2023年1月31日火曜日

電気料金

 電力会社から電力使用量のハガキが2通届く。1通は12月分まで口座引き落としにしていた明細書でもう1通は1月分からクレジットでの引き落としの通知書だ。ネット上で電気代云々の話題が多い。昨日の12月と1月の使用量を見てびっくり仰天してしまった。12月は2万円、そして1月の請求額はなんと3万円になっている。3万円台の金額は母の介護で24時間、エアコンを点けていた時の額だ。(なぜこれほど高い?)と思って友だちに電話して聞くとハガキの調整額の欄をみるようにと教えてもらう。これまでそういった箇所を個別に見ることはなかった。友だち曰く「わが家は5万円!」と。

 電話を切った後、ネットで調べると地元の電力会社では33%の料金アップとある。年が改まって物価の高騰云々の話題も多々ある。食料品のアップも大変かもしれないが電気料金の3割越えと比べればどういうことはない。アップを夏場にすればそれほど響かないのに電力量が一番多い冬場にするから余計、貧乏人に影響がある。いくら電気代が高くてもこれを質素倹約することは出来ない。元気でいるにはある程度の暖かさも必要だし、暖かいお風呂にも毎日入りたい。また家にいて寒さを我慢するほど惨めなことはない。それよりもここまで元気に生きてきて今さら電気代をケチっても仕方がない。そう思えば料金がかさんでも良しと潔く諦める!?高いじゃどうじゃと気を揉む方が病気になりそうだ。

 昨日は他にも某金庫から「抜粋のつゞりその八十二」が送付されてきた。45万部も日本のみならず世界各国に無料で送付とか。この会社がいつまでも発展し続ける意味がこの冊子を見てもよくわかる。

 今日もいいお天気になりそうだ。明日は15度の予想気温でさらにいいお天気のようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月30日月曜日

「消えた故郷へ帰るとき~高知・椿山 50年の記録~」を見る

 携帯を機種変更してから丸4か月が過ぎた。その間、変更後の携帯があればパソコンは不要?と思った。しかし、ブログはパソコンで編集している。ブログの入力を携帯で済ませるには無理がある。お笑い芸人の見取り図リリーはブログでなくNOTEを使用している。NOTEならばパソコンがなくてもいい!?ネットでこの2つの違いを調べると同じようだが両方で情報発信をすればいいみたいな意見もある。2つのSNSで情報発信するほどの人間ではないのでこのことを考えるのはもうやめよう。
 
 この4か月間はパソコンはブログの編集が主だった。その次にパソコンの利用はNHKプラスやTverなどの見逃し配信がある。昨日は〈ETV特集 消えた故郷へ帰るとき~高知・椿山 50年の記録~〉を見る。番組HPによると〈ある集落と家族、50年近くの映像記録。高知の椿山(つばやま)は、平家の落人が開いたと伝わる急しゅんな山の里。焼き畑農業を行い、山に祈る生活が受け継がれてきた。しかし、高齢化が進み消滅集落に。そこに3年前、男性が一人戻って暮らし始めた。草を刈り、イノシシを捕まえ、山に祈る。今は亡き家族の記憶が生活に満ちる。やがて元住民たちが椿山で集うように…日本人にとって故郷とは?里に伝わる太鼓踊りの景色と共に描く〉とある。

 椿山は2019年に最後の住人が去り無人となった。そこに一人の男性が街に家族を残して移り住む。すると次第に先祖の墓参りなどに訪れる人も現れてくる。徐々に椿山に元住人の家族が訪れるようになり集落で行われていたお祭りでの太鼓踊りもできるまでになった。

 50年前に取材したのだろう。その映像と映像に残る50年後の家族のその後を映し出す。これぞドキュメンタリーと思ってテレビ(パソコンの)を見た。太鼓踊りが近づくとただ一人住む男性宅ではこれまでの先祖の木でつくられたお札をテーブルに並べて祀る。このなかに椿山が好きだと話していた最愛の息子をバイク事故で亡くした新たなお札もある。何百年の歴史が多くの木札の数になっている。これを見て消滅集落でなくこれからも住み続けて集落を遺してほしいと思った。これも当事者でないから思えるのかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月29日日曜日

『街道をゆく』(十四)「南伊予・西土佐の道」

 (立春までは寒さも厳しい?)、と思って先の天気予報をしらべると2月1日の水曜日は14度となっている。2ケタ台の気温であれば春はすぐそこまで、と思えてくる。暑さ寒さを思うとき昨年の8,9月ころは寝る時刻が早かった。夜10時まで起きるのに耐えられぬほど早く寝ていた。今思っても不思議だ。暑さに草臥れ果てていたに違いない。その点、この冬は寒くても早くから寝なくなった。しかし、起きる時間が遅すぎる。この齢になってもよく眠るのでこれはこれでいいのかもしれないが。

 泊を伴う旅を申し込んだら早くも昨日、旅の案内と振込用紙が届く。利用する旅行社はコンビニでの振り込み手続きをする。手数料はかからず、家の3軒先はコンビニがあるのでその点は便利である。今朝は振り込みに行ってその足でスーパーまで散歩を兼ねて出かけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(十四)「南伊予・西土佐の道」(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2008年新装版第1刷)から気になる箇所をメモする。

★県名をえらぶのは、嫌味をふくめての苦心があったらしい。この点、愛媛県は幸運だった。『古事記』に、イザバギ、イザナミの夫婦神が国生みをする記述がある。最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。四国という島については、「身一つにして面四つ有り」とあり、それぞれ男女の人名が命名された。讃岐は男性で飯依比古(いひよりひこ)であり、阿波は女性で、大宜都比売(おおげつひめ)となっている。大冝は大食(おおけ)で食べものの豊かな土地というイメージらしい。土佐は男性で建依別(たけよりわけ)――雄々しい人――という名であり、伊予は愛比売(えひめ)で、文字どおりいい女という意味である。(15-16p)

★禅をやるから禅坊主が悪くなったんだと私は思っている。柳宗悦の民芸運動はよかったが、戦後、その思想をかんばんに軒なみに似たような商品をつくりはじめたことが、日本の焼物をわるくしたのではないか。江戸期のものでは染付がいい。呉須(ごす)が広地に浮きあがったり、逆にしみとおったりして、白地が呉須の藍色によって玉のようになめらかになっている。(50p)

★盤珪は、生涯、不生禅をとなえつづけた。不生は本来「生じない」ということだが、曹洞禅ではときに不とは否定の意味ではなく、こんにちの言葉「絶対」という意味に使われる。盤珪は「不詳の仏心」などと言い、自由自在を得る絶対的主体性という内容をこめて使ったらしい。盤珪は、禅者がこけおどしのように愛用する漢語の問答がきらいで、すべて日本語を用い、それも口語で語った。かれはその住山である播州網干の龍門寺(りょうもんじ)で、元禄三(一六九〇)年、各宗の僧千六百八十三人を前に説法した。そのときの速記が、右の全集の冒頭に出ているが、当時の播州あたりで話し手があらたまった場合、どういう口語が使われていたかということで、重要な参考になるかと思える。(75-76p)

★「これが開明小学校ですか」「土地では開明学校といっています」小学校のことを単に学校とよぶのは明治期のならいで、私にも多少はなじめる。ともかくも現在生きている学校ではなさそうに思えたから渡辺さんにきくと、明治十五年に建てられたものだという。あとでわかったことだが、現存するわが国最古の小学校建物なのである。卯之町は大変な文化財を持っている。(82p)

★周知のことだが、葦も葭も、一つ植物を指す異称である。葦が悪(あ)しに通ずるために、わざと葭に言いかえて中世の農民たちは排水のわるい湿地の開墾をしはじめたのではないか。葦・葭は、水辺に生えるイネ科の植物だから、この植物が密生した土地にこそ、一条件さえ適えば水稲を植えるにふさわしい。一条件とは、排水である。排水についての農業土木が発達するのは平安中期以後の関東平野においてであると私は思っているが、『仙覚抄』によるとアシをヨシに言いかえたのも関東においてであるという。……ともかくもそれほどに言葉の縁起をかついだというあたりに、農民の賢明なねがいが籠められているいっていい。葭田の 腐り水を他に排かせる工事をしつつ農民たちはよき田になってくれとねがい、成り終えた田にさらに好字(こうじ)を当てて吉田と名付けるようになったのではないか。(126p)

★宗紀は幕末の文久三(一八六三)年においてすでに七十を越えていた。「いままで質素倹約でやってきたが、もう多少の贅沢をしても天が赦してくれるもではないか」といって、面積一万二七七ハ・〇九平方メートルという周遊式の大庭園をつくり、そこに住んだ。天赦園がそれである。伊達家の祖の政宗が、江戸期に晩年をむかえ、少壮のころは戦場ですごしたが、生き残ってこのように老躯を保っているのは天の赦すところである、大いに楽しむべきではないか、という意味の詩をつくった。

馬上少年過グ

世平カニシテ白髪多シ

残躯天ノ赦ス所

楽シマズシテ是ヲ如何セン

宗紀はこの詩からとって、天赦園とした。(176-177p)

2023年1月28日土曜日

「山と原野とスケッチと~農民画家 坂本直行~」

 昨日、Eテレの日曜美術館「山と原野とスケッチと~農民画家 坂本直行~」をNHKプラスの見逃し配信で見る。また夜にはNHKのBSで「山と原野とスケッチと~坂本直行さんをめぐる旅~」を見る。同じ日に同じ人を扱ったテレビを見るのはめずらしい。が、興味をもってどちらも見た。坂本直行はテレビの番組欄ではじめて名前を知った。その名前が坂本龍馬と関連していると知って関心を抱く。坂本龍馬の本名は直柔(なおなり)というらしい。それで坂本家の子孫である父の弥太郎は息子すべてに「直」をつけている。しかし直行自身は坂本龍馬と関係があるとは誰にも話さなかったという。

 2つの番組は一部違う個所もあったがほぼ似ていた。人の生き方に興味がある。坂本直行の生き方も当然興味を持ってテレにを見た。直行の父である弥太郎は満州で鉄道敷設の際の枕木などをあつかう材木商で財を築いた。その子供の長男は満州鉄道の技官、次男は大学教授、そしてその下に直行がいる。しかし、人生はいいことばかりではない。直行が学生時代から魅せられた登山に夢中になっている頃、父は経済破綻に陥る。

 仕送りもままならぬようになると直行の生き方も変わってくる。直行は開墾した原野を耕して農業をしながら好きな絵を描いていた。その頃、彫刻家の峰孝が彫刻のモデルを探しに訪ねてきた。峰は直行の絵を見て感動し、是非とも札幌で個展を開催させようと奮闘する。直行が絵を本格的に描こうとしたのは56歳。札幌に出てからである。札幌の展示会で絵はすぐに売れ、普通であれば一列に展示するところを縦3列に作品を並べても売れたという。

 ほかにも六花亭の主人と直行との馴れ初めもある。六花亭の包装紙に花の絵が描かれている。これは直行が描いた花の絵をモチーフにしている。さらに子供向けの本の表紙の絵も無償で直行が描いた。そのくだりや登山などについては映像が流れる。NHKの番組HPによると以下のようだ。

 〈北海道土産の「花柄のお菓子の包装紙」でおなじみの画家・坂本直行。北海道を南北150キロに渡り貫く雄大な「日高山脈」に魅せられ、日高の山々が見渡せる原野を耕しながら絵筆をとり続けた農民画家として知られる。坂本龍馬の一族の末裔ゆえの家との確執。開墾生活での壮絶な自然との戦い。とりつかれたように登った北海道の山々。貴重なスケッチやエッセイ、映像を味わいながら、「山と原野」を愛した画家の生涯に迫る〉

 またNHKの北海道放送局でも以下のようにある。

〈釧路で生まれ、十勝の原野を開墾しながら絵を描き続けた画家・坂本直行(1906~1982)の足跡を辿るシリーズ「山と原野とスケッチと」。北海道の山や草花をこよなく愛し描き続けた“チョッコウさん”は、どんな人生を歩んだのか。生涯で1000枚以上描いたともいわれる「原野と日高山脈」の絵には、どんなメッセージを込めたのか。シリーズで直行さんの魅力に迫ります〉

 何年か前、高知の龍馬記念館では坂本直行展を開催している。昨年秋、坂本龍馬記念館へ初めて出かけた。が、その頃は直行を知らなかった。またその時は時間がなくて記念館を思うように見ていない。春になれば再度土佐へ行こう。
 
 どこかへ行こうと思うと元気が出る。昨日は先日申し込んだ日帰り旅に加えて同じ旅行社に1泊2日の旅を申し込んだ。しかし、日帰り旅と日程が重なるため日帰り旅の日程を変更。今朝は寒いわりには日差しがまばゆい。遊びに行こうと思えば気持ちが晴れる。元気なうちはいろんなことに興味をもって外へ出よう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月27日金曜日

「北の果て一人生きる 浜下福蔵92歳」

 昨夜、BS1で「北の果て一人生きる 浜下福蔵92歳」を見る。これは1月3日の再放送だが見逃していた。番組の概要を見ると「ニシン漁で栄えた礼文島。そこで生まれ育った漁師で詩人の浜下福蔵92歳。花々が咲き誇る季節から、コンブ漁の夏、秋の終わりまで、礼文島で生きる孤高の漁師を見つめる」とある。

 久々にドキュメンタリー番組を見た。92歳の坂下さんは礼文島のある集落で一人暮らしをしている。漁師として生まれ育ったが詩人でもある。毎日、墨を使って大筆で詩を書く。書くのは詩ばかりでなく日記もつけている。コンブ漁が始まると離れて暮らす息子夫妻が持ち帰るコンブを出荷する仕事に追われる。例年ならば息子夫妻とコンブ漁に出かける。ところが年齢的なこともあって昨年は一緒に漁に行かれなかった。その無念さを詩に書き留める。時には数年前に亡くなった奥さんが海を見渡す浜辺で座っていた石を見て奥さんと過ごしたひと時を懐かしむ。

 コンブ漁の季節には全国から若者がアルバイトでやってくる。その際、若者と毎夜のように酒を酌み交わして楽しいひと時を過ごす。若者たちも坂下さんを毎年のように訪ねてコンブ漁を手伝うのが楽しいらしい。礼文の春から夏は花々が咲き乱れて美しい。その時季を過ぎると厳しい冬がやってくる。しかし、坂下さんはどんなときにも自分の気持ちを詩に書いている。

 番組を見て漁師もそうだがむしろ詩人の方がぴったり合っていると思えた。墨での大書も素晴らしく一つくらい詩を書き留めておけばよかった。残念。

 いい番組がないと思っていたらそうではなく自分が見逃していただけだ。今朝、番組欄を見るとまたも見逃している番組がある。それは1月22日の日曜美術館。坂本龍馬の子孫が画家となっている。その人を取り上げたドキュメンタリーである。今夜BSで放送される。ネットで番組の概要を調べるとEテレの日曜美術館で放送されていた。総合やEテレならばNHKプラスでいつでも見ることができる。今夜遅く見るよりもネットのNHKプラスで見よう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月26日木曜日

『街道をゆく』 (二十七)「因幡・伯耆のみち」

 今朝は雪は降っていない。しかし、昨日の朝よりも冷たい気がする。我が家の裏の小さい庭に降った雪は一日たっても解けもせず真っ白いままだ。今日の最高気温は7度の予想。昨日は外に出ずに、と思ったが午後になって日差しがあり外に出てみる。が、途中にある裏道に雪が積もったままだ。そのまま家に戻る。

 以下は『街道をゆく』 (二十七)「因幡・伯耆のみち」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九六年第二刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「人間は、自由でなければならない。しかし、そういうたてまえと相反するほど重い義務を負わせられている。義務は、それを感じる人によって存在するのだが、そういう倫理感情のつよいひとびとのおかげで、私どもの社会が保たれてもいる。自由という大原則まで、そういうひとびとのおかげでまもられているのである。(19p)

★妙好人というのは、禅でいう悟りの境地を得た人のいわば”民芸版”ともいうべき精神の人のことである。(61p)

★禅を世界に紹介した鈴木大拙博士が、知識人として最初に妙好人に注目したひとだが、柳宗悦もまた妙好人をかれの美学的世界にとり入れた。……『柳宗悦全集』(筑摩書房)の第十九巻に「妙好人 因幡の源左」がおさめられている。……他の文章のなかで、金具の美しさにふれている。「ものを強固にする金具である。それゞのものはこの目的に忠実である。之等のものヽの美しさは、その誠実さから来てゐるのである」とあるが、宗悦は古い金具や錠に見出した美を、人間において妙好人のなかに見出したのである。(64-65p)

★日本人は、ゴビ砂漠やシルク・ロードの西域の流沙、あるいはサハラ砂漠に、他の国のひとたちには理解しがたいような甘美さを感じてきた。たとえば、ゴビ砂漠においては、紀元前から遊牧国家と農業帝国(中国の歴朝)とが争闘をくりかえした骨組みのあらあらしい歴史がある。またシルク・ロードのオアシス国家を中継地としておこなわれた東西文明の交流の歴史もあり、あるいは中近東の砂漠にあっては世界のいくつかの大宗教がおこった歴史もある。それやこれやを日本列島という湿潤の地でおもうとき、太虚に立つ虹のようなおもいをもってしまう。私も少年ころ、その思いが甚だしかった。中年になって、はじめてそこへ行ったときも、感動した。ゴビ砂漠やシルク・ロードへの日本人のあこがれも、つきつめれば、砂漠という巨大な空虚への憧憬が基礎になっているのではないか。鳥取砂丘は、戦後、大きな観光資源になった。湿潤の民が、無いものねだりとしてえがいていた砂漠思想のいわば代替物だった。(90-91p)

★砂丘を楽しむなど、古今・新古今以来の日本の美学的伝統にはなかった。風景におけるこのあたらしい切り取り方は、俳人や歌人がそれをやったのではなく、むしろ写真家の功績であったように思える。砂丘やそのなだらかな稜線、あるいは風紋などは、写真芸術としてはかっこうの対象だった。「鳥取砂丘を天然記念物にしてほしい」という運動は、昭和初年にはあったらしい。が、実現するのは、昭和三十年になってからである。ごく一部が指定された。(92p)

★人間の営みの遺跡というのは、価値観を越えて保存されねばならない。しかし、ひとびとが道を遠しとせずにそこへ出かけるのは、遺跡に接することによって生きることの荘厳さを感じたり、浄化されたり、あるいは元気が出てきたりすることを期待してのことである。(128p)

★私は城跡を見ることを好んでいる。しかしわざわざ鳥取城跡にゆく気がしないのは、どうも、江戸二百数十年、ぼう大な数の家臣団が、百姓の米を食ってきただけの痕跡を見て、明日から元気に生きましょうという気がおこりそうにないからである。「まあ、敬意を表するだけで」とどめておきましょう、と編集部の藤谷氏にもいった。実際、車の中から独立した山である城跡の山を見た。ずいぶん山の斜面が急なようで、鳥取平野に屹立する平山城としては、たくましい防禦力をもっているようにおもわれた。(128-129p)

★伯耆の国にきて、静(注:静御前)のことを書く必要はない。が、倭文(しとり)ということばと地名から連想した。五万分の一の地図をみていて、東郷池の東北角の丘陵上に、「倭文神社」という古社があるのを知ったのである。伯耆の一ノ宮だという。さらには上古、その辺りに倭文部(しとりべ)が集落をつくっていて倭文郷とよばれていたことを知り、そこへゆくことにした。(178-179p)

★石段の上に、名刹がある。三徳山三仏寺である。大山とならぶ霊場で、大山と同様、修験(山伏)の山である。山伏は、正規の僧ではない。……伯耆・因幡には、大山・三徳山だけでなく、山伏が割拠した山々が多い。かれらは、山々には霊があるとし、そういう山々をさがしては、「山(せん)」とよび、里から財をあつめて寺を建てたのである。鳥取県の山に「山(せん)」と音じさせる名が多いのは中世も山伏たちの痕跡といってよく、言いかえれば、嵐気のある山が多いともいえる。三徳山三仏寺もそうである。(208p)

2023年1月25日水曜日

最強の寒波到来

 最強の寒波到来で今朝は雪景色。ブロック塀の積雪は5㎝を越えているようだ。プラスチックのゴミ出しに出ようとしたが3,4歩玄関を出てあきらめる。もしも雪で滑ってひっくり返えれば骨折となる。それよりもゴミが溜まっている方がいい。いくら雪が積もってもお昼前後には雪解けになる。ところが今朝は雪が解ける気配がない。外は日差しがあるがかなり冷え込んでいるに違いない。

 1年のうち、家から1歩も出ずに家でじっとする日は数えるほどしかない。今日はその日に当たる!?

 こんな日は『燃えよ剣』を読めよということと思ってせっせと本を読もう。司馬作品を読んでいて読んでいる本が図書館の予約に入ることはなかった。ところが『燃えよ剣』に関しては予約客がある。29日まで借りている。今日を入れて700頁ある残り250頁を5日間で読まねばならない。いつもならば無理して急いで読まなくても貸出延長ができた。ところが次の予約客がいてはそれができない。先日の司馬遼太郎記念館の読み継がれる「好きな司馬作品」の10位までにこの本が入っている。読む人が多いのだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月24日火曜日

「遼」が届いた

  1年くらいプールで泳いでいない。(コロナの感染者が減少すれば泳ぎに行こう)、との思いはあるがなかなか泳ぎに行かれない。プールは隣町にある。プールの予定表をネットで見ると開館している。暖かくなれば泳ぎに行こう。コロナが流行りだして中断しているモノに海外旅行と水泳がある。水泳の目途はつきそうだが、海外旅行に至ってはいつになるやらさっぱりわからない。2年前にパスポートを更新したが10年以内に一度でも利用できれば由、と思おう。それよりその間も確実を歳をとってゆく。これが怖い。

 司馬遼太郎記念館友の会に入って初めて「遼」が届く。入会時に届いた「遼」は入会記念として贈られているが昨日はそれとは違う。そのなかに司馬遼太郎記念館主催の海外と国内のツアーがある。海外は司馬遼太郎が歩いた『街道をゆく』の「南蛮のみち」(1・Ⅱ)を訪ねる11日間の交流ツアー。また国内は『街道をゆく』の「紀の川流域」を旅する2泊3日のツアーである。いずれも行きたい気持ちはある。が、広島から参加となるといずれも前後泊が伴う。

 (もっと早く入会していれば……)、と思ったりするが今さらそう思っても仕方がない。送付されてきた「遼」はまだ全部を読んでいないがざっと目を通すと著名人による講演会なども開催されるようだ。これにも参加したいけど広島がネックになる。とはいってもだいぶ前に「みんぱく」の友の会に入っていた頃は若さもあったのだろう。何か行事があれば泊まり込みで参加していた。

 今日からしばらくは寒波到来で寒くなるようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月23日月曜日

旅のチラシ

 新聞折込に旅のチラシが入るようになった。今朝入っていたチラシを見ると出かけていない観光地がある。国内であればツアーに参加せず1人で出かける癖を、との思いがある。が、1人で行くには難しい場所もある。いつも声をかけてもらう人に電話で話すとこれまでの旅行支援の割引率がよかったために、1月からの旅行をためらうとか。先ほど、旅行社に日帰り旅を申し込む。しかし、電話がなかなか通じなかった。その割にはこの旅が催行なるかどうかわからないような旨、言われる。催行されなければされないときのこと。今から気にしても仕方ない。とりあえず申し込んだ。

 最近、何のはずみか萩の椿群生林を見に行きたくなる。先の友だちに聞くと何度か出かけたらしい。YOU TUBEでその旅を見ると是非とも行かねば、という気になる。これもツアーがあればいいのにと思ってネットで探すとあった。が、広島駅に7時20分の集合とある。朝早く起きないのでせめて8時半くらいの集合であれば、と思ったり。

 今は1年で1番寒い大寒の時季。遊びに行くにも元気がいる。それでも少しでも暖かそうな日はやっぱり遊びに行きたくなる。今朝は夜半に雨が降ったようで遅い起床となった。まだまだ遊びに行こうという気があるので元気なのかもしれない。それにしても早く起きるようにしないとどこへも行かれなくなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月22日日曜日

またもクレパス画

  一週間前前、先生に借りた絵本を読んだ。昨日、日本画教室に行って先生に絵本を返そうとした。その際、改めて挿絵の作家について聞くと自分が思っていた人と違っていた。作家の名が珍しいのでペンネームと思っていたら実在する人物で自分自身が思っていた人と違っていた。挿絵作家は以前、先生に日本画を習われていたそうだ。が、日本画では生活できないとかで方針を変えて東京で挿絵を描いておられるという。

 昨日の教室は休みの人が多く、手も動かすが口もよく動く。クレパスで桔梗を描くのだが先生から地色を濃い紫色になるように何度も色を変えて塗るようにアドバイスされる。そして、その上をヘラなどでデッサンする。しかし、いくらデッサンしても思うようにならない。桔梗の茎に色付けしようにも線が細すぎる。適当なところで描くのをあきらめる。しかし、時間がまだかなりある。先生は画用紙をはがき大に切ってその上に戸隠高原に行く途中で見かけた樹木の根っこ部分を描くようにと話される。樹木の幹は太く、ご神木なのだろうか。幹に縄がかけられ御幣がかけてある。この写真を参考にしてクレパスで描く。

 先生は何色のクレパスでもいいからいろんな色を重ねて塗るようにとまたもアドバイスされる。重ねれば重ねるほど地色が黒っぽくなる。次はその上の幹の部分だけを残して削ってゆく。するとそこだけ地色とは違った薄い色が現れる。そこまで聞くと次の作業の要領が判ってくる。幹にヘラを入れて幹らしくしたり御幣を描いていくと徐々に絵になってゆく。

 はがき大に花などを描こうとすると、それも細い茎の花などを描くには繊細な気持ちがないと描けない。花は自分には向かない、と思ったり。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月21日土曜日

再興第107回院展を見に行く

 福屋八丁堀店と駅前店で開催中の再興第107回院展を見に行く。今回も習っている先生が入選されている。先に八丁堀店の作品を見に行く。「再興院展」は「春の院展」と比べて作品が大きい。今回気になったのは絵よりもタイトルのつけ方である。(日本画は……)、と自分で勝手にそのイメージがあるのかタイトルにアルファベットが多く見られたのに驚く。さらに近年ますます日本画と洋画の区別が見ている分にはわからないほど抽象画も多い。さらにはそんな絵に賞がついている。ナニゴトも古い観念にとらわれていると進歩がないと思えるからだろうか。

 絵を見た後は三越に寄る。地下の売り場に行くとレジが混んでいる。近頃ない風景なのでこれにも驚く。三越前からバスに乗り福屋駅前店に行く。8階の院展会場に行くと八丁堀店よりもさらに分からない絵が多い。作品の半分近くは奨励賞などの受賞者の絵だ。絵は好き嫌いで見て、好きな絵が自分にとってのいい絵、と思えばいいと美学の先生に教わったことがある。その点からいえば好きな絵が少なくなってゆく。

 先日、新聞で見た絵が気に入り見に行った。新構造展である。その関係者から昨日、お礼のハガキが届く。新構造展に知った人は一人もいない。が、受付からして感じがいい団体に思えたので芳名禄に名を記した。それでハガが送付されたのだろう。丁寧な団体と改めて感動した。この展覧会は来年も見に行こう!

 昨日も暖かかった。この暖かさはまだ2,3日続くようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう! 

2023年1月20日金曜日

『街道をゆく』(二十四)「近江散歩」

 いいお天気が続く。来週になると急激に冬型の気候になるとか。昨日から院展が始まった。見に行くなら温かい日がいい。行くか行かないか迷っているうちに時間が過ぎる。

 以下は『街道をゆく』(二十四)「近江散歩」(司馬遼太郎 朝日新聞社、2000年第7刷)から気になる箇所を記した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★近江路のなかで、行きたいと思いつつ果していないところが多い。そのひとつに寝物語がある。……「ねものがたりの里」など、一見、地名としてありうべきでなさうに思えるが、しかし中世にも存在し、近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した。別名「たけくらべの里」とも言い、この地名の起源についてはさまざまな説があるのだが、いまは触れない。『近江国輿知(よち)志略』という本が、江戸期に出た。輿地とは、地理ということばの、明治以前の言い方である。……別名を、「長久寺村」という、『近江國輿地私略』のころはすでに長久寺のほうが正称だったらしい。(25p)

★長谷川三郎は戦後の抽象絵画の流行に火をつけた画家であり、理論家であった。さらには敗戦直後の須田画伯に強烈な影響を与えた人でもあった。魅力的な説得力を持つ人だったようで、「スダ君、道元だって抽象思想なんだよ」といって、当事、写実画家だった須田画伯を動転させ、抽象画に転向させたばかりか、画伯のいまにいたる道元好きに最初の火を点じた。(33p)

★伊吹山は、胆吹山とも書く。古語で故宮のことを息吹ともいう。伊吹山は、たえず風や雲を息吹いている。古代人の山岳信仰では、山からおろしてくる風は神の息吹きであるとしていた。(44p)

★息吹もぐさが結構なものだというのは奈良朝のころから定評があったとはいえ、世々の遷(うつ)りによって一般には忘れられたかのようであったとき、この伊吹山麓の柏原の人で松浦七兵衛(亀屋左京)という快傑が出た。かれが大いに中興する。(48p)

★その夜の湖水を中景にして、彦根城の天守閣が照明をうけて白々とうかんでいるのを見たとき、ときめくほどに感動した。維新のとき、太政官令によって多くの城がこぼたれたが、明治天皇がこの城を見、その典雅さに感じ入ってぜひ残せということで残されたともいわれている。(72p)

★阿弥というのは、方外人(世間の外の人)のことである。僧服をきたり、経を誦(よ)んだりせずともよく、妻子があってもいい。ただ頭は丸める。いまひとつは、信仰の厚薄にかかわらず、時宗(時衆)の徒になることである。(81p)

★浜田庄司が三カ年の英国での生活で身につけたもっとも大きなものは、田舎だった。かれは田舎の自然だけでなく、そこの暮らしている人々の質朴さや自律性、田園の号合理主義、厳格さ、秩序美、あるいは実用であることが美になってゆくおもしろさなど、すべて自分の思想にとりこんだ。考えてみると、バーナード・リーチは、日本の田舎で日本を発見したハーンに魅かれて日本に来たのに対し、浜田庄司は逆だった。わざわざ英国まで行って田舎が持つ普遍的なよさを発見し、田舎というものを構成しているすべての要素を自分のものにし、そのことで創り手としての自信を得た。かれは英国の田舎から出発した、と書いたり語ったりしている。(131-132p)

★鉄砲の出現と普及が、戦国の群雄割拠の状態から、歴史を統一にむかわせたということは、たれもが異存がない。ただ大量の鉄砲による戦法を考えたのが信長であり、その供給をしたのが国友鍛冶であったことを思うと、田園にのこる小村のふしぎさを思わざるえない。(184p)

★中国人は、こういう温暖で湖沼にめぐまれた地のことを「天符」といった。浙江省と江蘇省のことがそうで、この両者が見れば天下の食力が足りた、とさえいわれた。日本でいえば、近江こそその天符ということばにふさわしい国だったろう。この国をゆたかにしてきたのは琵琶湖である。(211p)「

★「カイツブリがいませんね」よく知られるように、この水鳥の古典的名称は、鳰(にほ)である。水にくぐるのが上手な上に、水面に浮かんだまま眠ったりもする。本来、水辺の民だった日本人は、鳰が大好きだった。鳰が眠っているのを見て「鳰の浮き寝」などといい、またよしのあいだにつくる巣を見て「鳰の浮き巣」などとよび、わが身のよるべなき境涯にたとえたりしてきた。琵琶湖には、とりわけ鳰が多かった。「鳰の海」とは、琵琶湖の別称である。「淡海(おうみ)の海」という歴史的正称はべつとして、雅称としては「鳰の海」のほうが歌や文章の中で頻用されてきたような気がする。(229-220p)

2023年1月19日木曜日

今朝の地元紙から

 「旅行会社大手のH急交通社が、熊本県が実施した新型コロナウイルス禍の旅行支援の助成金を不適切に受給していた……」との新聞記事を読んでびっくりする。熊本県によると助成対象外となる日帰り旅行で1500万円超の返還を求めている。これを読んで(他社でも同じようなことをしているのでは……)、と思ってしまった。

 記事にある旅行社は海外も含めてこれまで2,3度利用したことがある。いずれの旅も旅そのものは楽しかった。が、海外のモロッコの旅ではドバイのトランジットでシャトルバスはモロッコ行きでなくサンフランシスコ行きだった。旅の初日からツアー客10数人はハプニングに巻き込まれて大変な思いをした経験がある。国内の旅では出羽三山に出かけた際、バスの移動で添乗員の横や後部座席の真ん中に座らされてひどい目に遭った。それ以来、自分の中では一番いやな旅行社のイメージがぬぐい切れない。当然、この会社を利用しようとは思わない。その果てが今朝の記事にあらわれている。

 いやなことは書かないようにしている。が、この会社はどういっても好きになれない。まあ、利用しなければいいことだけど……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月18日水曜日

マチキャラ

 今日も機種変更後の携帯の話題。先日、ソフトウエアの更新があった。その後の画面を見るといつまでも白いキャラが動いている。(動いている間は更新中?)と思ってそのままにしていた。ところがいくら時間が経過してもキャラは動くので目障りだ。しかし、このキャラの名が判らずネットで調べようとしても難しい。仕方なく画面上に出る白いもので調べるとMydaizのマチキャラだった。これを消す方法を調べると長押し云々で消すことができた。

 ソフト更新前の購入時はこのキャラが画面上にあった。しかし、その時は動いておらず定位置に鎮座していた。が、このたびはこのキャラが動いたままだ。(消すと不都合が起きる?)と思ったが今のところ何の問題もない。これで一件落着。

 検索では音声入力で調べる。ところが音声が反応しないこともある。特に司馬作品など昔の人の名前や地名などがそうだ。その時は文字入力する。その際、ひらがなの小文字の入力、例えば学校(がっこう)などの小さい「つ」などである。そのやり方がわからずこれまた調べるとキーボード表示の下に「小」がありこれを使うといいらしい。これは促音というそうだが日本語であってもわからないことは多い。

 大寒前というわりにはいいお天気が続いている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月17日火曜日

「宝の持ち腐れ」

 昨年9月末に携帯の機種変更をした。新たな機種にはカメラが3つついている。カメラが多くついた機種を買い替えたかったのではなく、変更時の店頭に店員お勧めの機種がなかった。仕方なく在庫はあるが色の好みなども選べずにすぐに買ってしまった。買った後で姪に機種名を告げると「カメラが3つある新しい機種」と言われて驚く。

 昨日、そのカメラで写そうとしたら「スキャン」の表示が出る。スキャンは家にあるプリンターでもできるが(携帯でもできる)、とさっそく試す。スキャン後の出来具合を見ると周りに囲いがあり、自由に大きさなどが修正できた。これにも驚く。

 買い替え後の機種を使っていると毎日のように新たな発見(?)がある。昨夜のテレビで街頭インタビューをしている。中高齢者に聞いていたが携帯で写真が写せるとは知らなかった人やスマホの上下が判らずわかるようにと上にシールを貼った人などと様々な人がいた。途中で見るのが嫌になって寝てしまったけど大半の人が宝の持ち腐れのように思えた。その一人に自分もいる!?そうならないようにせいぜい利用しよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月16日月曜日

『街道をゆく』(二十一)「神戸散歩」

 朝から日が射し、いいお天気になりそうだ。相変わらず司馬作品を読んでいる。予約していた『燃えよ剣』を確保して読み始める。しかし、久しぶりの小説、それも長編小説とあってピッチを上げて読まないと読み終えられそうにない。本は3年前に発行の新装版で小さい文字で700頁もある。

 先日、図書館にない本をネットで知って申し込みフォームで申請すると予約している本が規定数の20冊に達しているため却下された。以前に図書館の受付で申請したときも20冊がネックになって受け付けてもらえなかった。その時はネットで申請できるとは知らずにいた。便利になったと思ってすぐにパソコンで申請するも20冊の枠があってダメだった。こういう時、すぐに受付拒否とはせずに図書館側で保留してくれればと思ったりするが規則なのでそれも無理!?

 朝からぶつぶつ言ってもいいことにはならない。気持ちを変えよう。

 以下は『街道をゆく』(二十一)「神戸散歩」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第五刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★梁啓超が日本にきた時期をしらべると、一八九八年九月に日本に亡命し、横浜で活動し、途中、ハワイや濠州にわたったこともあるが、その後も日本にいて、辛亥革命後の一九一二年、帰国している。陳徳仁氏によると、梁啓超はまず横浜に同文学校をつくり、ついで神戸につくった。梁啓超(一八七三~一九二九)は広東の人で、郷試に合格した挙人である。……ともかくも、横浜と神戸の華僑の学校の創立に、梁啓超が関係していたということは意外であった。あるいは、多分に、亡命者という、危険のすくない立場からの時評的評論家の面がありすぎた梁啓超にとって、この両都市に華僑の学校をつくることを推進したということは、その事歴のなかでの数すくない稔の一つであったかと思える。「実際にお金を出した人は、たとえばだれですか」「麦少彭(ばくしょうほう)という人です。当時、マッチの製造で成功していました」と、陳徳仁氏がいわれた。(237-239p)

★個人によって設立され、そのひとの私費で運営されている図書館で、青丘(せいきゅう)文庫という。「青丘」というのは朝鮮の雅称らしい。中国の書である『続山東考古録』のなかに「青丘国。海東三百里ニ在リ」とあるところから、古い時代の朝鮮の知識人がときにみずからの国をそうよぶようになったという。……設立者を韓皙曦(ハンソクヒ)という。韓さんについては、何年か前、ある会合で紹介された。「青丘文庫をつくった人です」と、その時紹介者にいわれたが、当時この図書館について無知だったため、音をきいてもなんのことかわからなかった。韓さんの職業についても「ケミカル・シューズをつくっている人です」ということで、化学靴とは何のことだろうと思い、帰宅して念のため各種の辞書をひいてみたが、そういう言葉は見あたらなかった。(263-264p)

★かれが二十余年前に造語したケミカル・シューズも、もはや通産省もつかっていて、言葉として公民権を得ている。青丘文庫も、韓さん自身は言わないが、この司書から日本の古い私立大学の助教授を一人生み、利用者のなかから京都大学の文学博士をひとり生んだことを私は知っている。――このあと横浜へ行く。という旨のことを言うと、韓さんはそのことには直接応えず、「神戸はよろしいな」といった。大阪、京都、東京と住んできたが神戸ほどいい街はない、という。(274-275p)

2023年1月15日日曜日

クレパス画を描く

 はがき大の和紙にクレパスでカラーの花を描いている。カラーの花は鉢植えを庭に植えなおして毎年、咲くようになった。これを写真に撮ったものを参考にして描いてゆく。クレパス画はデッサンをせずにいきなり描く。昨日の教室でカラーを描き終え、次に桔梗を描く。先生から和紙に濃い紫色を施すようにとアドバイスされる。濃い紫色にすると桔梗と同じ色合いになる。これをどうやって絵にするのだろう、と疑問を抱いた。人の絵を見ていると地色が濃い色にヘラでデッサンするように線を描いている。すると線が浮き上がってくる。(このやり方で描く?)と思った。先生からヘラを使ってデッサンする方法を教わると同じやり方だった。次週はヘラで桔梗をデッサンして絵を完成させよう。

 教室が終わる頃、先生から子供向けの絵本を読むようにと渡される。絵本は広島が発祥の地であるバウムクーヘンのお話で挿絵を日本画教室の人が描いておられる。絵の作家のプロフィールを見ると女性の名になっている。ペンネームのようだがご本人をよく知っているので妙におかしい。この人から日本画のサムホール大のパネルも作っていただくこともある。もちろん日本画も長年描いておられる。その上に絵本も描かれるとは驚き。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月14日土曜日

”Summertime”&寒行

 金曜日の昼下がり、NHK・FMから流れる曲は”Summertime”。この曲はガーシュインの作曲とは知っていてもその詳細は知らなかった。1935年につくられたオペラらしく、演奏が始まるまで延々とアナウンサーが曲の説明をする。この曲に関しては切なく聞こえる出だしのメロディーしかわからない。ネットで検索すると英語歌詞の動画があった。

 この曲を英語の歌詞で歌えるように練習しようと思いつく。とはいってもメロディーもあやふやで歌詞に至ってはまったくわからない。YOU TUBEを探すとジャズ風に歌っている。そして英語歌詞もついている。これならばなんとか覚えられそうだ。

 昨日から今朝にかけてお天気は良くないが気温は高い。冬になるとエアコンに翌日の予約を入れて寝ている。ところが今朝はエアコンが要らないほどの温かさだ。最高気温も15,6度になるようだ。小寒も過ぎて20日は大寒。大寒になればお寺から寒行に参られる。お正月が来ると寒行のお布施を用意する。昨夜、夕飯を終えたころ早くも寒行に参られる。早めにお布施を用意しておいてよかった。例年、寒行に来られる日は雨か雪の日が多い。今年は温かい雨の日の寒行だった。いずれにしても寒の修行とあって過ごしやすい時季には行われない。この時季の寒行だからこそ功徳もある!?
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月13日金曜日

『燃えよ剣』を読もう

 昨日の地元紙に司馬遼太郎記念財団による司馬遼太郎生誕百年にあわせて行った好きな司馬作品のアンケート結果が発表されている。1位の『坂の上の雲』に続いて『竜馬がゆく』『燃えよ剣』……と10位まである。10位までのうち、『燃えよ剣』をまだ読んでいない。この『燃えよ剣』は女性に人気があるとか。早めにこの本を読むようにしよう、と思って図書館にリクエスト。驚くことは司馬作品の累計発行部数がなんと2億673万部という。これは驚異的な数字だ。とはいっても自分自身、購入した司馬作品は10冊くらいであとは図書館頼みである。申し訳ない。

 年末に司馬遼太郎記念館友の会に入った。これでますます司馬作品にのめり込みそうだ。まあ、何でも夢中になるモノがあるのは幸せなことと思っているのでこれはこれで楽しみ!

 今日はこれから雨になるようだ。しかし、気温は15度まで上がり雨の日も続くようだ。雨が降る前にスーパーへ運動を兼ねて行こう。昨日のスーパーで春菊が398円、卵が298円と高くなっている。卵は高いだけではなく鳥インフルエンザの影響なのか売り場に5ケースしか置いてなかった。さて今日の卵は如何に?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月12日木曜日

新構造展を見に行く

 この先の天気予報を見ると最高気温が14度や16度の日が続く。月末までの予報を見ても暖かい日が続き、低くても8度くらいとあまり寒くならないようだ。お天気がいいと街中へと気持ちも動く。昨日も暖かい日だった。年の瀬に新聞に魅惑の逸品として新構造展の開催前の魅力的な作品の紹介があった。この新聞を切り抜き、展覧会がはじまったら見に行こうと思った。

 一昨日からこの展覧会がはじまり、昨日、早速、気に入った佐伯孝之の「晩秋の水辺Ⅱ」を見に行く。水面に浮かぶ落ち葉などが描かれており、見るものの郷愁をひく。他の人の絵を見ると全体的に力強い絵が多く、色使いも赤などを基調として派手さがある。しかし、気に入った佐伯の絵にはなぜか哀愁が漂う。これがまたいいのかもしれない。

 絵を見た後は駅前の福屋まで歩く。広島駅が工事のため駅前を歩くには凸凹道に気をつけないとあぶない。辺りを見渡すと新たなJPのビルが存在感を示す。その前を見るとまるで歯が抜けたかのようにビルが壊されている。この状況で広島を訪れる観光客は広島に対してどんなイメージを持つのだろう、と思ったり。

 工事は広島駅付近だけでなく広島駅から我が家の辺りまでも線路の高架化工事で様変わりしつつある。さらに山側に至っても東西に大きな道ができるとか。いずれにしても完成まではまだ先のことなので自分が生きているうちに完成するかどうかわからない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月11日水曜日

美容院へ

 12月初めに髪をカットしようと思って美容院へ電話で予約する。20日の夕方ならば予約OKとか。(20日も先のこと)と思って「また電話します」と言って電話を切った。そのすぐ後に(やはりその日にカットしよう)と思って電話をするも全く応答がない。(どういうこと)と訝りながらカットをあきらめる。というか(他の美容院を)、と思ったりした。

 昨日、思いつきでカットの予約を入れるとすぐに電話が通じた。それも先月のお詫びとも取れる言い方で話される。そして当日の午後3時で予約が取れた。(先月と今月のこの違いは)、と思いながら美容院に出向く。美容院は以前は3人だったが今は2人でされている。そのためか年末はてんやわんやの忙しさだったらしい。そして改めてお詫びを言われる。

 一昨日は成人の日。カットしてもらった美容院は一昨日、休みにもかかわらず成人を祝う集いに出席する人たちの髪と着付けを予約客だけにしたそうだ。それも早朝のことなので前日、ホテルに泊まっての出勤だったという。美容師は髪だけを担当し、着付けは専門家が派遣されてくるとか。飾り付けが終わった髪の写真を見せてもらうと飾りに水引や金粉などをあしらっている。「水引」は今や死語と思ったら髪飾りに使われていると知って驚いてしまった。母たちの時代は娘時代に水引細工を習いに行っていたと聞いている。和服の髪は人にもよるのか以前だったらアップにすると思っていたが、このごろは長い髪を後ろに束ねて飾りをつけて垂らすそうだ。昨日の写真の人もそうだった。

 新聞やメディアを賑わす成人を祝う集い。出席した人たちの写真を見ると皆さん、着飾っている。これも人生の、それも青春の華やかな一頁を飾ると思えば式への出席もいいことに思える。とはいえ、自分自身は成人式などの「式」に疎い人生を歩んでいる。当然、成人式も出席していない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月10日火曜日

『街道をゆく』 (二十七)「檮原街道(脱藩のみち)」

  分厚い『司馬遼太郎の世界』を読みホッとする間もなく、さて次に読む本を、と図書館に行く。『余話として』と『歴史と小説』を借りる。『余話として』を読んでいるとちらほらと読んだような気がしてくる。司馬作品読書一覧表を見るとやはり読んでいた。もう一度図書館へ出かけて『街道をゆく』(三十二)「阿波紀行 紀の川流域」を借りる。『街道をゆく』は初版からかなりの年月が経っている。それにもかかわらず、今、読んでも古さを感じさせない。これは不思議である。

 以下は『街道をゆく』 (二十七)「檮原街道(脱藩のみち)」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九六年第2刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★鎌倉末から室町末にかけて、禅宗(臨済宗)の本山で詩文がさかんだった。鎌倉五山、京都五山といういわばアイビー・リーグ風のよびかたが当時あったところから、五山文学とよばれる。かれらの多くが中国に往来したせいか、日本人の漢詩文に多いいわゆる和臭がないといわれる。その五山文学のなかでも、双璧というべきものが、義堂(義堂周信)と、絶海(絶海中津)だった。主として京都にいて、禅風によって大いに天下にふるった。この両人とも土佐人であるだけでなく、檮原(当時・津野庄)の人であることが感動的である。(299-300p)

★「北海道に屯田兵を置くべし」という意見をたて、他の者にも話した。かれ(注:北添佶磨)の調査と意見は同国の坂本竜馬にも影響をあたえた。竜馬は、もし新政府が樹立すれば、京都にあつまっている多くの浪士は無用の存在になる。よろしく北海道に移って屯田兵になるべきだ、という意見を持った(この構想は、明治政府の屯田兵制にひきつがれた)。(346p)

2023年1月9日月曜日

『司馬遼太郎の世界』を読む

 携帯に電話がかかるがすぐ切れた。かけ直すと先方が何かの勘違いですぐに電話を切ったという。そのついでに話をすると年末に大変なことがあったという。そして膝が痛くて元気ではないともいう。この頃、自分自身も歳を取ったが友だちも皆同じく年を取っているので体の不調を訴える人が多い。特に膝が痛い人が多い気がする。しかし自分自身、今はどこも痛くないので人の不調の話を聞くときは気をつけて話さないといけない。

 『司馬遼太郎の時代』を読み、そのなかに出てくる『司馬遼太郎の世界』(文藝春秋編 文藝春秋、一九九七年第八刷)に興味を持った。司馬遼太郎が亡くなった後、関係ある人たちが追悼して書いている、さらには司馬自身が書いた年譜も収められている。エピソードなどを読むとかなりそそっかしい面があった人に思える。それもまたいい!

 以下に気になる箇所をメモしよう。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★司馬さんの歴史小説は、主人公に対する作者の好き嫌いがはっきりと読み取れ、読み進むにつれてその主人公への好悪が作者のと一緒になっている自分に気づくというくらい、そのマインドコントロール効果は強い。”所詮この世は好き嫌いで成り立っている”というビジネスマン特有のシニシズムに、その好悪の明確化がぴたりと合うところがいいのかも知れない。……ビジネスマンは心ならずも周囲に気兼ねして自分を殺す日常の中で生きているだけに、マイペースを貫く偏執狂に近い人間の生き方に憧れる傾向があるが、司馬作品の主人公にはそのタイプが多い。……小説といえば暗さがつきまとうものと相場が決まっている中で、司馬作品の画調は明るく暖かく、辛い浮世を生き抜く現代ビジネスマンにとって、こんな格好なカタルシスもない。それもこの人がもてはやされる理由の一つなのだろう。(「司馬ブームの核心〉」諸井薫)(149p)

★ペンネームは『史記』の司馬遷に遼(はるか)におよばぬという意味で司馬遼太郎とつけた。(「足跡 自伝的断章集成」司馬遼太郎)(429p)

★《……中国では花咲爺(はなさかじじい)のことを花神(かしん)という。蔵六は花神の仕事を背負った》(『花神』)(「戦後財界人幕末ヒ―ロ-見立て」野村隆夫)(154p)

★司馬遼太郎の最も好きな人物の一人は、村田蔵六であったという。刺客に襲われた蔵六は、大坂仮病院で死去した。司馬氏が、蔵六と同じ病院(大阪市中央区の国立大阪病院)で息を引き取ったのは、偶然とは思えぬ何かを感じさせる。(「戦後財界人幕末ヒ―ロ-見立て」野村隆夫)(154-155p)

★かつて田中道太郎氏は文藝春秋誌の巻頭随筆に次のようなことを記した。

「古来ギリシャの昔から、秀でた文学作品は次の三つの条件をそなえたものとされた。①面白いこと ②ためになること ③まことらしいこと……」

 司馬さんの作品は以上の三つを満たすだけでなく、読む者を鼓舞した。元気にさせた。(「『この国のかたち』事始め」堤堯)(207-208p)
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★お坊さんが葬式を主導するようになったのは、ぼくは室町時代からだと思います(もっとも、この場合の坊さんは、非僧非俗のおこもさんのような、つまり聖とよばれる人だったようで、たとえば東大寺や興福寺の官僧は当時もこんにちも葬式をしません)。それまでは、お坊さんは葬式とは関係なかった。まだまだまともだったわけです。……戒名は要するに、仏典には存在しません。日本だけの俗風というべきもので、江戸中期、町人や百姓が力をもってきますと、寺ではしきりにこれをすすめました。このため幕府はしきりに禁止令を出し、百姓・町人で特に由緒ある者以外は、院号、居士号、大姉号なを点けてはいけないと禁じています。ところが昨今は大衆社会ですから、全部何とか院文字なんです。それは十万円、二十万円というお金によってつけます。仏説・仏典と何の関係もない戒名が、いま寺にとって大きな収入源になっているというのは、日本仏教の面白さの一つでしょう。(「日本仏教と迷信産業」司馬遼太郎)(321-323p)

★今度の旅の途中で高知市市民図書館に立ち寄った。ちょうど司馬氏の追悼コーナーがあり、多くの著作や色紙の写しなどが並べてあった。その一角に展示してある『昭和六十三年五月、桂浜で行った龍馬先生銅像建設発起人人物故追悼会に寄せた司馬氏のメッセージ』を読み進むうちに、感動に全身があわ立ち、しばし茫然と立ち尽くした。桂浜にある龍馬の像に語りかける形でつづられたメッセージの中に、次の一文がある。

<私は三十年前、ここに来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通して、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。「全霊をあげて、あなたの心を書く」と、そのときつぶやいたことを、私はきのうのようの憶えています>

 この覚悟が『竜馬がゆく』という傑作を生み、日本中の若者の血を熱くたぎらせたのである。(「龍馬脱藩の道」ー『竜馬がゆく』安部龍太郎)(390-391p)                                                  

2023年1月8日日曜日

新年最初の日本画教室

 新年初めての日本画教室に出かける。自宅最寄り駅に着くとJRの遅れが発生。前の駅で車両に異音がして線路を点検中とのアナウンスがある。5分くらいの遅れと思って次に発車の快速に乗車せず遅れた列車を待つ。その時点では広島駅まで快速に乗っても広島駅からの乗り換えが怪しいと思った。待つこと30分。やっと列車が動き出したとのアナウンスがある。列車の遅れといえば年末には三原あたりで列車とイノシシがぶつかって遅れが発生したこともある。

 遅れて教室に着いた。皆さん一か所に集まって先生の話を聞いている。(ナニゴト?)と思って途中から聞くと2月の教室で金や銀の「箔」を貼って何かをする説明のようだ。箔は日本画を習い始めて一度、やったことがある。しかし、その時描いたかぼちゃの絵が気に入らず、去年、その上に地塗りをし直して風景画を描いた。来月に皆でする箔はどんなことなのかわからないが箔の上に絵は描かないそうだ。教室の全員が箔を貼った状態で作品展に展示するコーナーを設けるらしい。

 蓮の花を描いている。他の人はクレパスで絵を描かれている。途中、蓮の絵がうまく描けず投げ出したくなる。いい加減の所で蓮を描くのを終えた。(次は何を)、と迷っていると先生は以前揉み紙などにした和紙をはがき大に切ってくださる。切ったはがき大の和紙3枚と残った小さい和紙を利用してこの上に花の絵をクレパスで描く。先生ともなると決して和紙を無駄にされない。3枚のはがき大の2枚を次とその次の教室でクレパスで描く。もう1枚を先生は若者に渡された。

 クレパスで描くのは大人になって初めてのことだ。皆さん、楽しそうに描いておられる。昨日は、クレパス画をパステル画と混同して粉が出るからいやなイメージがあった。この2つが違うものであると描き終えて気づく。我が家の庭に咲いたカラーの写真を見てクレパスで彩色する。昨日の時点では筆で描くよりも手で描くクレパスが自分には似合っているようにも思えた。

 教室ではほかにもSMSの話で盛り上がる。先生から年末年始に何度かSMSが届く。文面を見ると同じことが書いてある。(変?)と気づくが何度も返信する。SMSで送信画面を若者に見てもらうと送信後にチェックが2本ある。チェックが1本とか2本とかを送信後、気にすることはなかった。検索するとチェック1本は相手側に届いた、2本は相手側が既読、ということらしい。先生は返信が来ないので何度も送信されていた。どうも先生のスマホの調子が良くなかったようだ。

 ナニゴトも一歩ずつ、ゆっくりとわかってくる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月7日土曜日

2023年年賀状から

 昨日届いた年賀状が新年最後の年賀状になるかもしれない。そう思って今年の年賀状を改めて見る。大学入学に際してお世話になった某大学の先生は「昨年末エチオピア行ってきました。今年は台湾、ベトナム、マレーシアの予定です」と力強い文字で書かれている。昨年の年賀状には長年海外での研究を続けられているにもかかわらず、コロナで初めて海外に行かれなかったことが残念そうに書いてあった。これを見て「エチオピア」に行きたくなる。が、今は行きたくても世界情勢が安定するまで海外に行く気がしない。

 届いた年賀状を「学ぶ」「旅」「職場」「身内」などにジャンル分けすると「学ぶ」と「旅」が大半だ。「旅」で知り合った人の年賀状に「明るいニュースが聞きたい!」と最後に一行ほどの手書きがある。昨日、ふとこの人に電話をかけようと思いつく。どういってもひらめきを大事にしている。久しぶりに電話で話すとお元気そうだ。が、いきなり聞く言葉が「膝が痛い」。山歩きや海外旅行など行動派のイメージが強いのでまさかの言葉を聞く。思わず「どこも痛くない」と言ってしまった。

 近年は文楽に凝っているそうで大阪へ文楽詣でをしているという。奈良も好き、と聞いていたので奈良の吉野山の金峯山寺に行く旨、話す。大阪へは司馬遼太郎記念館に行きたいとも話した。その人はすべての予定を任せてくれれば計画を立てるという。ここは任せて4月に関西で再会となった。

 11月に某宅で開催されたホームコンサートでフルートを吹いた。コンサートの主はその時の写真を写真年賀状にしてくださった。他にもいろいろな年賀状があるが、年齢を重ねられて書けなくなったのか届かなかった年賀もある。その人たちの昨年の年賀状を見るとやっと文字が書けた状態だ。文字がスラスラ書けなくなっても年賀状を出される気持ちに感激した。しかし、今年はその人たちから来なかった。お元気だといいが気になる!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月6日金曜日

「帰れソレントへ」


 頭を過ることを大事にしている。年末に「帰れソレントへ」のフレーズが頭から離れない。日本語歌詞で歌ってみるとかなり歌える。しかし、怪しい歌詞のところもある。年が明けてもこの歌が頭をかすめる。YOU TUBEでこの歌を探すとイタリア語歌詞とともに日本語歌詞もある。が、日本語歌詞であっても子供の頃に学校で習った歌詞と違う。同じ歌詞を探しているとその動画があった。
 
 (やっと見つけた)、と思ってあやふやに歌っていた歌詞を修正して歌ってみる。笛を吹くときも気に入った曲であれば暗譜するまで練習する。歌の歌詞ならば一部の個所がわからないのだからすぐに暗唱できると思った。ところがこのお正月、毎日、覚えようと歌うがどうしても同じところで歌詞が出てこない。それは「あわれ……」の個所と「なつかしの……」である。昨夜、やっと一番目の歌詞を覚えた。二番目はどうしよう!?
 
 昨年はスペイン語や英語の歌詞で「ケ・セラ・セラ」「黒い瞳のNatalie」「その名はフジヤマ」など何曲か覚えた。今回は日本語の歌詞でそれもほとんどわかっている歌詞なのに簡単には覚えられなかった。これはきっと子供の頃に習った歌詞を間違えて覚えていたことによるのかもしれない。その修正が歌詞を覚えにくくさせたようだ。

 「帰れソレントへ」のようなカンツオーネを歌うと声量がいるので肺が強くなる気がする。別に肺を鍛えようと思って歌いだしたのではないのでそれはあまり気にしていない。ただ、年末年始は人と会う機会が減っているので大きな声を出してカンツーネを歌うと気持ちがいい。
 
 この曲を歌っているとなぜか「桜貝の歌」が頭を過る。ああじゃ、こうじゃと頭を過ることをしようとする。これも自分の性格でそれを面白がってやっていると暇なことはない。と言いつつも少しでも暇があれば司馬作品を読んでいる。司馬作品で暮れて司馬作品で今年も明けた。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月5日木曜日

非通知電話の着信拒否設定

 充電後のスマホを見ると非通知の電話がかかっている。家の固定電話は非通知の電話がかかっても着信拒否設定にしている。機種変更前の携帯も着信拒否設定にしていた。ところが買い替え後の携帯に非通知の電話がかかる。すぐに非通知設定を、と気持ちが焦る。その時点ではスマホに関しては(MYdocomoからの設定)をすっかりわすれていてWEB上のあてはまりそうな検索を探していた。何度か試みるうちMYdocomoに行きつく。

 MYdocomo→設定→番号通知お願いサービスの画面を出し、それに従ってやると難なく設定できた。これも年末に携帯のネットワーク暗証番号がロックされて151に電話して解除方法を教えてもらったことによる。それを思いだして非通知設定もできた。ナニゴトも気になることがあればすぐにやり終えないと気が済まない。この性格も困ったものだが、それをやり終えれば気になることがなくなってストレスもない。

 昨日、某会の人から葉書をいただく。この頃は手書きで文字を書く機会が減った。書くのは年賀状くらいでそれも裏面はパソコンで入力して印刷している。買い替え前のパソコンに至っては表も裏もパソコンに頼っていた。ところがパソコンを処分する際、住所録は?と気になって買い替え後のパソコンからは表面を手書きにしている。

 いただいた葉書の返事を書いていると思うように漢字が書けない。これではいけない。ブログは手を使ってパソコンに入力するがスマホに至っては手で入力しなくても音声入力が可能だ。というように手で文字を書く機会が減った。これでは漢字が書けなくなると気づく。今日からノートに1行でもいいから何か文を手書きしよう。さて、それは何の文!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月4日水曜日

「アラフィーのREスタート」記事から

 今朝の地元紙に「2度目の大学生 主役は私」の記事がある。55歳の薬剤師で今は大学4年生。心理学の講座を受けてみたいとネットで検索して中高年向け入試が目に留まったという。そして大きなことにチャレンジしようと大学生になる目標ができた。目標ができると英語検定試験「TOEIC」の得点をあげようと勉強を続けて無事大学に合格。記事の人が学ぶ大学の学部に自分自身も学んだので興味を持って読んだ。

 記事にある「TOEIC」の試験は大学に入ると義務として4回受けねばならない。自分自身、入学後よく勉強した科目に英語がある。短大を卒業して30数年ぶりの大学生なので英語は電車の中でもどこでも必死に勉強した。そのせいでJR降車駅を乗り越してしまうこともあった。ましてや「TOEIC」のようなマークシート方式の試験はそれまで受けたことがなく大変だった。一番苦労した科目は英語以外に情報科目がある。これはいつも書くように若者に賄賂(?)を渡して助けてもらった。そのお陰でパソコンに強くなったかもしれない。

 記事の人は社会心理学を専攻している。この春から大学院に進むつもりらしいが人から何のために学ぶのか聞かれると答えるのが難しいらしい。今は学ぶことそのものが目的で、そのわくわく感を味わいながら自分の道をしっかりと歩んでいきたいそうだ。

 会社をリストラになる前から仕事を辞めたら大学へ行こうと決めていた。リストラされて2週間後、アジア塾に行く途中、交流プラザに立ち寄った。そこで目にしたのが大学入学案内だった。今、思っても何とタイミングのいい事か。目指す大学は自分には到底かなわないと思った。それなのに会社をリストラされた思いを跳ね返すべく気持ちが高まっていたこともあるのか無事入学できた。

 入学後はこの記事の人がいうように「学ぶことそのものが目的で、そのわくわく感を味わいながら自分の道をしっかりと歩んでいきたい」、との気持ち本当によくわかる。この春、修了して満14年になる。その頃、母を介護しながらの大学生活は大変だった。が、今、当時を思い返しても人生で一番充実していた楽しい時間だった。そういえば自分自身も2度目の大学生は「アラフィーのREスタート」だった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2023年1月3日火曜日

初詣

地元の神社へ初詣
 お天気のよさに誘われて地元の神社へ初詣に出かける。その前にまずはお墓参りをする。お墓に参って(この一年も元気で楽しく過ごせますように……)と両親に話しかける。毎朝、仏壇に参るとき話しかけるフレーズがある。親が亡くなってもすぐには仏壇に手を合わせることがなかった。それが何年か経っていつしか仏壇に手を合わせられるようになった。そして、次はこれまたいつの間にか自分自身と身内の皆が元気で楽しく過ごせますように、と声を出して言えるようになった。ここまでするようになるには長くかかった。それもすべては親のいなくなったことを素直に認められなかった所以かもしれない。

 お墓参りに行く途中、すれ違った人が破魔矢を持っている。声をかけると地元の神社で買ったという。近年、破魔矢を買わなくなったがお墓参りのあと神社へ向かう。おみくじを買うと大吉だった。お参り後、写真をとるとスマホの画面に”happy new year”と出る。お正月に姪からメールの年賀状写真が送られてくると同じくこの表示がある。そのことが昨日わかった。カメラ機能にそれが付随していると。

 年の瀬から年の初めにかけてお天気も良く穏やかな一年のスタートとなった。コロナと世界の紛争がなければ最高にいいお正月に思える。

 ともあれこの一年も元気で楽しく過ごしましょう!