2012年11月20日火曜日

『西太后 大清帝国最後の光芒』

今日も清清しい朝を迎える。いつまでもこんな穏やかな日が続くことを願って今日の行動開始。

起きたとき、夢を見ていた。今日は火曜日。例によって忙しい一日となる。大学へ行く日は講義室がどこかわからない夢をよく見る。何故?

昨日は、次に予定している海外の行き先を変更するTELをする。一昨日、ラオスに行った人から電話を受取る。その話と、昨日旅行社から届いた旅のパンフを見て行き先を変更する。

パンフを見るとこれまで届いていた日程が変更となっている。日本から出国する際、広島から福岡空港、そこからさらに関西空港移動とある。国内だけでこれだけの移動をし、さらに目的地まで行くにも何度か飛行機を乗り換える。無理してその国へ行くこともない。またいつか楽なやり方で行ける日もあるだろう。そう思って急遽行き先変更。決めた国は催行決定。

まだ先の話。だが行こうとしている時期は母の3回忌、期末テスト、来年の受講手続き準備などいろいろと日程が詰まっている。

旅行を最優先にして、すぐにお寺へ相談の電話をする。3回忌は早めでもいいとか。先ほどその予約をお寺にTELする。姉と妹にもその旨連絡。あとは大学関係のことで頑張るしかない。

こんなことを思っているので講義室がわからない夢を見るのだろう。それと、来月初めにある中間テストのプレッシャーがあるのかもしれない。そのこともあって昨日は歯科へ出かけた後は家でおとなしく講義ノートの整理とフルートの練習をする。

フルートはさらっている曲もそうだけど、基本的な指使いの練習がある。今の指使いは先週、先生も話されていたけどかなり難しい。指は出来るようになっても、きれいないい音が出ない。何度も練習するしかない。

その合間には、遊ぶことを考える。今朝の新聞に皇帝ダリアが道路沿いに咲いているとの掲載がある。地元の高校生が育てたらしい。早速、「明日見に行こう」とわかちゃんに電話するとOKだった。

こうして忙しい一日は始まる。今日も元気で!昨日の妹の言葉。「元気でも怪我をしないように!」。そう、怪我は怖い!

以下は私的メモとして気になるところを抜粋したもの。

『西太后 大清帝国最後の光芒』(加藤徹 中央公論新社、2005年)を読んだ。

個人的に中国近代に特別関心がある。現在、尖閣諸島の問題などで日中関係は険悪なムードに包まれている。それを理解するには中国近代を理解するのがいいらしい。そう筆者はこの本で述べている。

その辺りを以下に引用した。

本の裏表紙には「内憂外患にあえぐ落日の清朝にあって、ひときわ強い輝きを放った一代の女傑、西太后。わが子同治帝、甥の光緒帝の『帝母』として国政を左右し、死に際してなお、幼い溥儀を皇太子に指名した。中級官僚の家に生まれ、十八歳で後宮に入った娘は、いかにしてカリスマ的支配を確立するに至ったか。男性権力者とは異なる、彼女の野望の本質とは何か。『稀代の悪女』のイメージを覆す評伝」とある。

筆者の加藤は本書は「現代中国を知るうえで、清末ほど重要な時代はない」と述べる。(6p)

「現代中国人の歴史意識の原点は、一つ前の中華民国を飛ばして、清朝にある。現代中国の領土、民族構成、地域区分、言語、生活文化などは、清朝の遺産である。現代中国の国家戦略を一言で要約すると『世界における中国の存在感を、西太后以前に戻すこと』に尽きる」(6p)。

それは「領土問題もそうだ。中国人は、尖閣諸島(中国名「釣魚島」)や台湾、香港、新疆、チベットなどを中国の固有の領土と主張する。その理由は、それらの地域が清の版図に含まれていたと彼らがアプリオリに信じているからだ。」(6p)

「近年の人気ドラマは清末における日本人の『蛮行』を執拗に描く。こんな番組ばかり見ていたら、日本を抹殺しない限り中国の未来はない、と思いつめて反日デモに走る人々が出てきても、不思議はない。中国の愛国教育の当否はさておき、西太后の時代が,現代中国人にとって、その血を逆流させるほどの精神的外傷(トラウマ)となっていることは確かである。」(8p)

「日本人の興味関心は,三世紀の三国志とか、八世紀の李白・杜甫など、一部の時代に偏っている。現代中国の原点である清末について、一般的な日本人はほとんど何も知らない。・・・現代中国の原点である西太后の時代に、日本人はもっと関心を持ってよい。」(8-9p)

西太后の時代「選秀女」という清朝独特の后妃選定制度があった。(33p)「西太后が受ける回の選秀女は、新帝の后妃選びになった。」(34p)

18歳の西太后は「蘭貴人」として宮中に入った。(46p)

その後太平天国の乱で西太后は父を失う。(51p)

21歳の西太后は咸豊帝の無事男子を産んだ。その功により西太后は即日貴后に昇進。(54p)

芝居三昧の日々の咸豊帝は享年31歳で崩御。その帝の死と同時に6歳の同治帝が践祚(せんそ)し、嫡母(正式な母親)たる皇后と、生母たる懿貴后に、皇太后の尊号が贈られた。その後、懿貴后は通称「西太后」になる。(104p)

27歳の西太后は「息子の同治帝が死に、東太后が死に、恭親王が失脚した後は、西太后は事実上の専制君主として独裁的に君臨した。」(123p)

「軍閥政治という近代中国独特の政治地図もまた、西太后の治世に端を発したものなのである。中華人民共和国の領土もまた、西太后の遺産である。・・・現代中国人の心情としては,西太后の統治時代が、アプリオリに現代中国の基準になっているのである。現代中国人は、新疆やチベットの独立は絶対に認めない。また、光緒十九年(一八九三)に西太后が洋務派官僚の盛宣懐に与えたという手書きの文書(一九七二年、盛宣懐の孫を自称する故・徐逸氏が初めてその存在を公表。偽作の疑いが濃厚)を根拠として、尖閣諸島は中国領だと主張する。その反面、ロシア帝国が第二次アヘン戦争で取得した沿海州については、西太后以前の領土喪失であることも一因となり、現代中国人はロシア政府に対して何の抗議もしないのである。」(124p-125p)

「『西太后』はよい意味でも悪い意味でも、女性的な権力者であった。西太后が半世紀の長きにわたって政権を握り続けられた秘密はその女性性にある。・・・清末の官僚群は、粛順のような男性的な権力者よりも、西太后のような女性的な権力者のほうを歓迎したのである。」(129p)

「現代中国の歴史教育では、近代史の人物を、善玉と悪玉に峻別して教える。もちろん善玉と悪玉の線を引くのは中国共産党である。」(156p)

「アジアの開発独裁国の系譜をたどると、その元祖は、明治の日本と西太后治下の清朝の二国に行き着く。しかし、同じ開発独裁国で、明治日本と清朝では決定的な違いがあった。」(183p)

この違いを筆者は明治日本は和魂洋才であり、清朝は中体西用だという。しかし、この二つは決定的な違いがあるらしい。日本は「心は大和魂なのだ」で、清朝は「経済建設が失速したり、外圧に負けることは、権力者の正統性にとって致命的な痛手となる。」。「自分の政敵を『外国に対して弱腰である』とか『経済建設に対して無能である』と批判することは、権力闘争において有効なカードになる。このカードを切って開発独裁国の権力闘争のお手本を最初に示したのが西太后であった.。」(184-185p)。

「日清戦争のとき、光緒帝は主戦派を支持し、戦争に消極的な西太后と対立した。敗戦後、光緒帝は、日本の明治維新を手本に『維新』を断行しようとしたが、西太后はそれを叩きつぶして光緒帝を幽閉した。」(193p)

「この事件を戊戌(ぼじゅつ)の政変という。その図式は、文化大革命のとき、国家主席の劉少奇が、党主席の毛沢東によって失脚させられたのと似たところがある。中国が開発独裁国家であり続けるかぎり、西太后と光緒帝の対立は、今後も形を変えて何度でも再現されるであろう。この意味でも、清末は、現代中国の小規模実験工場(パイロット・プラント)であった。」(194-195p)

「梁啓超は、後年著わした『戊戌政変記』の中で、『わが国、四千余年の大夢の喚醒は、じつに日清戦争の敗戦、台湾割譲、賠償金ニ億両に始まる』と喝破している。日清戦争の敗北は中国にとっての『黒舟』であり、『真珠湾』であったのだ。」「反日の激烈さは反英は反仏、反露とは次元が違うこと。反日の主張は最終的に中国の体制改革の主張に収斂していること。以上のような中国の反日運動の特徴は,清末も今日も、あまり変わっていない。二十一世紀の日中関係について考えるうえでも、清末の歴史を学ぶことは重要である。」(213p)

「最晩年の西太后は、排外主義から一転して改革開放路線に転じた。・・・西太后の『最後の十年』が投げかける問題は,今日でも依然として中国社会に影を落としている。おそらく、近未来に現代中国が直面するであろう運命もまた、この最後の十年に暗示されているのであろう。」(229p)

「日本人である筆者から見て興味深いのは、西太后が義和団事件と庚子西狩を通じて、まんまとカリスマ的支配を確立したという事実である。」(255p)

「西太后というキャラクターは、満州人であるとか皇太后であるという以前に、非常に中国的なのだ。わがままで自分勝手で、面子を気にするくせに矛盾した言動をしても平気で、周囲の顰蹙を買いながらもなぜか中心人物になってしまう。そんな『ミニ西太后』的な人物は、男女を問わず、今も中国社会のあちこちに生息している。政府でも、企業でも、大家族の中にも彼女に似たタイプの人物を、けっこう見つけることができる。」(280p)

「西太后関連の書籍は多いものの、西太后を通して中国社会の土壌にまで目を向けるという著述スタンスをとる著作は、あまりないようである。・・・大清帝国最後の光芒が、今日の、そして近未来の中華人民共和国の運命までをも照らし出していることは、疑い入れない。」(283pあとがき)

2 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした!!
    また遊びに来ます!!
    ありがとうございます。。

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  2. コメントありがとうございました!

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