2023年1月26日木曜日

『街道をゆく』 (二十七)「因幡・伯耆のみち」

 今朝は雪は降っていない。しかし、昨日の朝よりも冷たい気がする。我が家の裏の小さい庭に降った雪は一日たっても解けもせず真っ白いままだ。今日の最高気温は7度の予想。昨日は外に出ずに、と思ったが午後になって日差しがあり外に出てみる。が、途中にある裏道に雪が積もったままだ。そのまま家に戻る。

 以下は『街道をゆく』 (二十七)「因幡・伯耆のみち」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九六年第二刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「人間は、自由でなければならない。しかし、そういうたてまえと相反するほど重い義務を負わせられている。義務は、それを感じる人によって存在するのだが、そういう倫理感情のつよいひとびとのおかげで、私どもの社会が保たれてもいる。自由という大原則まで、そういうひとびとのおかげでまもられているのである。(19p)

★妙好人というのは、禅でいう悟りの境地を得た人のいわば”民芸版”ともいうべき精神の人のことである。(61p)

★禅を世界に紹介した鈴木大拙博士が、知識人として最初に妙好人に注目したひとだが、柳宗悦もまた妙好人をかれの美学的世界にとり入れた。……『柳宗悦全集』(筑摩書房)の第十九巻に「妙好人 因幡の源左」がおさめられている。……他の文章のなかで、金具の美しさにふれている。「ものを強固にする金具である。それゞのものはこの目的に忠実である。之等のものヽの美しさは、その誠実さから来てゐるのである」とあるが、宗悦は古い金具や錠に見出した美を、人間において妙好人のなかに見出したのである。(64-65p)

★日本人は、ゴビ砂漠やシルク・ロードの西域の流沙、あるいはサハラ砂漠に、他の国のひとたちには理解しがたいような甘美さを感じてきた。たとえば、ゴビ砂漠においては、紀元前から遊牧国家と農業帝国(中国の歴朝)とが争闘をくりかえした骨組みのあらあらしい歴史がある。またシルク・ロードのオアシス国家を中継地としておこなわれた東西文明の交流の歴史もあり、あるいは中近東の砂漠にあっては世界のいくつかの大宗教がおこった歴史もある。それやこれやを日本列島という湿潤の地でおもうとき、太虚に立つ虹のようなおもいをもってしまう。私も少年ころ、その思いが甚だしかった。中年になって、はじめてそこへ行ったときも、感動した。ゴビ砂漠やシルク・ロードへの日本人のあこがれも、つきつめれば、砂漠という巨大な空虚への憧憬が基礎になっているのではないか。鳥取砂丘は、戦後、大きな観光資源になった。湿潤の民が、無いものねだりとしてえがいていた砂漠思想のいわば代替物だった。(90-91p)

★砂丘を楽しむなど、古今・新古今以来の日本の美学的伝統にはなかった。風景におけるこのあたらしい切り取り方は、俳人や歌人がそれをやったのではなく、むしろ写真家の功績であったように思える。砂丘やそのなだらかな稜線、あるいは風紋などは、写真芸術としてはかっこうの対象だった。「鳥取砂丘を天然記念物にしてほしい」という運動は、昭和初年にはあったらしい。が、実現するのは、昭和三十年になってからである。ごく一部が指定された。(92p)

★人間の営みの遺跡というのは、価値観を越えて保存されねばならない。しかし、ひとびとが道を遠しとせずにそこへ出かけるのは、遺跡に接することによって生きることの荘厳さを感じたり、浄化されたり、あるいは元気が出てきたりすることを期待してのことである。(128p)

★私は城跡を見ることを好んでいる。しかしわざわざ鳥取城跡にゆく気がしないのは、どうも、江戸二百数十年、ぼう大な数の家臣団が、百姓の米を食ってきただけの痕跡を見て、明日から元気に生きましょうという気がおこりそうにないからである。「まあ、敬意を表するだけで」とどめておきましょう、と編集部の藤谷氏にもいった。実際、車の中から独立した山である城跡の山を見た。ずいぶん山の斜面が急なようで、鳥取平野に屹立する平山城としては、たくましい防禦力をもっているようにおもわれた。(128-129p)

★伯耆の国にきて、静(注:静御前)のことを書く必要はない。が、倭文(しとり)ということばと地名から連想した。五万分の一の地図をみていて、東郷池の東北角の丘陵上に、「倭文神社」という古社があるのを知ったのである。伯耆の一ノ宮だという。さらには上古、その辺りに倭文部(しとりべ)が集落をつくっていて倭文郷とよばれていたことを知り、そこへゆくことにした。(178-179p)

★石段の上に、名刹がある。三徳山三仏寺である。大山とならぶ霊場で、大山と同様、修験(山伏)の山である。山伏は、正規の僧ではない。……伯耆・因幡には、大山・三徳山だけでなく、山伏が割拠した山々が多い。かれらは、山々には霊があるとし、そういう山々をさがしては、「山(せん)」とよび、里から財をあつめて寺を建てたのである。鳥取県の山に「山(せん)」と音じさせる名が多いのは中世も山伏たちの痕跡といってよく、言いかえれば、嵐気のある山が多いともいえる。三徳山三仏寺もそうである。(208p)

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