分厚い『司馬遼太郎の世界』を読みホッとする間もなく、さて次に読む本を、と図書館に行く。『余話として』と『歴史と小説』を借りる。『余話として』を読んでいるとちらほらと読んだような気がしてくる。司馬作品読書一覧表を見るとやはり読んでいた。もう一度図書館へ出かけて『街道をゆく』(三十二)「阿波紀行 紀の川流域」を借りる。『街道をゆく』は初版からかなりの年月が経っている。それにもかかわらず、今、読んでも古さを感じさせない。これは不思議である。
以下は『街道をゆく』 (二十七)「檮原街道(脱藩のみち)」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九六年第2刷)から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★鎌倉末から室町末にかけて、禅宗(臨済宗)の本山で詩文がさかんだった。鎌倉五山、京都五山といういわばアイビー・リーグ風のよびかたが当時あったところから、五山文学とよばれる。かれらの多くが中国に往来したせいか、日本人の漢詩文に多いいわゆる和臭がないといわれる。その五山文学のなかでも、双璧というべきものが、義堂(義堂周信)と、絶海(絶海中津)だった。主として京都にいて、禅風によって大いに天下にふるった。この両人とも土佐人であるだけでなく、檮原(当時・津野庄)の人であることが感動的である。(299-300p)
★「北海道に屯田兵を置くべし」という意見をたて、他の者にも話した。かれ(注:北添佶磨)の調査と意見は同国の坂本竜馬にも影響をあたえた。竜馬は、もし新政府が樹立すれば、京都にあつまっている多くの浪士は無用の存在になる。よろしく北海道に移って屯田兵になるべきだ、という意見を持った(この構想は、明治政府の屯田兵制にひきつがれた)。(346p)
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