2012年11月14日水曜日

「一君万民」主義

今日から明日にかけて寒くなるとか。日中の気温も段々と下がっていく。それとともに冬眠しそう。

ところが今朝の地元紙を読んでいると冬眠している場合じゃない。しっかり目を見開いて前に進まないといけない。

歴史学者與那覇潤氏は新聞の大見出し「橋下現象考」で述べている。まだ30歳過ぎの若い学者。それによると橋下氏は「左右自在な『一君万民』」とある。「一君万民」とは「中国の儒教主権に起源を持つ『一君万民』主義」で決断力を重んじる体制だとか。

今、「日本の社会は『西洋化』に失望し『中国化』」しており、「自らの意志と民意を同一視し、政敵に厳しい中華皇帝の専制にも似た、現代の一君万民といえるでしょう」と橋下氏について述べる。

これを読むと「中国化」になりそうな政権は政治に介入して欲しくない。

自民から民主政権に移行する際も、国民は言葉のあやに騙された。

言葉といえば橋下氏も「維新」の言葉のイメージとともに出てきた。だが昨日の地元紙の同じコラム欄で歴史学者の色川大吉氏は明治以降の維新という言葉は傷らだけであるという。それは大正期で見れば犬養首相が暗殺された五・一五事件と議会政治にとどめをさした二・二六事件の「昭和維新」である。

このように「維新はテロリストのため、軍による政党政治の廃絶のためと、基本的に右旋回のために使われてきた。だから、本当の維新は一回きり。」だと色川氏は述べる。

橋下氏のかかげる維新は維新ではなく、統治の発想、支配者の発想があるという。

政治に疎い。それでも今朝のコラムにある日本の社会が「中国化」するのだけは避けたい。

先ほど與那覇氏の本を図書館に2冊予約した。専門は日本近現代史。與那覇氏はツイッターをしている。今日からこの人のツイッターを読むようにしよう。

話は変わって昨日の講義で新たなことを習う。動詞「線過去」の活用形。この活用は規則変化が大半で不規則変化は3つの動詞だけ。先生は5分で講義は終わった、といっては「楽勝ですね」を繰り返す。

「楽勝じゃない」と思いながらも講義を聞く。すると講義後、先生から「来週、中間試験をします」と突然の報告。学生からのブーイングで結局12月はじめの火曜日に決定。教室も大講義室に変更しての試験となる。

試験と聞いて、紅葉を見に行くどころではなくなった。なんといってもノートをまとめなければ・・・。かなりのプレッシャーになる。

講義後、いつものように市内へ移動する。広島駅で気分を変えてティータイム。

昨日のレッスンでまた先生に家で練習していて気づいたことを話す。その吹き方でもいいらしい。レッスン曲をさらってもらうとき、前の週に習った方法で吹くとよく吹ける。その度、習うということはこういうことなんだと気づかされる。

昨日も曲の次のレッスン箇所の吹き方の方法を習う。自分では考えもつかない練習方法を教わる。言われてみて、確かにその方が効率的。

もしかしたら、フルート以外の、どんな勉強でも学習方法で学力の差が出ているのかもしれない。

ちょっと風邪気味だけど、さあ今日も元気を出して!

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