2023年1月16日月曜日

『街道をゆく』(二十一)「神戸散歩」

 朝から日が射し、いいお天気になりそうだ。相変わらず司馬作品を読んでいる。予約していた『燃えよ剣』を確保して読み始める。しかし、久しぶりの小説、それも長編小説とあってピッチを上げて読まないと読み終えられそうにない。本は3年前に発行の新装版で小さい文字で700頁もある。

 先日、図書館にない本をネットで知って申し込みフォームで申請すると予約している本が規定数の20冊に達しているため却下された。以前に図書館の受付で申請したときも20冊がネックになって受け付けてもらえなかった。その時はネットで申請できるとは知らずにいた。便利になったと思ってすぐにパソコンで申請するも20冊の枠があってダメだった。こういう時、すぐに受付拒否とはせずに図書館側で保留してくれればと思ったりするが規則なのでそれも無理!?

 朝からぶつぶつ言ってもいいことにはならない。気持ちを変えよう。

 以下は『街道をゆく』(二十一)「神戸散歩」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第五刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★梁啓超が日本にきた時期をしらべると、一八九八年九月に日本に亡命し、横浜で活動し、途中、ハワイや濠州にわたったこともあるが、その後も日本にいて、辛亥革命後の一九一二年、帰国している。陳徳仁氏によると、梁啓超はまず横浜に同文学校をつくり、ついで神戸につくった。梁啓超(一八七三~一九二九)は広東の人で、郷試に合格した挙人である。……ともかくも、横浜と神戸の華僑の学校の創立に、梁啓超が関係していたということは意外であった。あるいは、多分に、亡命者という、危険のすくない立場からの時評的評論家の面がありすぎた梁啓超にとって、この両都市に華僑の学校をつくることを推進したということは、その事歴のなかでの数すくない稔の一つであったかと思える。「実際にお金を出した人は、たとえばだれですか」「麦少彭(ばくしょうほう)という人です。当時、マッチの製造で成功していました」と、陳徳仁氏がいわれた。(237-239p)

★個人によって設立され、そのひとの私費で運営されている図書館で、青丘(せいきゅう)文庫という。「青丘」というのは朝鮮の雅称らしい。中国の書である『続山東考古録』のなかに「青丘国。海東三百里ニ在リ」とあるところから、古い時代の朝鮮の知識人がときにみずからの国をそうよぶようになったという。……設立者を韓皙曦(ハンソクヒ)という。韓さんについては、何年か前、ある会合で紹介された。「青丘文庫をつくった人です」と、その時紹介者にいわれたが、当時この図書館について無知だったため、音をきいてもなんのことかわからなかった。韓さんの職業についても「ケミカル・シューズをつくっている人です」ということで、化学靴とは何のことだろうと思い、帰宅して念のため各種の辞書をひいてみたが、そういう言葉は見あたらなかった。(263-264p)

★かれが二十余年前に造語したケミカル・シューズも、もはや通産省もつかっていて、言葉として公民権を得ている。青丘文庫も、韓さん自身は言わないが、この司書から日本の古い私立大学の助教授を一人生み、利用者のなかから京都大学の文学博士をひとり生んだことを私は知っている。――このあと横浜へ行く。という旨のことを言うと、韓さんはそのことには直接応えず、「神戸はよろしいな」といった。大阪、京都、東京と住んできたが神戸ほどいい街はない、という。(274-275p)

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