2014年9月8日月曜日

『幸福論』

降り続く雨の日、図書館の新刊予約でなく、蔵書の棚から借りてきた吉本隆明著『幸福論』(青春出版社、2001年)を読む。

何かをしようと思うと気がのらないことがある。こういう時は心身ともに疲れている。

母を介護していたころ、フルートのレッスンを中断。楽器を見ることや触ることさえも嫌だった。このまま、フルートも習わなくなるのか、と思った。ところが、気持ちが落ち着いてくると習わずにはおれなくなる。

本を読むことも泳ぐことも旅行することも、さらには歌を歌うこと、絵を描くことなどすべて、それは当てはまる。自分にとっての元気のバロメーターはこういうことからわかってくる。

そんなことを考えながら読んだ本。以下はいつものごとく気になる個所の抜粋。

今日はこれから1か月休みだった合唱へ出かける。元気を出して歌を歌おう!

本の著者も述べている。小刻みの時間の幸せでいいらしい!今日は歌を歌うわずかな時間が幸せということ!?今日も楽しく!

※(不安にさせる人に出会っても)よくなりたくて出掛けていくのに、脅かして不安にさせるだけの医者や坊さんだっているわけです。こちらの精神状態なんかおかまいなしに押さえつけるような紋切型の説教をばかりする。(こういうところは行ってはいけない)40p

※ちょいとしたことでも、感じが上向く感じだったら幸福、下向く感じだったら不孝というふうに、刻み方を変えなきゃ駄目だと気づいたわけです。38p

※先のことが心配で心配で仕方なくなっても、心配するだけ損なんだから、それよりも今起こっていることに注目するほうがいい。それが幸せでも不幸せでもです。そうした時間の刻み方を細かくすることでしか、人は生死の不安の重圧から逃れないと思います。45p

※知識というのは、自分が本当に好きになった分野に打ち込んでみて、はじめて必要になるものです。それ以外は要りません。66p

※年をとってくると、今日読んだ小説の細かい部分は明日になると全部忘れてるということがありますけど、必ず残る部分があるんですね。その部分が蓄積していくと、あ、これはあそこにあったなとか思うようになって、あたかも全般的な大家のごとく自分でも錯覚するくらいになる。そういうふうに思えてくるんです。そうすると、あるときに、あっという感じで、それまでの勉強の成果がつながっていくんですよ。84p

※僕は自分でも、六十五から七十五歳の十年間、いろんなことを実感し考えてきました。…ただ僕が言えることは、考えられること、やれることはみんなやっちゃうほうがいい、ということです。114p

※僕は老人の場合、精神的な要素がまったく入らない身体の不自由なんて一つもないよって言えるくらいだと思っています。老人問題というのは、すなわち精神問題なんです。178p

※足腰が痛くなろうと、歩けなくなろうと、それを防ぐ唯一の方法は、要は医者が言うのと反対によく動かせばいいんです。194p

※結局、自分の体をいちばんよく知っているのは自分ですから、自分がいいと思うことを自分でやる以外どうしようもないいんじゃないかと思います。196p

※自分の葬式は簡単にしてくれ、とか冗談言うなといつも思っているというのが正直なところです。そんなことは余計な心配だと思います。死は他人のものなんだから、他人がどうしようが、そんなことは僕が何か言うべきことに属さないと思っているわけです。だからそういう意味では死を迎える心構えなんて何もないというよりも、意図的にそんなことは考えない。210p

※(親鸞は)生死は不定である、ということだけ言っている。…誰がいつ、どこで、どういう病気で、どういう死に方をするかは一切わからないし、はたからわかるはずはないし、ご本人もわかるわけはない。だから、そういうことについて言うのは無駄であると親鸞は言っています。220p

※わたしの好きな親鸞は『教行信証』という本のなかで、「幸福の国を求めていって、もし疑いの網に覆されたなら、また元に戻ってきて、再び永い永い歳月の遥かな旅へ出かけよう」と述べている。やはり親鸞はいいなあと思った。反対に唯物論者の本を読むとマルクスは「人間も自然の一部だ」と言っている。また毛沢東は、一九六〇年頃に訪中した日本の文学者たちを前に「自然には勝てません」と老齢の自分を語ったと、雑誌で読んだことがある。『毛沢東語録』というのはつまらない本だが、この「自然には勝てません」というのは、毛沢東の最上の言葉だと思う。(あとがきより)

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