今朝は最低気温マイナス2度、最高気温3度とか。外に出ても寒い、というより空気が冷たい。しかし、部屋の中にいると日差しは温かそう。
午前中、自転車に乗って地元銀行の窓口に行く。入学検定料を支払うのにATMでなく窓口で、となっている。窓口まで行く用はこのごろではほとんどない。久しぶり窓口で支払う。しばし、番号札を持って待つ。
名前を呼ばれ、領収書を受け取る。帰ろうとするともう一度声をかけられる。再度窓口に行くと、遠くのほうに係りは行き、待つようにという。
待っていると受付は日付印をいらない紙に試し印する、何度も何度もする。どういうこと?と見ていると、再度渡した領収書の日付印の上から2箇所訂正印と新たな日付印を押す。
なんと日付が23年になっていたのである。これにはびっくり!今年になってもう1ヶ月以上も経っている。それなのに窓口6番は今日、24年に日付印を直すとは…。もしもそこで気がつかず、明日大学に持参して日付が違っていたならどうなっていただろう。
長く会社勤めをしていた。仕事でよく銀行に出かけていた。受け取りの日付印を眺めたこともない。信用しきっていた。間違いはなんでもあること。それにしても…。朝から驚いてしまう。
気を取り直して、昨日読んだ『「いつ死んでもいい」老い方』(外山滋比古 講談社、2011年)の気になる部分を書き留めよう。
筆者がこの本を書こうとした目的は「自分をはげますために、ピンピンコロリの生き方について書いてみよう、老人にとって残されている唯一の社会貢献は、まわりの人になるべく負担をかけず、医療費も少なくすむことだと思う。世のため人のために元気で生きる。その心意気を言い聞かせる本を書こうと考えた」と書いている(あとがきより)。
筆者に関心を抱いたきっかけは以前、「歩くこと」のために6ヶ月の地下鉄定期を買って毎朝目的地まで通っていた…というような文章を読んだことにある。
仕事に溢れた当時、私も筆者と同じようなことをしたことがあった。自宅の最寄り駅から広島駅まで通勤定期を買って市内の中央図書館まで通った。後になってその人の本を読み、偉い人でも同じコトをする人がいるんだと知ったとき、筆者に親近感を持った。
現在88歳になるという。その誕生日にこの本を書き上げている。元はお茶の水女子大学の先生。どこを読んでも偉ぶるところがなく、老人らしさもない。今では体の不自由になった奥さんにかわって家事もされるという。素晴らしい生き方の人だと感心する。
定期のことはこの本にも書いてある。「最高の散歩道は皇居のまわりの周回道路であるという結論に達した。うちから五キロはなれている。そこで一周約五キロを歩くと、往復十五キロになってとても毎日歩くわけにはいかない。しかし、そこを歩きたいという考えは捨てなかった。…大手町まで地下鉄で往復すれば、なんでもない。六ヶ月の地下鉄定期を買った。これが思わぬ効果を発揮する。なんとなくけだるく、起きるのがおっくうな朝でも、定期がもったいないと、思うと、体がしゃんとする。…」(84-85p)。
いつか必ず人はなくなる。しかし、自分が「死ぬ」と思ったことはない。そのためか先々のことは考えない。
「なりゆきではいけない。自力で、志をもって老いる。いつまでも死ぬことは考えず、明日ありと思って存分に生きる。…新しい仲間をつくり、定期的に会食し、談論風発、天下国家をあげつらい、ライフワークを語り合う。…人のことなど気にしないで、わが道をただ走りに走り、力つきたところが、終焉となる。傍如無人の加齢を志す。この志のおかげか、八十八歳にして、なお、壮年のごとし、とひとりうそぶくことがある」(13-14p)と筆者は述べる。
「仲間をつくり、定期的に会食」云々は私も似たようなことをしている。モノ・コトを習うと仲間ができる。これまで習った楽器、水泳、語学などの人たちや旅行の仲間。筆者はこの仲間たちのうち「ピンピンコロリ」と亡くなった幾人かを取り上げ、それに触れて本を進めている。それは筆者の本望のように…。
さらに「これからの老人は、新しいモラルによって、われの先に人なく、われのあとに人なし、ひとりわが道を行く。一代限り、前世のことはわからないし、死後のこともわからない。それでよいのである」(18p)という。
「行き当たりばったりでいい。誠実な行き当たりばったりは、よからぬ思惑にまみれた仕事の筋を通すのよりもすくなくとも人間的である。物欲から自由になることなどできるわけがない。夢中になることを見つけて、それに向かってひたすら走る。最後まで、そうであれば、すばらしい人生であったことにする。独立独尊、自助の精神で生きれば、まわりはおのずと道をあけて、通してくれるだろう。そういう楽天主義でいけば、老後もおそるるに足りない」(19p)とか。
「ピンピンコロリとなるには、虫も殺さぬ聖人のような生き方は話にならない。あれこれ、思ったことはやってみる。食べてみる。悪かったらやめればいい。改めればいい」(27p)。
仲間をつくるにあたっての条件として3つ述べている。「あるとき決心した。仲間はだれだっていい。ただし条件が三つだけある。仕事がまったく違っていること。あまり能力が高すぎないこと。ケチをつけるのをえらいことと勘違いしていないこと。これだけの条件に叶えば、だれでもと心に決めたら、仲間ができた」(52p)。
この仲間との会食を「気のおけない席でのおしゃべりは、頭をよくし、われを忘れ、心を豊かにしてくれる効果がある。これにあやからぬのは賢くない、だろう」(53p)。
水泳について「週に三、四回、公園の朝のラジオ体操をする。考えてみると、体操はかなり多く手や腕の運動をするようになっている。…同じことなら水泳のほうがずっといい運動になる。体にもいいし、むやみに競争したりしないで、ゆったり泳いでいれば健康効果はきわめて大きいと想像されるが、年寄りの冷や水、いざとなると尻ごみする」(92-93p)。やっぱり水泳はいいんだ、勝手に納得する。
「勤めのない生活は実にいい、のんびりしているというのではない。しっかりしないと駄目になってしまう緊張感をもって日々を送ることができるようになったのである」(133p)。
この言葉の「しっかりしないと駄目になってしまう」の件は全くその通り。いつも自分に言い聞かせている。気が緩むと病気になりそう。今回喉がいたかったのも気の緩み?「ウイルス様が喉に忍び込んで…」。
「喜びの日はご馳走を食べたりするだけでなく、ホメてくれる人がほしい。…然るべき人にホメられると、大変な活力、元気が出る。長い間その効果は持続する」(190p)。
これほどの人になってもそう感じている。凡人はもっとそう。「ホメる」は高倉健の「あなたに褒められたくて」だけではなく誰でもそうかもしれない。「豚もおだてりゃ木に登る」ように…。
ブログを手直ししているとFMからジンギスカンの「めざせモスクワ」がかかる。なんとノリのいい曲、と思って聴いていると1979年の作品とか。思わず聴き入る…。
今夜は広響のファン感謝デーコンサートがある。先ほど外に出てみると雪が舞っている。それもかなりの勢いだ。このまま降れば明朝は雪も積もりそう。演奏会に行くのを断念!出かけても帰りには雪だるまになりそうで…。