2012年2月19日日曜日

手紙を書く

今日は今季一番の寒さと思えるほど冷たい朝だった。それでも日中は日差しもあり暖かく感じる。

午前中は特別の用もない。ふと手紙を書こうと思いつく。そう思っても文字を書くことがあまりない。とりあえず便箋と封筒を用意。筆記用具はカートリッジを購入したウオーターマンの万年筆。

仕事をしていた10年近く前までは文字を書くことも多かった。それなのに最近は「書く」習慣がない。

1通目は福岡へ出す手紙。電話するたびちゃんと母の法要をするようにと気にかけてくださる。その報告と晩白柚子が美味だったこと、そして先日のシルクロードのテレビを見ての感想を書いた。

書くのはいいのだが、柚子、撮影などの文字が書けない。傍らに電子辞書を置いて書く始末。これではいけない。そう思いながらも2通目を書く。2通目は先日メモをもらった中国の女性を励ます手紙。これは手紙といってもポストに入れなくて会ったとき手渡す予定。

これも文字が書けない。パソコンで打ち出せばいいと思った。しかし、手書きにした。

最近読んだ『朝採りの思考』(外山滋比古 講談社、2010年)の中で、著者の外山は「足の散歩、手の散歩、頭の散歩。これが三つの三歩である。」(171p)としてその効用を述べている。

パソコン入力も「手の散歩」かもしれない。しかし、時に文字を忘れないようにする「頭の散歩」も大事。それには手書きがいい。そう思って久しぶりに文字を書く。

それを終え昼食後、図書館へ行く。『新潮45』2月号を見ると養老孟司が人生後半の生き方について「そういう時代に、自分ひとりで放り出されたら、なにができるか。せいぜい山に登るくらいがオチであろう。それなら、他人の邪魔にならないからである。私がラオスやブータンに行くのも、似たようなことである。日本の世間でウロウロしていたら、雑踏で若者に踏み殺される。人生後半は、身体の問題だと思えば、気楽なものであろう。」と述べる。「意識」から「身体」へ返れ、と語りかける。

人生の後半を生きている。外山も養老も人生の後半戦は身体の良し悪しが問われるというのだろう。たかが文字、されど文字。それならば横着をせず、少しでも手を動かすことからモノ・コトを始めよう。文字を書くことから・・・。

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