呂がなく3か月に1回くらいしか体を洗わなかった。そのため香水が普及したらしい。またトイレは無臭対策として王宮の下に作った。しかし、フランスではそのようなトイレもなかったとガイドは話す。他にもフランスにはフォーク、ナイフはなくポーランドから取り入れたそうだ。
ヴァヴェル城の中庭 |
中庭の壁にはフレスコ画が残っている |
ポーランドの国旗 |
観光に訪れたポーランドの子供たち |
ヴァヴェル城(大聖堂)へは聖体式があり、 |
中に入れなかった |
聖堂(カテドラル)の壁にあるマンモスの骨 これは「人も永久に」との願いが込められているという |
ポーランドの子供たち |
聖マリア教会 |
ポーランドでは中世、モンゴル軍の襲撃にあった際、ラッパ吹きが危険を周知させるためラッパを吹いた。その最中に矢で射殺されたという言い伝えがある。それに倣い、広場にある聖マリア教会の塔の上では、1時間おきにラッパが吹き鳴らされ、演奏中に突如途絶する。ツアーの一行も午前11時と正午にラッパの音色を聞いた。いずれのラッパも演奏中に吹くのが止んだ。この伝統は中世から連綿と続いている時報としての聖マリア教会のトランペットコールだ。珍しいモノが聞けて幸いだった。
11時40分、聖マリア教会を見学するが、もの凄い人出で暗い聖堂内を人にはぐれないように歩く。ところが、 教会を出たところで点呼確認がなく男性3人が行方不明になる。慌てた添乗員は現地ガイドに連絡して歩行をストップさせる。どういっても日本人現地ガイドは日本人とは思えないほどの高身長。歩く歩幅も広い。しばらくして全員を確認。
途中、小休憩がある。織物会館内のトイレは有料。2ズロチ(70円)。その後、スーパーのカフールに行く。これはいわゆるコンビニだった。現地通貨でチョコなど購入して枕銭などに使うコインを用意する。
聖マリア教会のトランペットの演奏 (写真が撮れなかったためウキペディアから引用) |
ドイツ軍に破壊されてもなお残り、 それを寄進した人の名が記されている |
ヴァヴェル城の壁 |
ポーランドの英雄の像 コシュースコ 戦後ドレスデンの市民によって当時と同じものがつくられた |
クラコフの旧市街 |
先々代ヨハネパウロ二世の関係先は今は美術館となっている |
お洒落なレストランで昼食 |
住所はその昔、ライオンの家というように動物で表示していた |
あちこちに春を告げる花が咲いている |
クラコフの街の屋台(パン屋?) |
屋台のパンはウイキペディアによると「クラコフ式オブヴァジャーネック」といわれ、「一度ゆでてから焼いたパン」の意味らしい。これはクラコフのユダヤ人文化の代表格で市内でライセンスを取得したパン屋だけが製造販売できるという。
クラコフ市内のトラム |
以前はこの石垣より下にお城があったらしい |
織物会館と中央広場には観光用の馬車が駆けていた |
織物会館入口 |
織物会館内にはたくさんのお店がある |
ポーランドの旅が始まるにつれて「ユダヤ人」、「シンドラーのリスト」などのキーワードが頻繁に聞こえてくる。アウシュビッツ・ビルケナフ強制収容所を見学中、現地ガイドの中谷さんから訪れた5月8日は奇しくもヨーロッパ戦勝記念日と知らされる。第二次世界大戦において連合国がドイツを降伏して、ヨーロッパにおける勝利を記念する日であった。
私たち一行を案内してくださった中谷さんはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所内のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の最初で唯一の外国人公式ガイドである。奥様はポーランド人らしく、ガイドにも力が入り、聞いている側にも問いかけながら話される。あれがいけない、これがいけないと過去をダメダメ尽くしで言うのでなく、どうすればこれからがよくなるのかと問いかけられる。これは聞いていて聞き流せなくなるほど真剣になる。見学者の中にポーランドの子供たちの姿もある。懸命に聞く子どもたち。国を挙げてこの子たちの未来を考えているようだ。
ユダヤ人を救った杉原千畝。この人により難を逃れた人を運ぶ手配をしたのは私たちが今回利用したJTBだそうだ。これは中谷さんから聞いて初めて知る。他の日本人ツアー客ガイドは中谷さんではなかった。私たちの一行は中谷さんのガイドを聞けていろんな面で有難かった。
アウシュビッツ強制収容所 |
アウシュビッツ強制収容所入口の鉄条網には”ARBEIT MACHT FREI” (働けば自由になる)の言葉が掲げられている。実際は「働けば自由になる」どころかここからが死への旅の始まりとは…。
アウシュビッツ強制収容所入口 |
この日5月8日はヨーロッパ戦勝記念日 ここでたくさんの人が亡くなり、花束が手向けられている |
広い収容所内のあちこちにはここで 何事もなかったかのように美しい花が咲いていた |
収容所の全部でなく一部の建物がミュージアムとなっている |
収容所の位置図 |
収容された人が履いていた靴 |
収容所周辺は整備されてまるで楽園のように思える
アウシュビッツ収容所から歩いてビルケナフ収容所に移動
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ビルケナフ強制収容所の一部 |
「ガス」、のキーワードも見える
ビルケナフ強制収容所のトイレ
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収容所の明かり、ではなくてここからガスが入れられた |
アウシュビッツ強制収容所から ビルケナフ強制収容所に向かう |
ビルケナフ強制収容所 約2時間の見学を終えてバスはホテルへ向かう。19時、ホテル着。着いたところで久々にバスに酔ったのか気分が悪くなる。夕飯は食べず、朝ホテルで失敬したオレンジ1個を食べて22時就寝。クラコフのホテルは3連泊。ノボテル クラコフ シティウエスト宿泊。
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第三日目 2017年5月9日(火) 晴れ 気温は2~8度の予報
この日は食べずに寝たのが良かったのか気分爽快で朝食も美味。だが、気温は4度と低い。7時45分、バスは世界遺産ヴィエリチカの岩塩坑観光に移動する。車窓からはシンドラーの工場の跡に建つ丘の石碑が見える。旅の間幾度となく耳にするシンドラー。この人はドイツ人の実業家で第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。なぜ、シンドラーは雇用していたユダヤ人を救えたのか。ウイキペディアによると次のようなことがわかった。
「シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求できたのである。 彼は、これらの労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけることが出来たのである」。
世界遺産ヴィエリチカ岩塩坑観光
ヴィエリチカの岩塩坑は旅行社にもらった旅のパンフによると「13世紀中ごろから1990年代まで採掘が続いた岩塩採掘場。9層の岩塩坑は最深部が327ⅿ、坑道の総延長は約300㎞。現在は採掘道具や岩塩の彫刻などを展示する博物館となっている」とある。
ヴィエリチカ岩塩坑観光の入り口 |
ヴィエリチカ岩塩坑は1978年に世界遺産に登録された |
ヴィエリチカ岩塩坑内に入るにはエレベータを利用する。一般的にはエレベータは一つの箱になっている。ところがここでは多くの人たちが坑内に入るためか、縦に連なる4段の箱でできている。列車で例えるならば一両の列車が横に連なるのでなく、縦にというか下へ下へと連結している。エレベータから降りる時も入りる時とは違ってドアの開き方に特徴がある。特徴といえば他にもエレベータを作動させる際、エレベータの外に立っている係りがまるでドラのようにカンカンと鐘をついて合図する。そして順番に並んでエレベーターに乗り、さらに順序よく坑内へと入っていく。
この鐘の音にもよるのか、悪いジョークが飛び出す。「まるでガス室へと送られるユダヤ人のようだ」。決して口には出せないジョーク。今が幸せな世の中だから言えるのかもしれない。
ヴィエリチカ岩塩坑に入るエレベータ
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エレベータからヴィエリチカ岩塩坑内に下りたところ |
エレベータを降りたこの辺りは地下64mの深さの表示がある |
何世紀にもわたって採掘された岩塩坑 今は博物館として整備されている そしてここが地下深くとは思えない |
歩きながら壁を触って口にすると塩の味がした |
坑内は14度の気温に保たれ、この中で一生を過ごした馬は 外で過ごす一般の馬よりも長生きだったそうだ |
採掘で使う道具を実際に動かしてみた 力を入れなくてもすぐに動いた |
延々と続く岩塩の洞窟内 両側はもちろん岩塩 |
暗い坑内は足元を確認しながら奥へと進む。かなり行くと開けた場所に出る。教会だった。ここには礼拝堂もある。また岩塩坑内にはゲーテの彫刻もあった。
かなり奥へ奥へと進むと開けた場所に出る 岩塩採掘に従事した人たちが作った教会だった この為ヴィエリチカ岩塩坑は塩の宮殿ともいわれる これはこれは見事な教会で礼拝堂ももちろんある どういう気持ちでこれを作ったのだろうか |
途中、水がたまった池のようなところもあった 美しい水の色はエメラルドグリーンだった |
岩塩坑内には教会もトイレも売店も、さらにはレストランまである。それらはまるで地上に建設された博物館といった感じでうまく整備されている。これらはすべて地下130ⅿにあり、さらに地下深くへは水がたまっていて観光はできない。
ヴィエリチカ岩塩坑をウイキペディアで探すと次のように書いてある。「特筆すべきは、観光客向けの 3.5 km の坑道で、歴史上や神話上の様々なモチーフを象った彫像が並んでいる。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものである。さらには屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながらそこは岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈しているのである」とある。それにしても、これらのすべてが坑夫たちの信仰のためだったとは…。
今ではここから出る塩水を利用して観光用の「塩」が生成されて販売される。皆さん、塩を購入されていた。塩は重たいので買わずに、陶器でできた小さな塩入れなどを購入。約2時間の観光は終わった。現在、多くの観光客を運ぶトロッコ列車が作られているそうだ。この岩塩坑、今回の旅のハイライトともいえるほど素晴らしかった。
塩が氷柱(塩柱?)になっている |
11時半 昼食。外では雪が降り、気温7度と寒い。温かいスープがたっぷりと出る。ポーランドの食文化は豊かなのだろう。これまで出かけたヨーロッパの中のどこよりも美味だった。そしてどういっても清潔感に溢れている。スープの次はポーランドの名物ピエロギ。これも美味。だが一皿に10個ぐらいあり、とてもじゃないが全部は食べきれない。3つ食べて後は残す。どの人を見ても完食の人はいないようだ。美味しいけど食べきれない。本当にもったいないお話。最後にデザートが出る。これも全部は食べきれないほどの量がある。前夜、食事を抜きにしているので一度に多くを食べると体に良くない。もったいない、が口から出るけど食べるのを控える。
野菜がたっぷり入ったスープ |
メインディッシュはポーランド名物のピエロギ |
デザート |
12時半にバスは出発して1時間後に世界遺産カルヴァリア・ゼブジドフスカ観光に到着。カルヴァリア・ゼブジドフスカは1600年頃、この地の領主であり、エルサレムのゴルゴダの丘に見立てて礼拝堂を建造した。その後、周辺に礼拝堂が続々と建てられ、巡礼地となった。どういってもポーランドの95%以上はカトリックの信者。この地を訪れる人は多い。
世界遺産カルヴァリアゼブジドフスカ |
聖堂の内部 |
先々代のローマ法王、ヨハネパウロ二世の寝室 |
先先代のヨハネパウロ二世の愛用品 |
2006年にペネディクト16世はこの地を訪れた |
聖堂の外の景色 |
聖堂から見える光景 |
聖堂の外の光景 |
先々代のローマ法王ヨハネパウロ二世の像 |
聖堂の裏山一帯は巡礼地になっている
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1時間の見学後、バスに乗る。途中車窓からは雪が降るのが見える。16時15分、早めにホテル到着。部屋に荷物を置いて皆で歩いて10分のところにあるスーパーに繰り出す。現地通貨をほとんど使っていない。飲み物代もこれまでアルコールを避けていたので使っていない。ともあれ、お土産を買いに出かける。
17時半 バスで夕食のレストランへ移動する。このテーブルは10人掛けくらい。この席は楽しい人たちが集まる。画家の〇〇さんからボトルのワインをご馳走になる。ポーランド語での乾杯は知らなくても楽しく乾杯!この席には熊本の人が多かった。レストランは添乗員から後でミシュランと聞く。今宵の宿も3連泊のノボテル クラクフ シティウエスト。
トマト味のスープ 本当に美味 多すぎて全部はいただけない |
メインディッシュ 美味しかった |
デザートも美味 そしてワインも美味! |
ミシュランのレストランだった マークがある
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ホテルのレストランで朝食をいただく際、受付のカウンターで名簿を確認すると”BLACK”と表記がある。日本人は黄色人種で色がついているから”BLACK”!?
チェンストホバにあるヤスナグラ修道院見学
この日の起床は5時10分と早い。7時にバスは出発して9時、修道院到着。午前中の観光はポーランド南部のヴァルタ川が流れる都市チェンストホバにあるヤスナグラ修道院見学。ここは1655年のスウエーデン軍侵略の際、最後まで屈服せずにチェンストホバを守ったとされる聖画「黒いマドンナ(聖母)」がある。
もらったパンフによるとわずかな人数の勇ましい防御で奇跡的に陥落しなかったのは、このイコンの聖母が助け守ってくださったお蔭だと伝えられている。個人的にもこの聖母を信奉していたポーランド出身の先々代のヨハネパウロ二世は「マリアよ、私のすべては、あなたのものです」との金言をもって、ここヤスナグラで司教的使命を委ねられた。
訪れた日はミサが行われており、聖堂内は観光客とミサに参加する着飾った人たちで溢れかえる。人でいっぱいの聖堂内の裏側に進んでの見学もある。多くの人の前で参列するミサの人の気持ちは如何なものなのだろうか。
ヤスナグラ修道院への道 |
ヤスナグラ修道院 |
信者からの寄進の品 |
信者からの寄進 |
信者から寄進 |
黒いマドンナ |
ミサに集う人々 |
子供たへのミサ |
ミサ |
大聖堂内の本堂 |
聖堂の外は春の日差しがいっぱいだった |
青空に映える聖堂 |
聖堂の外 |
12時50分、バスはチェンストホバを出発してヴロツワフ観光に向かう。ヴロツワフは、ポーランド西部にある第4の都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつ。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。車窓から見えるのは菜の花畑。どこまでも続く。
バスの車窓から望遠で写す 菜の花畑はどこまでも続く |
ヴロツワフ観光
お昼をいただいた後、ヴロツワフを観光する。ここは街角に突如現れる小人の置物が有名である。10数年前に第1号が現れて観光客の撮影スポットになっている。年々増えるようだ。
スープ |
メインディッシュのバルシチ |
デザート |
中央広場 |
ここも建物に動物がいる |
カラフルな色の建物 |
ゴシックとルネサンスの美の調和がみごとな旧市庁舎 |
広場の大道芸人 |
中央広場 |
ヴロツワフ名物の小人たち |
彩り豊かな舗装 |
小人 |
小人 |
小人 |
小人 |
ナポレオン率いるフランス軍との戦いに勝利した記念に造られた世界遺産百年記念会館がある。百年記念会館とよばれる由来は、1813年の対ナポレオンのライプツィヒの戦い100年を記念し1913年に建てられた。当時は世界最大のドーム型コンクリート建築として脚光を浴びた先駆的存在らしい。内部直径69m、高さ42mあり、2006年に世界遺産に登録された。
百年記念会館 |
百年記念会館前に咲くチューリップ |
百年記念会館の横 |
旧市街 |
旧市街 |
旧市街
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菜の花畑の前に立つ |
16時、バスはヴロツワフを後にして175km先にあるボズナンへ向かう。予定のバスの移動は3.5時間。車窓からは相変わらず菜の花畑が続く。この日、バスの座席は降車しやすい位置だった。19時、トイレ休憩で早めに降りて建物の後ろ側に回ると幸いにも目の前が菜の花畑だった。この時ばかりは車窓からではなく目の前の菜の花畑を写す。初めての動画撮影も試みる。動画はうまくできたのだがブログへのアップが今一歩分からず残念!
ホテル予定到着時刻は19時半。しかし、この時刻はトイレ休憩を済ませたばかりの時刻。1時間くらい遅れてのボズナンのホテル着となった。日本で知り合われたポーランドの留学生とホテルで待ち合わせの人は無事再会されていた。ホテル到着までにも車窓から見えるのは菜の花畑。望遠にして菜の花畑を写す。ボズナンのホテルはホテル ノボテル ボズナン セントラム。部屋番号は701号室。ところが”7”の書き方が日本とは違って”1”との区別がつかない。”707”は”701”だった。他の人も数人迷う。係りに部屋を案内してもらってやっとたどり着く。
車窓から望遠で写す菜の花畑 |
車窓から望遠で写す菜の花畑 |
車窓から望遠で写す菜の花畑 |
第五日目 2017年5月11日(木) 曇り 気温は7~17度の予想
ポーランド建国の地ボズナン観光
8時、ボズナンのホテルをバスは出発してポーランド建国の地ボズナン観光に出かける。途中、バスの車窓から美しい光景を目にする。もらったパンフによるとボズナンはポーランド中西部の中心都市であり、べルリンとワルシャワの中間に位置する地の利から商業で繫栄。初代ポーランド王朝の発祥地であるともいう。
車窓から見る美しい風景 |
車窓から見る風景
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まずはポーランド最古のキリスト教会であるボズナン大聖堂を見学。
ボズナン大聖堂内部 |
ボズナン大聖堂内部 |
ボズナン大聖堂
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三角屋根の建物はシナゴーク(ユダヤ人の集会所)→プール→今はヒルトンホテルになっている
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聖堂内を見学後は古き良きヨーロッパの面影を残す旧市街広場に出る。シナゴークと呼ばれるユダヤ人の集会所はプールになり、さらに今はヒルトンホテルに買収されている。ボズナンには現在ユダヤ人は50人しかいないそうだ。
9時40分、バスは出発してトルンへ向かう。この日はボズナンからトルンまでバス移動は3時間。さらにトルンからワルシャワまでは4時間の移動。旅の2日目から添乗員はバス車内が満員のため、座席を毎日変えて指定席にする。旅の初日からバス酔いがあり、一番長い移動日のこの日、幸いにも前の方に一人座って気も和らぐ。
人々を懲らしめる見せしめの塔 |
ボズナン旧市庁舎をアップで写す |
ボズナン旧市街広場 |
ボズナン旧市庁舎
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世界遺産トルン観光
昼食はレストランでいただく。メインディッシュはロールキャベツ。このレストランは元来ポーランドは清潔なうえにさらに清潔だった。温めたお皿はナプキンの端をもって直接手に触れることなく各自のテーブルに置かれる。ロールキャベツをお皿に盛ってもらう際、1つだけお願いする。3色に盛られたものは日本で言えば前菜だろうか。細かく刻んだ甘酸っぱい酢漬けというところ。一皿が一人前なので全部食べると他が食べられなくなる。
トルンは地動説で知られるコペルニクスが生まれた街。またドイツ騎士団の拠点の一つで、中世の風雅な雰囲気が漂う旧市街全体が世界遺産に登録されている。なお、ドイツ騎士団は『大辞林』によると「騎士修道会の一。1190年の第三回十字軍で活躍。一三世紀以降東方植民の先頭にたち領土の拡大に寄与。ドイツ騎士団領は、プロイセンの基礎となった」とある。
ヴィスワ川岸にバスを停めて |
ヴィスワ川岸にバスは停車
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トルンのお昼の前菜? |
スープ |
ロールキャベツにジャガイモが添えてある ジャガイモは主食なのか、メインディッシュに添えられている ショパンの祖父の生家
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アップにしたもの
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コペルニクスの生家 |
菩提樹は葉っぱがハート形と熊本の画伯から教わる。菩提樹はリンデンバウムとも言われ、熊本の画伯とハーモニカ奏者のお二人は🎵リンデンバウム~♪と歩きながら楽しそうに歌われる。美しい歌声だった。
菩提樹の葉はハート形 |
トルン旧市街を歩く |
何処の国の子供もマックは大好き!? |
歩道にはトルンの街 ドイツ騎士団城跡
ドイツ騎士団城跡に建つ標識
ドイツ騎士団城跡
ヴィスワ川
トルンの市街
トルンの旧市庁舎とコペルニクス像
聖ヨハネ大聖堂
聖ヨハネ大聖堂内
トルンの 旧市街広場
コペルニクス博物館
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コペルニクスの生家
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聖パウロ大聖堂や旧市街地を観光後、15時50分、バスはワルシャワへ向けて出発する。ワルシャワまでは250Kmで所要時間は4時間の予定。ポーランドは高速道路がないらしい。それでも車道の両脇にあるパネルが気になる。これは交通の騒音遮断のパネルかそれとも太陽光パネルか、後でガイドに聞くと騒音遮断用だった。それにしてもところどこにしかなく大きさや形も場所により異なっていた。
ワルシャワのホテルはインターコンチネンタル ワルシャワ。夕飯はレストランでいただく。
車道の横に設置されたパネルは何?
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ワルシャワのホテル22階から見下ろす |
夕飯はビールで乾杯! |
レストランで夕食 |
メインディッシュ |
デザート |
ワルシャワのホテルでも宿泊する階が皆バラバラ。朝の食事で他の人とは違う場所で食事をする。周りを見ても日本人はおらず、中国人や西洋人が多い。戸惑っていると親切な中国の宿泊客がスープを入れてくれる。中国人とわかったので中国語で話した。それで親切にしてくれたのだろう。後で聞くと私たちのツアーはその会場ではなくて他の場所が朝食場所だった。ともあれ、高級そうな雰囲気に浸って朝食をいただいた。
世界遺産ワルシャワ観光
ワルシャワと言えばショパン、それしかないのかというほどすべてはショパン。ショパン様のお蔭で今でもずっと、さらにこの先までも街は栄えるのだろう。まずはワルシャワ市民の憩いの場であるワジェンキ公園へ行く。
ボタンを押すとショパンの曲が流れる |
ショパン像の前での演奏会もある |
ショパン像 |
ワジェンキ公園入口 |
ワジェンキ公園
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日本紹介の学生のデモ
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日本紹介のデモ風景 |
ワルシャワ市民の憩いの場であるワジェンキ公園やショパン像、ショパンの心臓が納められているという聖十字架教会、ワルシャワ市民の復興のシンボルの旧市街広場などへ歩いて移動中、韓国衣裳のチョゴリを着た人が見える。次は日本の着物も見える。近くの大学生による各国を紹介するデモンストレーションのようだ。話をするとイスラエル、韓国、台湾、日本などを紹介していた。韓国のブースで知っているハングルを並べると爪楊枝で作った国旗をくれた。台湾のブースは中国語でも繁体字で簡体字の中国とは一線を引いていた。、
こちらはイスラエル紹介だった |
韓国紹介のデモ風景 |
デモの近くに大学があった |
旧市街広場で短いフリータイムがある。お土産屋を除いた後、広場のベンチに腰掛ける。広場はワルシャワ市民の憩いの場で地元の人たちや観光客で溢れている。旅に出たからにはいろいろな国の人たちと触れ合いたい。その思いはいつも強い。腰かけたベンチの横の人と片言の英語で話をすると聴き易い英語での返答だった。学生?と思ったら娘さんがいるとのこと。スマホで見せてくれる。いろいろと話していると台湾の人もやって来る。せっかくの人だかり、と思って一緒に写真に納まる。台湾の人は私たちのツアーは何人か、と中国語で聞いてくる。頭は中国語と英語でこんがらがる。しばらくすると台湾人のツアーは出発し、その後もポーランド人と話を続ける。
「ちょっと待って!」とポーランドの人は英語でその場を去る。そのまま椅子に座っていると何と「お土産」を渡される。もうびっくり。これまでいろんな国へ出かけている。今回で現地の見知らぬ人からお土産をいただたのは3度目。最初はドイツのライン川湖畔を散策中、ふと立ち寄ったアンティークショップでのことだった。やっとインターネットができるようになった頃のお話。家にまだパソコンはなかった。ネットをしている店の主。旅で知り合った人と店内を物色中、ワイングラスを2個もらう。もうびっくり。どこへ出かけてもどうも物ほしそうにしているのだろう。ともあれこれもドイツ旅行の良き思い出。旅の楽しみは知らない人とのふれあいにもある!
ポーランドの人からのいただきモノはショパンの生家の写真入りマグネット。大事に使わせていただこう。
ポーランドと日本は友好国らしい。日露戦争で孤児となった人たちを日本の赤十字社は日本で保護した。他にも杉原千畝のお話。さらには梅田良忠という人もポーランドと日本の親子2代にわたって懸け橋となっている。梅田の本は旅に出る前に偶然目にして読んでいた。アウシュビッツのガイドをされている中谷さんにこの人のことを問うとやはりご存じだった。今、ポーランドは政治的にも落ち着いている。ずっとこの状態が続くといい。
旧市街広場 |
旧市街広場 |
ユネスコの表示がある |
広場には大道芸人の姿もある ここのベンチで腰かけてポーランドの人たちと話す
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昼食場所近くの風景 |
スープ |
ワルシャワのお昼 |
デザート |
お昼のレストランでのピアノ生演奏 |
バス車窓から見る菜の花畑
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ショパンの生家へと続く道 |
ワルシャワ市内を観光後、約60㎞先のショパンの生家があるジェラゾヴァ・ヴオラまでバスで向かう。その前にワルシャワのレストランでピアノ演奏を聞きながらお昼をいただく。ショパンの生家は広大な庭園に囲まれている。赤い花の栃木やこれまた赤い花の野生のりんごの木も多くみられた。また庭園内の教会では時間をおいてショパンの曲のピアノが演奏され、園内に響き渡っていた。
庭園は広くてショパンの生家は大きな樹木に囲まれている |
ショパン像 |
庭園内 |
向うに見えるはショパンの生家 |
庭園内は新婚さんの記念撮影会? |
大きな木の幹から鳥たちが出はいりする姿もある |
ショパンの生家内の様子 実際に使っていたものではないらしいい |
ホテル近くの横断歩道はピアノの鍵盤模様だった このような歩道は3か所あるそうだ これもピアノの詩人ショパンに因んでいるのだろう |
ワルシャワでの最後の晩餐 |
ポーランドの旅の最後の晩餐はピアノ演奏を聞きながらポーランド風カツレツのコトレットをいただく。貸し切り状態のレストラン。旅も終わりごろになると自ずと仲間ができてくる。この夜のテーブルは優しい人たちばかりで楽しくいただく。ワインで乾杯!ピアノを聞く暇もないくらいみんなと楽しく話す。隣の男の人にブログの話をすると反応してくださる。それまではブログの話をしても誰からも反応がなかった。ついつい嬉しくなって話していると同じテーブルの人からもブログのタイトルを聞かれる。
ピアノの演奏が終わると添乗員がまるでこの夜の晩餐会の司会者の如く現れて、例のハーモニカ奏者の人を紹介される。さあ、ハーモニカ演奏の出番!🎵荒城の月🎵が響き渡る。アレンジと変調での素晴らしい演奏だった。思わず声を出して歌った。曲が終わると誰彼となくアンコールのコールが鳴り響く。私も思わずブラボー!ここ一番の旅のハイライトとなった!アンコール曲は🎵赤とんぼ🎵。素晴らしい晩餐会であり、演奏会となった。
ワルシャワでの最後の晩餐会場のレストラン |
メインディッシュのポーランド風カツレツのコトレット |
デザート |
楽しいポーランドの夜を終えてバスはワルシャワのホテルに向かう。1時間経過後ホテルに到着。この日のホテルは前夜と同じインターコンチネンタル ワルシャワ。22階から眺める夕日は美しい。
ワルシャワの夜も更けて |
この夜、NHKワールドのテレビのチャンネルを聞いて何度も画面に挑戦。だが、どうやっても見られない。それでも何度かやっているとわかった。日本のようにリモコンでチャンネル番号を押してもダメで「72」チャンネルならばある表示で10を7回やってそれから2番目を押すと表示できた。
ホテルの部屋から見る夕日 |
第7日~8日目 2017年5月13(土)~14日(日) ワルシャワ✈ヘルシンキ✈福岡
この日は日本に帰国する日。ホテルの出発時刻も10時半と遅い。やっと表示できたNHKワールドを見ていると”WOULD MORE MONEY MAKE UP YOUR HAPPINESE?”のタイトルで各国の人が議論している。しばらくわからないなりに見て思う。これはないよりはあるほうがいいと。しかし、より多くあれば幸せになれるかどうかわからない。それなりにあればそれでいい。なぜ旅先でこんな話題を、と思ってしまう。
ワルシャワの空港に着いた。ポーランドの現地通貨ズロチはうまく使い切った。ただお水を空港で没収されて喉が渇く。残っていたズロチに加えて足りないズロチを人からもらって自販機に向かう。水1本は5ズロチ。自販機へはお金を入れるのでなくコインの形の箇所にのせてスイッチをあげて入れる仕組みだった。これだと日本とは違って2度手間がかかる。そしてほしいドリンクの番号も押さねばならない。わけがわからなくて迷う。そばにいる外国人に教えてもらってやっと水をゲット。
機内は搭乗手続きの際、通路側に変更した。ワルシャワ✈ヘルシンキまでは隣の席はポーランドの3人連れだった。片言の英語で話すと中国の北京から西安へ3人で2週間の旅をするという。ヘルシンキでトランジット後の隣は偉そうな態度をとる見知らぬ若者。無視して映画を見る。映画のタイトルは”LIVE OF PI”。この中に出てくる言葉を思わずメモする。「ああ、何もかも失くした。これ以上何が欲しいというのか」。そうだ。「これ以上、何が欲しいんだ」と自問自答。
楽しいポーランドの旅は終わった。ああじゃこうじゃと要らぬことを考えず、楽しく旅を続ける。これも考えてみれば幸せな人生かもしれない。旅をご一緒した皆さま、ほんとうにありがとうございました!そして長い文につき合っていただき感謝いたします!
それにしてもポーランド、やっぱりいい国。ポーランドは「野原」を意味するらしい。その名前の通り、バスの車窓から見る光景は何処までも続く菜の花畑。あまりにも美しすぎる。美しいといえば食事の度に入るレストラン。ここはどこもまるでメルヘンの世界。かわいい!これまでずーっと平和が続いたように思えるポーランド。悲惨な出来事もたくさんあった。しかし、この平和な時代はこれからずーっと続くだろう。
追記 旅の間に聞いたヒト、モノ、コトetc.
杉浦千畝
遠藤周作『女の一生』(サチ子の場合)
『アンネの日記』
「シンドラーのリスト」
中谷剛 アウシュビッツ・ビルケナフ博物館公式ガイド
宮永匡和 クラクフの現地ガイド テンペラ画家
コペルニクス
キュリー夫人
ショパン
梅田良忠
「カチンの森」
ワイダ監督
連帯ワレサ議長
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