(立春までは寒さも厳しい?)、と思って先の天気予報をしらべると2月1日の水曜日は14度となっている。2ケタ台の気温であれば春はすぐそこまで、と思えてくる。暑さ寒さを思うとき昨年の8,9月ころは寝る時刻が早かった。夜10時まで起きるのに耐えられぬほど早く寝ていた。今思っても不思議だ。暑さに草臥れ果てていたに違いない。その点、この冬は寒くても早くから寝なくなった。しかし、起きる時間が遅すぎる。この齢になってもよく眠るのでこれはこれでいいのかもしれないが。
泊を伴う旅を申し込んだら早くも昨日、旅の案内と振込用紙が届く。利用する旅行社はコンビニでの振り込み手続きをする。手数料はかからず、家の3軒先はコンビニがあるのでその点は便利である。今朝は振り込みに行ってその足でスーパーまで散歩を兼ねて出かけよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『街道をゆく』(十四)「南伊予・西土佐の道」(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2008年新装版第1刷)から気になる箇所をメモする。
★県名をえらぶのは、嫌味をふくめての苦心があったらしい。この点、愛媛県は幸運だった。『古事記』に、イザバギ、イザナミの夫婦神が国生みをする記述がある。最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。四国という島については、「身一つにして面四つ有り」とあり、それぞれ男女の人名が命名された。讃岐は男性で飯依比古(いひよりひこ)であり、阿波は女性で、大宜都比売(おおげつひめ)となっている。大冝は大食(おおけ)で食べものの豊かな土地というイメージらしい。土佐は男性で建依別(たけよりわけ)――雄々しい人――という名であり、伊予は愛比売(えひめ)で、文字どおりいい女という意味である。(15-16p)
★禅をやるから禅坊主が悪くなったんだと私は思っている。柳宗悦の民芸運動はよかったが、戦後、その思想をかんばんに軒なみに似たような商品をつくりはじめたことが、日本の焼物をわるくしたのではないか。江戸期のものでは染付がいい。呉須(ごす)が広地に浮きあがったり、逆にしみとおったりして、白地が呉須の藍色によって玉のようになめらかになっている。(50p)
★盤珪は、生涯、不生禅をとなえつづけた。不生は本来「生じない」ということだが、曹洞禅ではときに不とは否定の意味ではなく、こんにちの言葉「絶対」という意味に使われる。盤珪は「不詳の仏心」などと言い、自由自在を得る絶対的主体性という内容をこめて使ったらしい。盤珪は、禅者がこけおどしのように愛用する漢語の問答がきらいで、すべて日本語を用い、それも口語で語った。かれはその住山である播州網干の龍門寺(りょうもんじ)で、元禄三(一六九〇)年、各宗の僧千六百八十三人を前に説法した。そのときの速記が、右の全集の冒頭に出ているが、当時の播州あたりで話し手があらたまった場合、どういう口語が使われていたかということで、重要な参考になるかと思える。(75-76p)
★「これが開明小学校ですか」「土地では開明学校といっています」小学校のことを単に学校とよぶのは明治期のならいで、私にも多少はなじめる。ともかくも現在生きている学校ではなさそうに思えたから渡辺さんにきくと、明治十五年に建てられたものだという。あとでわかったことだが、現存するわが国最古の小学校建物なのである。卯之町は大変な文化財を持っている。(82p)
★周知のことだが、葦も葭も、一つ植物を指す異称である。葦が悪(あ)しに通ずるために、わざと葭に言いかえて中世の農民たちは排水のわるい湿地の開墾をしはじめたのではないか。葦・葭は、水辺に生えるイネ科の植物だから、この植物が密生した土地にこそ、一条件さえ適えば水稲を植えるにふさわしい。一条件とは、排水である。排水についての農業土木が発達するのは平安中期以後の関東平野においてであると私は思っているが、『仙覚抄』によるとアシをヨシに言いかえたのも関東においてであるという。……ともかくもそれほどに言葉の縁起をかついだというあたりに、農民の賢明なねがいが籠められているいっていい。葭田の 腐り水を他に排かせる工事をしつつ農民たちはよき田になってくれとねがい、成り終えた田にさらに好字(こうじ)を当てて吉田と名付けるようになったのではないか。(126p)
★宗紀は幕末の文久三(一八六三)年においてすでに七十を越えていた。「いままで質素倹約でやってきたが、もう多少の贅沢をしても天が赦してくれるもではないか」といって、面積一万二七七ハ・〇九平方メートルという周遊式の大庭園をつくり、そこに住んだ。天赦園がそれである。伊達家の祖の政宗が、江戸期に晩年をむかえ、少壮のころは戦場ですごしたが、生き残ってこのように老躯を保っているのは天の赦すところである、大いに楽しむべきではないか、という意味の詩をつくった。
馬上少年過グ
世平カニシテ白髪多シ
残躯天ノ赦ス所
楽シマズシテ是ヲ如何セン
宗紀はこの詩からとって、天赦園とした。(176-177p)
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