2023年6月29日木曜日

『殉死』

 蒸し暑い日が続いている。これももうしばらくの辛抱、と思って我慢の日々。梅雨が終われば本格的な夏になる。その前に、ネット記事で見たエアコンの「送風」をリモコンで探す。我が家のエアコンは「送風」ではなく「空清」(空気清浄)がそれにあてはまるようだ。「空清」の試運転をすると大丈夫だ、この機能はエアコンのカビ対策に適しているとか。時に「空清」を試そう。

 以下はだいぶ前に読んだ『殉死』(司馬遼太郎 文藝春秋 2012年新装版第5刷)から気になる箇所を記す。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★筆者はいわゆる乃木ファンではない。しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪感もない。……関心が薄かったとはいえ、ただ筆者が軍隊にとられ、満州にゆき、旅順の戦跡のそばを通ったとき、「爾霊山(にれいさん 二百三高地)には砂礫にまじっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか、雨がふれば人のあぶらが浮かんでは流れる、といったような、いわば観光案内ふうの話をきかされ、そのとき、子供のころから持ちつづけてきた多少の疑問を改めて感じた。なぜ、これだけの大要塞の攻撃にこのひとのような無能な軍人をさしむけたのか、ということである。むろん、これは――この問題は乃木希典そのひとの問題とはなんのかかわりもない――この乃木希典もまた、その意味では犠牲者なのだが。以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。……筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。(15-16p)

★乃木にとって軍旗をうしなったことは天子への罪であり、その罪をつねに意識しつづけることによって、ちょうど封建時代の殿様と家来の関係のような、そういう直接的な手ざわりで天皇の存在を意識し、意識するだけでなく体のなかで感ずるようになったのであろう。他の日本人にとっては天子は明治維新の教えるがごとく生神さまであり、多分に観念のなかでの存在であったが、乃木希典のばあいはひどく肉体感のある君主であった。その明治帝が崩じたとき、乃木希典がちょうど封建武士が殿様に殉死するような、そういう肉体的な親(ちか)さを感じさせる自然さで殉死したのは、やはりこの軍旗事件における自責の念から育って行った感情であるにちがいない。(25-26p)

★乃木は独逸留学以来、軍事技術よりもむしろ自分をもって軍人美の彫塑をつくりあげるべく、文字どおりわが骨を鏤(きざ)むがような求道の生活をつづけてきた。乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。(110-111p)

★乃木はその時期から数年生き、明治四十五年七月三十日、明治帝の崩御とともに死を決し、その大葬の日、東京赤坂区新坂町五十五番地の自邸で殉死し、夫人静子もまたその夫の死に殉じた。(116p)

★この学派にあっては、動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない。飢民をみれば惻隠(あわれみ)の情をおこす。そこまでが朱子学的世界における仁である。陽明学にあっては惻隠の情をおこせばただちに行動し、それを救済しなければならない。救済が困難であってもそれをしなければ思想は完結せず、最後には身をほろぼすことによって仁と義をなし、おのれの美を済すというのがこの思想であった。(136p)

★生前の希典は、最後まで不遇感をもちつづけていたらしい。かれはよく座談のなかで電車の座席のはなしをした。

 電車に乗っていると、すわろうとおもって、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席をねらって入ってくる。ところがそういう者はすわれないで、ふらりと入ってきた者が席をとってしまう。これが世の中の運不運というものだ。

 希典自身、自分の一生を暗い不遇なものとして感じていたらしいが、これはどうであろう。(208-209p)

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