2022年7月31日日曜日

『ある運命について』

 『ある運命について』(司馬遼太郎 中央公論社、昭和63年第3刷)を読んだ。この本も30年以上も前に購入して読まずにいた。あと数冊、積読のままにしている司馬遼太郎の本がある。この際、読まずにいた家にある司馬作品をすべて読み終えよう。

 以下は『ある運命について』から気になる箇所をメモしたもの。蒸し暑い日が続いている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★人間の精神は歴史の産物であることをおもわざるをえない。広瀬は単に存在したのではなく、濃厚に江戸期を背負っていた。江戸期氏族階級は、二百七十年のあいだ、ただひたすら本を読み、しかもその読書の目的は、人間がいかに生死すれば美しいかという一点にしぼられていた。こういうふしぎな数百年を持ったのは、人類の文化史上、稀有なことといわねばならない。それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸溜されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であることを思うと、かれの精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生産されることはない。

 その意味において、本書(「広瀬武夫全集』)の編纂にあたり、関係者たちはあえて広瀬を軍人として見ることは姑(しばら)く措き、みずからは決して志さなかった文学の徒としてみようとした。このことは『歎異鈔』や『正法眼蔵』をあえて僧侶の著述とみず、鎌倉という時代がもったもっともたかい心の調べを感ずくべく文学の書として見る態度がゆるされていいということと同心円である。あわせて、この場合、文学の場というのはもっとひろげられていいという気分もある。(「文学としての登場」 29-30p)

★兵というのは、最初から兵である者はいない。まず恐怖を与え、規律をあたえ、間断なくその両方をあたえつづけることによって、なまの人間からなにごとかを抜きとってしまうのである。一週間もすれば、頭が茫となり、俗世間にいたことが十年前であるような感じになる。……明治からひきついできた鎮台的な軍隊の最後か、もしくは十五年戦争がはじまろうとしている最初いうきわどい時期に、長沖一という若者が、その社会に嵌め込まれ、かつ書いた。書きあげたときには、十五年戦争のふんいきがはじまっていて、発表されなかった。むしろそのことが後の世を経験しつつある私どもにとって幸いだったかもしれない。文学的価値のほかに、この作品は歴史的な(ひねくれていえば風俗史的な)資料性を大きくもつにいたっている。軍隊内務班について知識や関心のないひとでも、昭和五年における知識青年の精神風俗というものを知る上で、なにごとかを感ずることができるかもしれない。(「昭和五年からの手紙」 61-62p)

★正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。筆者などは善人になれなくてもできるだけ無害な存在として生きたいとねがっているが、正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端に殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。正義の反対概念は邪義であり、邪義を斃さないかぎりはは、自己の正義が成立しようもないからである。

 中国にも朝鮮にも正義という思想は古くからその官僚世界にあり、ひとつの「正義」を共有する者たちが、他の「正義」を共有する者を邪義として打倒すべくたがいに朋党を組み、惨烈な党争の歴史をくりかえしてきた。こんちになお、中国の政治現象をみれば、そのことを十分に理解することができる。西洋ではいうまでもない。  正義の女神は盲信性をあらわすためかどうか、顔は目隠ししている。片手には正邪の判定のための秤をもち、別の手には邪をたおすための剣がにぎられている。政治的正義のおそろしさを、この芽隠しと秤と刃ほど端的に象徴しているものはない。(「奇妙さ」143p)

★政治的正義がすべての人間に対してやさしい微笑でくるんだ歴史などはどこにもない。繰りかえしいうが、政治的正義における正邪は人間の善悪とはべつの場所あるいは次元に属しているようである。私のような者にはどうにも手に負えない。だが、人間がもっている情熱というのは奇妙なものだという感慨は、むかしから根づよく私のなかでつづいている。(「奇妙さ」148-149p)

★ここでは余談のことながら、すでに亡くなった詩人のことを思いだす。かれは自分の死の一週間前に、友人の詩を知り、悼んで、誅(るい)詩をつくった。

 死というものは、もう会えないということだ。それ以上のものでもなく、それ以下でもない。

 生死とはそれだけのことで、それ以外に何を加えることがあろうか、というすわりこんだ性根の底からこのことばが出ている。忠三郎(右の誅詩における死者)のあらゆる表情、声、あるいは動作など人間としてのすべてが自分のイメージの中にある。それで十分だ、というのである。私における安田章夫(あやお)氏も、そうである。死者という特別な存在ではなく、つねに生きて動き、その名を呼ばれるのを聞くたびに顕れる。(「奈良法蓮時代・仄聞」187-188p)     

2022年7月30日土曜日

旅番組

 乗り物に乗らず歩いて旅をするテレビ番組、〈てくてく絶景「地元京都人が自慢する『絶景』巡り」〉がある。今週月曜日から昨日までの5日間を京都市から亀岡市まで100㎞を歩く。旅は早朝5時前後から、と早くから歩き始める。この番組を知ったのは2日目の京都嵯峨野あたりからの旅だった。この番組はNHKのBSで午後7時から30分ある。この時間帯はいつもならば火野正平が自転車で旅をする「こころ旅」がある。今回は初めて知った正門という若者がこころ旅と同じく数人の番組クルーと歩く旅をしていた。

 おおよそ1日に20㎞ほど歩くが最初にそれを聞いたとき20㎞に驚いた。先日、街中に絵を見に出かけたときの携帯万歩計を見ると7.2㎞(9850歩)を1時間9分歩いていた。(20㎞はこの3倍を歩くのか)、と思いながらテレビを見る。若者の足元を見るとトレッキングシューズのような靴を履いている。旅は街中ばかりでなく山道もある。靴も選ばないといけないようだ。ただテレビクルーの姿も映し出す。半パン姿が多かった。

 慌ただしく過ぎ去る毎日にこういったのんびりムードの番組はいい。街中もいいが亀岡市に向かう途中にある棚田はこちらの気持ちまで癒される。2か月くらい前に山陽本線に乗って久しぶり西条に出かけた。呉線周辺には田んぼはなく本線は車窓から田んぼが見られると期待したがこの頃は田んぼを見かけない。

 春に近所の人から鉢植えを貰った。その時、鉢植えをくれた人は庭に麦を植えていた。なぜ麦を、と聞いた。植物に稲藁を置きたいがその藁が手に入らないので麦藁で代用するとのことだった。その時、その人は町内に2か所、田んぼがあるという。そう聞いても町内のどこに田んぼがあるかはその人も知らないそうだ。

 子供の頃は家の周りは畑や田んぼが多かった。とくに隣町まで行く峠道は田んぼがあった。ふと当時を振り返ると既に60数年以上の月日が経っている。街の風景が様変わりするのもうなづける。とはいえ、当時の光景は今でも鮮やかによみがえる。どの家々の生活スタイルも一変したのだろう。田んぼも畑もなくなったことがそれを象徴している。麦藁のストローで作った蛍駕籠も蛍草も今はない。蛍草は何年か前までは墓地までの道に生えていた。ところが今はそれさえも見当たらない。

 蛍草(露草)を電子辞書で調べると秋の季語とある。ということはこれから咲く!?否、もう咲く時季と思うけど……。お盆のお墓参りで露草を探して歩こう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月29日金曜日

セルフネグレクト

 猛暑日が続いている。いくら暑くても月に一度は眼科へ行く。今、特に目がどうこう言うわけではない。が、生まれてすぐに目の病気をしたと親から聞いて育った。そのため、近視とかではなく視力がよくない。それでも救われるのは視神経が綺麗、と医師から言われることである。眼圧は14と17でとくにどうこうではない。長く使用していたコンタクトレンズは2年前から使うのをやめた。眼鏡の効果はほとんどないが気休めにかけている。

 今のところ至って元気。ただ視力がよくないのがいけない。眼科の薬局でマイティアなどの点眼薬を受け取る。その際、いつもの薬剤師は休みで代わりの人だった。「お薬手帳は?」と聞かれて持っていないと告げた。世にいう高齢者なのでお薬手帳があるのが当然かもしれない。が、眼科、時に歯科に行くだけで内科などもう20年以上も行っていない。

 同級生と話すと内科で血圧やコレステロールの薬を貰って飲んでいると聞く。こういった薬は飲まない方がいいと思うが自分自身が医師でも何でもない人間なので人に忠告できない。ということでお薬手帳は用がない。

 今朝の地元紙によると高齢者の一人暮らしにセルフネグレクト(自己放任)の危険性があるという。生活全般に対して無気力になり、ごみの分別や食事をつくらず、果ては家の中が荒れ果てて生活が破綻するという。

 今のところこういったことはない。が、そうならないようにと自分自身を戒めている。ブログの最後にいつも記す言葉もそういった願いを込めているのかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう! 

2022年7月28日木曜日

日本画展に行く

  広島県立美術館地下1階の県民ギャラリーで開催中の広島県日本画協会展を見に行く。出かける前から半端ない蒸し暑さだった。午後には雨も降りそうなので早めに家を出る。先日の日本画教室で先生とのお話では午後が当番、と聞いていた。が、午後はさらに暑さも増すと思い午前中に出かけた。相変わらず広島駅は工事中で駅から外に出るにも簡単ではない。そばでは係がバス方面への行き方を大声で知らせている。

 美術館へはバスに乗らずに駅から歩く。歩いていても顔から汗が出る。行く日を決めなければよかった、と後悔しながらも絵を見に行く。暑い、暑いと言っていては行くのがウソになると思ったからである。美術館に着く前に隣の縮景園が開園していた。絵を見た後に縮景園に行こうとした。が、こう暑くては干からびそうなので行くのを断念する。

 美術館に到着した。頭から顔から汗が噴き出る。すぐに絵を見る気力も体力もない。ロビーに座ってしばし縮景園を眺めながら汗をぬぐう。こう暑くては外に出かけよう、との気持ちがなくなる。それくらい暑い。というか、歳を取ったと感じる瞬間だ。

 母は元気なころ冬の寒いときは暖かいのが御馳走と話していた。この暑さでは涼しいのが御馳走になる。来週も再来週も、と絵を見に行く計画をしていたが、これも暑さとの根競べになりそうだ。

 汗も落ち着いてきたところで地下に降りて絵を見る。先日、日本画展の会長が亡くなられた。ギャラリー中央の展示作品は遺作が2点掲げられていた。絵を描く人は長生きをされている。ちょっと早すぎるように思えた。

 習っている先生の絵は萌(きざし)とタイトルがつけられ、樹林の先に雪を頂いた山が頭を出している絵だった。

 ギャラリーを出ると1階に上がって全国各地の展覧会のチラシを見る。2か所、行きたいところがある。岡山県井原にある華鴒(はなとり)大塚美術館の金島桂華の「涼」ともう1枚は下関市立美術館「風景画の生まれるとき。」のチラシである。「涼」は桔梗の絵。下関の方は来月から10月くらいまで開催なのでコロナが今より落ち着けば見に行こう。

 コロナが落ち着く日はいつ来る!?連日広島は感染者が増えている。来月中旬が感染者のピークとの予想もあるがあてには出きない。昨日、デジカメの写真を見ているとどうじゃこうじゃと言いながらも結構去年は旅に出かけている。ところが今年になって全く遠出をしていない。ツアーでなく一人で行く癖をつけないとこのままどこへも行かなくなりそうでそれが怖い。

 絵を堪能した後は駅前の福屋でお昼を食べる。お昼と言ってもまだ11時前で準備中だ。しばし店内をうろついていつものお店に入る。食事後は新幹線口のekieによってうえののアナゴ飯とは異なる業者のアナゴ飯を購入して夕飯にした。こちらのアナゴ飯も美味。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月27日水曜日

『街道をゆく』(三十)「愛蘭土紀行」(Ⅰ)

 『街道をゆく』(三十)「愛蘭土紀行」(Ⅰ)(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第5刷)を読んだ。最後にメモした箇所の「宗教は、水か空気のようである場合はいいが、宗教的正義というもっとも悪質なものに変化するとき、人間は簡単に悪魔になる」のくだりは最近の凶悪な事件を思うとき少しニュアンスは異なるがそう思う。人は弱い生き物だから何か迷いがあればたどり着くのが宗教なのだろうか。最近の一連の事件を見て母親がある宗教にのめりこんだために財産を奪われ、さらには家族が自殺する、果ては息子が家族の恨みを募らせて関係ないものを射殺する。この結末を当事者である母は知らぬ存ぜぬで済まされるのだろうか。この底辺に宗教的正義がある!?

 話題にしたくないことなのに先のくだりが最近の事件と結びつく気がして取り上げてしまった。気分を変えよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は気になる箇所をメモしたもの。

★人間は幼児や少年期に見なれた街角や小川、村のたたずまいなど、何一つ変わってもらいたくない。このことは、「我が家のやすらぎ」ということに似ている。人はながい旅をして他国の金殿玉楼を見ることをよろこぶが。しかしもどってきてわが家の安楽イスに腰を下ろしたとき感ずるのは、結局、わが家ほどいいものはない、というのだろう。魚が、自分の魚巣に感ずる気分である。(54p)

★ロンドンに来れば、日本人ならたいていの人が夏目漱石(一八六七~一九一六)を思いだしてしまう。その感情には、一滴の地がまじるように、悲しみがまじっている。明治の悲しみというべきものである。(58p)

★英国が魔物であったという歴史的認識なくして、十九世紀のアジアは理解できない、ということなのである。日本の明治維新の成立(一九六八年)も”魔物”から併呑されまいとしたためのものだったということを鍵(キー)にしなければ、すべてがわからない。また中国近代史は、阿片戦争(一八四〇~四二年)からはじまる。その後の中国近代のながいくるしみや混乱も、この”魔物”が出発点をなしている。(60p)

★私は、日本史のながれのなかに、三つの大きな美的もしくは美的倫理感情があったとおもっている。ひとつは『源氏物語』に表わされた”もののあわれ”である。もうひとつは『平家物語』における坂東武者たちの、「名こそ惜しけれ」というたかだかとした美的倫理感情である。(これをわすれてしまった日本人が、国際舞台に乗りだしてくれては、世界じゅうが当惑するにちがいない)。同時に、明治の悲しみという日本文明史の上で最大の感情といえるものを忘れては、日本人は情緒欠陥人間になってしまう。(61-62p)

★漱石は『文学論』において、科学とまではゆかなくても、すくなくとも生物学における形態・生物学者のような方法と態度で文学を見ようとした。……後世の私どもは、この『文学論』の序文のおかげで、明治の悲しみの一端をうかがうことができるのである。(68-70p)

★漢語に「爾汝の交わり」という慣用句がある。爾汝とは”お前”という親しみをこめた軽いことばで、その交わりとは日本語でいうと”おれ・おまえの仲”というような意味である。アイルランド人、ことに九五パーセントを占めるカトリックのひとたちは、一面人情深いが、反面、ざっかけない。つまり社会全体が”爾汝(じじょ)の交”でやっているらしい。(75p)

★合衆国における市民としての筋目(?)はプロテスタントであり、カトリック系は規制権威の条件に入らない。まして、ケネディはアイリッシュ・カトリックだった。かれの当選に、どの国の国民よりもおどろいたのは、英国系もしくは本国の英国人だったにちがいない。いまでも、英国内のアイルランド人といえば、単純労働に従事している人が多い。――あのアイリッシュが、アンリカへゆくと大統領になるのか。などと驚いた人も多かったにちがいない。げんに、いまでもダブリンあたりで、あまり上等でない冗談がある。「どうも食えなから、アメリカへ行って大統領にでもなるか」(97-98p)

★死んだ鍋というのは、問題が拠って起つ絨毯を、問題ぐるみひっぺがすようなところがある。問題だけでなく、ひっぺがすのは自分自身でもよく、相手そのひとでもいい。さきにふれた例をくりかえすと、「……とくにかれの詩はね」と答えたリンゴ・スターの”死んだ鍋"は、質問者である記者が権威として敷いているベートーヴェンという絨毯を、記者ぐるみひっぺがすことで成立するのである。(137p)

★国家とは、国民の誇りと希望の源泉でもある。金銭では換算できない。このことは、血みどろな反英抵抗の結果、二十世紀の半ばちかく(一九四九年)になってようやくアイルランド共和国を成立させたこの国のひとびとがたれよりも知っているはずである。逆にいえば、いくら金がかかっても国家という”金看板”は維持されねばならない。国家が、今世紀の歴史段階において最大の価値であり、かつ贅沢なものなのである。(172-173p)

★一八四三年八月十五日、オコンネルは、「タラの丘へ」と叫んで、ひとびとをその田園の丘陵の上にあつめた。タラ(Tara)がえらばれたのは、この地が、アイルランド人にとって伝説の地だったからである。……”タラにはアイルランドを統(す)べる大きな王がいた”という神話が、実証以上の実在感をもって信じられており、「タラ」といえば、聖地だった。日本神話でいえば、高千穂の峰とか、高天ケ原にあたる。(199p)

★スカーレットは百敗する。南軍がやぶれ、家も町も焼かれ、最初の夫も二度目の夫も戦いでうばわれ、三度目の夫のレット・バトラーも失踪した。すべてをうしないながら、「タラへ帰ろう――」それは彼女が父からゆずりうけた農場の名というだけではなかったろう。アイルランド人としての不撓(ふとう)の血が流れていることをわすれるな、ということをその地名をとなえることによって暗喩したのにちがいない。再生への祈りでもあったはずである。(201p)

★宗教は、水か空気のようである場合はいいが、宗教的正義というもっとも悪質なものに変化するとき、人間は簡単に悪魔になる。この点、英国国教会は中道・中用・中途はんぱという態度でいつづけているため、自分を絶対善だと思わずに済む。つまりはいい意味でのいいかげんであるため、カトリックの専売特許であるはずの”聖人”の称号をそのまま英国国教会で無断借用して”聖パトリック教会”と名づけているのである。(207-208p)

2022年7月26日火曜日

各種絵画展

 先月、クレジット・カードの請求書に見覚えのない金額が引き落とされていた。すぐにクレジット・カードを手もとにおいてカード会社に電話した。その際、廃却済みの古いパソコンのセキュリティソフト代金が引き落とされるとのことだった。解約しなければ永遠に引き落とされるという。すぐに教えてもらったソフトの会社に電話した。解約を申し出ない限り、引き落としがある旨、告げられる。その場で解約すると翌月にカードの請求金額にマイナス表示がある、それが返金であるとも言われた。

 昨日、1か月ぶりにカードの請求書が届いた。請求額を確認するとマイナス表示がある。これで一安心。だが、このセキュリティ会社からはソフトの継続をせよとのメールが頻繁に届く。もう、無視するしかない。

 昨日は他にも来月開催の日本水彩展の招待券が送られてきた。何年か前に水彩展を見に行ってそれからいつもチケットが送られてくる。コロナ禍で人との交流がほぼ皆無になった。そんな矢先に郵送してくれる人がいる。ありがたい。是が非でも絵を見に行こう。他にも別の人からメールが届く。ありがたいメールだった。

 苦手意識が強いはずの絵。だが、コロナ禍にあって絵を描いたり見たりして気分が救われる。今日から数日、県立美術館で先生たちの日本画展が開催される。来週は他のグループの日本画展の開催もある。そしてお盆には昨日送られた水彩展の開催と絵を見に行く機会ができた。

 本来ならば絵よりも演奏会を聞きに行くことが多かった。コロナ禍では演奏会よりも展覧会の方が人込みを避けられる。スッキリしないお天気だ。まだ雨の降り方が足りないのだろうか。今日も蒸し暑くなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月25日月曜日

『ロシアについて』

  ロシアがソ連の時代、2度ほどソ連に出かけている。1度目はモスクワやレニングラード(今のサンクトペテルブルグ)などで2度目はソ連領シルクロードのサマルカンドやヒワなどである。いずれも名古屋空港からのチャーター機でハバロフスクまで行き、そこから乗り換えて行った。

 最近、家に積読していた司馬作品を読んでいる。その中に『ロシアについて』(司馬遼太郎 文藝春秋、1989年第1刷)がある。今年になってロシアはウクライナに侵攻した。嫌なことは見ざる・聞かざる・言わざる状態が体にいいとわかっているのでロシアとウクライナの戦争を報道するメディアに深入りしないようにしている。が、手もとにこの本があるので読んだ。

 以下に気になる箇所を拾い上げたがその最初と最後にメモした箇所が今回の紛争にも関係あると思われる。

 この本が書かれた時代、まさに自分自身もソ連に出かけている。海外への行き始めは中国語を習っていた関係で中国だった。何度目かの中国旅行ののち、ソ連へ出かけている。中国とソ連と聞けばまるで「お前は共産主義者か」と言われそうだが、まったくもってその逆の民主主義者である。当時、ソ連入国時は柵で仕切られたカウンターに各自通されて入国審査が始まる。最初は何が起こった、と言わんばかりの怖さがあった。また、ソ連国内の移動の飛行機はまるで戦闘機を思わせるように人が座らなければドミノ倒しのように座席が倒れて平たくなる。

 ただ、軍事国家なので「飛行機の操縦は上手い」との声が誰からとなく聞こえてきて安心した。今になってなぜソ連へ行こうとしたのかを考える。当時、広島ではアジア大会が行われる前であり、各国の言葉を国際会議場で教えていた。その時、ロシア語の教室に通ったことが影響している。その教室で初めてロシア人に会った。そのロシア人は日本人と結婚されていた。が、しばらくしてロシアへ帰国後、交通事故で亡くなられた。たった、半年間のロシア語教室だったが「これは何?」などの簡単なことは覚えた。それを使うべくソ連に行って話していたらロシア語ができると思われたらしく戸惑った記憶がある。いろんな国へ出かけたがその中でもソ連の旅は印象深い。そういえばレニングラードの旅で「武器庫」を見学した。が、武器庫なることばはそれまで聞いたことがなかったので初めてそれを聞いて強烈な印象を抱いたことを思いだす。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は本からの抜粋。

★九世紀になってやっとウクライナのキエフの地に、ロシア人の国家(キエフ国家)ができたということは。ごく小さな規模とはいえ、ロシア史を見る上で、重要なことだと思います。……九世紀に樹てられるキエフ国家の場合も、ロシア人が自前でつくったのではなく、他から国家をつくる能力のある者たちがやってきたのです。やってきたのは、海賊を稼業としていたスウェーデン人たちでした。かれらは海から川をさかのぼって内陸に入り、先住していたスラヴ農民を支配して国をつくったといわれています。(17p)

★ロシアはシベリア開発のために、日本から食料を得たいのである。そのために、日本を研究し。漂流民を優遇し、そのすえに日本政府と正規の国交をもつことを願った。この望みは、じつに執拗だった。シベリアを中心に、その枝葉としてのカムチャッカや千島列島の一部などにおけるロシアの開発(結局は毛皮獲りだが)にともなうロシアの国家意志こそ、江戸期日本にとって一種の対露恐怖(正体さだかならぬ物怪に対するような)をうけつづけた本体であったといえる。(46p)

★伝兵衛に日本語学校をひらかせたのも、コズイリョフスキーという乱暴者に千島列島の探検をさせたのも、ロシアの中軸部が日本というにわかに知った一文明圏への関心の為であった。当時の日本への関心の中心は、清国に対すると同様、領土にはなく、シベリアの産物を日本に売り、日本から食料を買い、シベリア開発を容易なものにしたいというところにあった(このことは、いまも一貫してつづいている。シベリアが存在するかぎり、この関心はたえることなくつづいていくにちがいない)。(80-81p)

★ペリーはもともと恫喝と威嚇こそ東洋人相手には有効だと認識し、その方針でやってきて終始つらぬいた。ペリーは成功したが、品性のわるさを歴史に記録させた。かれは下僚からも好かれていなかったし、むしろ憎悪され、軽蔑されていた。晩年、娘がユダヤ系の富豪の家に嫁いだが、かれもその家で養われ、客があると執事として食事を運んだりした。傲岸と卑屈は、しばしば紙の表裏であるという一例になる。(168p)

★私は日本が大した国であってほしい。北方四島の返還については、日本の外務省が外交レベルでもって、相手国(ソ連)に対し、たとえ沈黙で応酬されつづけても、それを放棄したわけではないという意思表示を恒常的にくりかえすべきだと思っている。……ロシア史においては、多民族の領土をとった場合、病的なほどの執拗さでこれを保持してきたことを見ることができる。……日本が、政府主導による国民運動などをしているぶんには、彼の国は、日本はそれを流血でもってとりかえすつもりかなどということを、ある種の政治的感情でもって考えかねない体質をもっている。(246p)

★私はただ、歴史という大きなワクのなかで、日本とのかかわりにおけるロシアをみたかっただけである。その関係史を煮つめることによって、ロシア像をとりだしてみたかったのである。(あとがき 251p)

★国家は、国家間のなかでたがいに無害でなければならない。またただのひとびとに対しても、有害であってはならない。すくなくとも国々がそのただ一つの目的にむかう以外、国家に未来はない。ひとびとはいつまでも国家神話にたいしてばかでいるはずがないのである。……世界制覇などというのは歴史の虚妄であって、存在したことがない。存在したものは、その帝国が制覇の形態を示したとたんに自壊していった歴史だけである。また平和という高貴でかつ平凡なことばは、そのうえではじめて使えるもので、他国に対して心理的にも軍事的にもおぼえを感じさせている状態のなかで発すべき性質のものではない。(あとがき 258p)

2022年7月24日日曜日

「せん妄」

 ネットを見ると「続く面会制限、高齢患者らに『せん妄』…『ゼロコロナ』との両立に医師苦悩」のタイトル記事がある。このなかの「せん妄」はあまり聞いたことがない。せん妄を電子辞書で調べると「譫妄」とあり「外界からの刺激に対する反応が鈍り、錯覚・妄想・麻痺などを起こす意識障害」とある。なお「譫」は「たわごと。うわごと」などとあり一人でぶつぶつ言うことかもしれない。これすなわち認知症!?

 それにしてもコロナ禍はいつまで続くのだろう。昨日のコロナ新規感染者は過去最多の約21万人。学校は夏休みに入ってお盆ももうすぐやってくる。いくら感染者が増えても行動制限はされず各自の判断に任されている。
 
 この先、どうなるのか凡人には予想さえできない。ただ、コロナの嵐が過ぎ去るのをじっと我慢して待つ!?今のところこれしか手段はなさそうだ。そうなると先の「せん妄」が危ない!?まだ何でも自分で出来るので面会制限云々は無用だ。気持ちだけはなるべく外に目を向けて、そして暑くても一日に一度は外に出かけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月23日土曜日

『街道をゆく夜話』

 やっと梅雨が明けた、という感じの清々しい朝を迎える。肌にまとわりつく風もひんやりとし、気分まで晴れ晴れとする。

  相変わらず司馬作品を読んでいる。机上にはパソコンと電子辞書、そして姪から贈られた『司馬遼太郎全仕事』を置いている。司馬作品を読み終えるとそれをこの本でチェックする。『街道をゆく夜話』(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2016年第7刷)は『街道をゆく』で歩いて見えたエッセイや評論の断片をまとめたものである。司馬作品はどれを読んでも目からうろこが落ちるようで新鮮このうえない。知らなかったことばかりだ、と読みながらいつもそう感じる。

 生きている間に全作品読破、という大きな夢がある。この夢、このままの調子だと実現しそうだ。いつまでも元気で司馬作品を読んでいたい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下はいつものように気になる箇所を抜粋したもの。

★江戸期の知識人のヒューマニズムを知ろうと思ったら、松浦武四郎を知れば何となくわかってくる。キリスト教によらないヒューマニズムです。(13p)

★徳阿弥という者がいる。名の下に阿弥とつくのは、「時宗」という当時の新興宗教の信者である証拠である。(56p)

★源氏にあらためるについては証拠がなければならず、その証拠を作るについては遠祖徳阿弥の寝物語が生きてきたのである。「わが遠祖は、上州利根川ぞいの徳川村に住んでいた新田源氏の族である」ということになり、姓も徳川とあらため、これ以後、家康は正式に署名するときは「源朝臣家康」と書くようになる。家康は、関ヶ原での一戦で天下をとった。このときこの「源氏」が生きてきた。なぜならば藤原氏や平氏では朝廷の慣例により征夷大将軍の官はくだせられない。征夷大将軍は源頼朝の先例以来、源氏にかぎられており、この征夷大将軍がもらえないければ「幕府」というものがひらけないのである(平氏であった信長は平氏であるがために幕府をひらくことができずやむなく公卿になって天下を統一しようとし、そのあとの秀吉は豊臣氏であったために同様のことになり、やむなく公卿の最高職の関白になって天下をひきいる名目を得た)。(60-61p)

★グワッシュの風景画(99p)

★私は大和の長谷寺や当麻寺がなぜ牡丹の名所なのかよくわからなかった。奈良県のひとびとはいまでも花見は桜でなく、牡丹であり、牡丹の花のそばにむしろを敷いて酒を飲み、唱をうたったりするのである。長じてからこの風が唐の長安のものであったことに気づいた。……その型を、奈良朝のころ、遣唐使船でもどってきたひとびとが、大和に移植したにちがいない。(177p)

★天孫族である天穂日命は。出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代打者という立場で出雲における占領政治を正当化した。奇形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主になった。いわば、旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。今の出雲大社の宮司家であり、国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。天皇家と和ならんで、日本最古の家系であり、また天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽の奸賊といえども、この家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。その理由は明らかである。この二つの家系が、説話上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰とする日本的シャーマニズムに温存され。「第二次出雲王朝」は、二十世紀のこんにちまで生存をつづけてきた。(270-271p)

★人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎での思索だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかわって居た――あるいは現在もいる――山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。……樹上の森青蛙は白い泡状の卵塊から下の水中に落ちて成体になるのだが、ひとびとの空想も、家居しているときは泡状の巣の中にあり、旅に出るということは、空想が音をなてて水の中に落ちることにちがいない。私にとって『街道をゆく』とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近頃になってわかってきた。(367-368p)

2022年7月22日金曜日

コスモス

 本来の梅雨明けはどうも今日のような感じがする。そうであれば例年通りの梅雨明けとなる!?晴れの日が少なく雨が多いせいか、せっかく植えたコスモスとヒマワリはひょろ長く伸びて見るたびに倒れている。それでも花を咲かせようとするのかコスモスが精細なく数個ほど濃いピンクの花をつけている。ヒマワリは2m近く伸び、これまた自分自身を支えきれずに蕾をつける。これから先、晴れの日が続けばいまより少しは地に根を張るかもしれない。

 庭にコスモスを、と願って種を撒いた。が、大きくなって花を咲かせても野に咲くコスモスほどの勢いがない。そよそよと風になびくコスモスを予想したが我が家のコスモスは風になびくどころか大雨で倒れてしまった。それを起こす役目も種を撒いたものの務め!?

 コスモスは秋桜と書くように秋の花。真夏に咲くコスモスよりもやはり秋に咲くほうが似合っているようだ。しばらくはコスモスから目が離せそうにない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月21日木曜日

「心配は無用、なるようになるさ!」

  「ガシャッ」とする音で目が覚める。時刻は午前3時48分。真っ暗だ。その中でひときわ光を放っているモノがある。電話機だ。電話機のディスプレイを見ると「リボンを交換」云々の表示が出る。(誰が電話機を触った?)と訝りながらも表示に応答して再度眠る。今朝、目覚めても電話機が気になる。顔を洗おうとするとお風呂の時計が止まっている。ということは一時的に停電が発生したのかも、と思い直してお風呂の時計の設定をし直す。お風呂に窓がなく、24時間換気している。

 雷などで電話機のディスプレイの表示が暗くなったりおかしくなったりしたことがこれまで2度あった。今回は真夜中のことなのでどういういきさつでこうなったかははっきりしない。が、いずれにしても停電が疑われる。

 何か問題が発生すれば今のところ大概のことは何とか自分で解決できる。だが、いつか解決できなくなることがあるかもしれない。そう思うといやになる。が、その時はその時、とおおらかな気持ちでいないと元気で長生きできそうにない。「心配は無用、なるようになるさ!」。この言葉が自分にはあてはまりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しくs後しましょう!

2022年7月20日水曜日

哲代さん、テレビに!

 今年の梅雨明け宣言は異常に早かった。が、本来の梅雨明けはもう一雨降る明後日が妥当なようだ。昨日は住んでいる地区も市内の他の区と足並みをそろえるかのように大雨注意報が途中から大雨警報に変わった。雨脚は注意報も警報も同じ。警報が出てしばらくすると雨も止む。止んでも地盤が緩んでいるため警報解除は夕方になった。その間、雨の降り具合はどうかと気にしながら一日を過ごす。

 今朝は朝から晴れて気分までが晴れる。昨夕、地元の民放テレビは尾道在住の102歳ひとり暮らしの石井哲代さんの生活ぶりを映し出す。地元紙に毎月1度掲載中の石井哲代さんを見たことはあるが映像を見るのは初めてだ。新聞報道でおおよその生活ぶりは知っていてもテレビで見るとさらによくわかる。到底102歳とは思えないほどしっかりされている。

 テレビクルーは哲代さんが服を買う様子を映す。何歳になっても同じ服を着てゆくわけにはいかないらしく新たな服を買われた。今回はテレビ局がプレゼントしたようだ。これを見てコロナ禍になって日用品以外、ほとんど買わなくなっていると気づく。ナニゴトも気持ちが冷めてはいけない、とわが身を反省。

 購入された服はデイサービスに着て行くそうだ。以前は槙でお風呂を沸かされていたが今は週2回のデイサービス通いでお風呂に入るという。取材の日は柏餅をつくっておられた。柏餅の柏の葉を他の葉に代えてつくる。近所の人や以前の教え子だろうか、皆さんで作っていた。ガスは歳を取ると一番危ないと思っているが、哲代さんはガスを使っている。これにもびっくり。この頃は要介護1らしい。家の前はかなりの急な坂道で電動カーに乗って移動される。頭がさえておられるのだろう。が、この日は購入したばかりの服をどこに置いたかわからず取材班に着るように促される。10分くらい探して見つかったらしくその服を着てデイサービスにお出かけだ。
 
 哲代さんは自分の親と近い世代。そう思うとやっぱり102歳でひとり暮らしの哲代さんはすごい人だ。大雨警報中、こういう番組を見ると自分自身、「頑張れ!」と励まされているような気持になる。暑いじゃどうじゃ、とやる気のなさを嘆くよりまずは石井哲代さんを見習おう!そしていつもこういったお元気な人を見ると顔に表情がある。そう感じる。喜怒哀楽、なんでもいい!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月19日火曜日

『街道をゆく』(十二)「十津川街道」

 梅雨が舞い戻った感じで連日、大雨が降る。昨夜から今日にかけて市内の大半の区で大雨警報発令中。今のところ住んでいる区では大雨注意報で警報ではない。だが、外は日中なのに暗く雨はやみそうにない。こんな日は家でおとなしく本を読む、と言いたいところだが、落ち着いて本を読む気にならない。雨が気になる。

 以下はだいぶ前に読んだ『街道をゆく』(十二)「十津川街道」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九八年第9刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★右傾化が最高潮に達したのは昭和十五年で、その前年にノモンハン戦闘でソ連軍から世界史上類がないと思われるほどの敗北を喫した軍部が、言論界を巻きこんでこの翌年に、国家と人民を太平洋戦争という業火のなかにたたきこもうとしていた年である。この昭和十五年が、皇紀二千六百年になる。皇紀などという珍妙なものを公式に制定したのは、民族主義が昂揚、もしくは昂揚させざるをえなかった明治初年のことで、太政官は『日本書紀』の紀年法を採用し、西暦から六六〇年古くして神武天皇の即位の年とした。(54p)

★神武紀元はウソだという津田左右吉の学問は、当時の内務省の大小の役人の知識のなかにはなかったらしく、二千六百年の紀元節である二月十一日が近づいてからそのことに気づき、あわてて一月十三日、岩波書店に対し、津田左右吉の著作を内務省に持って来させ、その翌日、発禁にしている。戦後、津田史学は復権した。建国の「基礎」に大ウソが入ると、それが是正されるために何百万という血が流されねばならないということになる。十年前(昭和四十二年)に紀元節が復活して建国記念日とされた。国とひとをこけにするのも、ほどほどにしなければならない。(55-56p)

★修験者は、自分たちが行場をひらいた山を、おもおもしく「岳」とよぶところがあったから、あるいはこの乗鞍岳にも古くは行場があったのかもしれない。(65p)

★十津川郷民を苗族になぞらえるのは唐突すぎるが、しかし日本の歴史のなかで、低地の政治に対し関心をもちつづけた唯一の山郷といえるし、さらには低地の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷といえるのではないか。壬申の乱で天武天皇に接触し、大坂の陣で徳川家康に接触するのは、山民たちがかれらを好きだったということではないであろう。一貫して自分たちを伝統のままに置き捨てておいてもらいたいといことであり、ひいては十津川の伝統的な堵を守り、それに安んじていたいための保証のとりつけであったといっていい。「安堵」という。中世の日本人にとってもっとも重要な法律用語のひとつであった。(146-147p)

★孝明天皇は、毒殺されたという。……攘夷と尊王が結びついて倒幕のための激しい合唱言葉になったが、孝明天皇がそのあらたな時勢の段階で不調和になってしまったことは、この人自身が天皇主義者でなかったことであった。……孝明天皇は発病後、二週間ほどのわずらいで十二月二十五日になくなった。『中山忠能日記』では、病気は天然痘ということになっている。(205-207p)

★十津川高校の校庭を横切って民俗資料館へゆく途中、文武館という館名の血なまぐささを思った。十津川郷の人びとにとって単に門番をしていただけの門の内側で、幕府と薩摩のありったけの政略が渦巻き、結局薩摩が勝ち、あらたに幼帝をかついで明治をおこした。その天皇制の醒惨な害が太平洋戦争の敗戦までつづくのだが、敗戦後に出来たこの高校には、幸い文武館という冠称がとれてしまっている。(208^209p)

2022年7月18日月曜日

『故郷』

 今日は母の月命日。昨日、涼しい時間を見計らって一日早いお墓参りをする。墓地までの石段の入口に剪定業者2人が座って休憩されている。見知らぬ人たちだが道を開けてとも言えずしばし立ち話をする。道にはクレーン車が止まっていて車に業者名が書いてある。遠いところから来られていた。剪定場所は個人の墓地内に植えてある松の木だ。墓の主の家の庭にも何十本もの松が植えてある。この業者がどちらも剪定しているという。

 お墓も家もいずれも他では見かけないほどの大きさで松の木も天にまで届くほど大きい。墓参りの後、振り向くとクレーン車の上に座って剪定されている。この高さは何mあるのかわからないがそれにしても1本2本の松でなく相当数の松である。(この金額は?)と要らぬことを考えながら家に向かう。

 図書館で予約した魯迅の文庫本を借りる。『阿Q正伝』とともに収められた『故郷』を読もうとした。『故郷』は高校の教科書に収められているとか。この中に「僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど、地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると道ができるのだ」(魯迅 藤井省三訳 光文社、2014年第5刷 68-69p)とある。
 
 この原文をネットで調べると「希望本无所谓有,也无所谓无,这就像地上的路,其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」とある。が、ネットの訳は「希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。それは地上の道のようなものである。実際、地上にはもともと道はなく、歩く人が多くなれば、それが道となるのだ」とある。

 ネットの原文は本で確認していない。またネットの訳は藤井省三ではないようだ。魯迅は書いている。「僕はあの二人が二度と僕のように苦しみのあまりのたうちまわって生きることを望まないし、彼らが閏土(ルントウ)のように苦しみのあまり無感覚になって生きることを望まず、そして彼らがほかの人のように苦しみのあまり身勝手に生きることも望まない。彼らは新しい人生を生きるべきだ、僕らが味わったことのない人生を」(68p)。

 魯迅の生きた時代も今の世の中も、というか、いつの世であっても希望なくして人は生きては行けない。気づけば凶悪な事件が発生し、わけのわからない侵略や目には見えないウイルスが人々の不安を煽っている。たとえどんな時代であっても決して絶望することなく希望をもって自分の人生を歩む!?希望を持つ大切さを教えてくれる。
  
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月17日日曜日

道を描く

 3,4年くらい前に出かけた信州戸隠高原の戸隠神社への道を写真に撮った。これをもとに日本画を描いている。写真で見る限り長く伸びる道の先は垂直のように見える。ところが先生はそうではないと話される、確かにきっちりと垂直の道はあり得ないだろう。道の両側は樹木が生い茂る。2週続けて樹木を彩色した。昨日は道を彩色してゆく。道には樹木の影がある。この影を濃い目の色を付けてぼかす。道は胡粉で彩色していると他の色も混ぜるようにと先生のアドバイスがある。

 混色する際、なぜこの色を混ぜる?と思うほど先生の選ばれる色は自分とは違う。結果は先生の色が勿論のこといい。が、混色一つをとっても本画に仕上げるには難しさが付きまとう。何ごとも徐々にと思っているが、相当長生きをして絵を習わないといつまで経っても思う絵は描けそうにない。と言いながらも何やかやと思いを巡らすうちが絵を習う楽しみかもしれないと思ったりする。

 今日はこれからお墓参りへGO~。母の月命日は明日だけど今朝は幾分涼しそうなので一日早くお墓へ参ろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月16日土曜日

風穴

 梅雨のような鬱陶しい日々が続いている。マンネリ気味な毎日に新たな風を入れようと試みるが気持ちはあっても行動に移せずにいる。そんな日々に口ずさむ歌は相変わらず「ケ・セラ・セラ」「その名はフジヤマ」「黒い瞳のNatalie」「夜来香」などである。一度、その国の原語で歌を覚えると、それがたとえ老後になって覚えた歌であっても忘れないと気づく。というか、毎日口ずさんでいるために忘れないのかもしれない。

 そして毎日といえばこれまたフルートで気に入った「アルビノーニのアダージョ」を吹いている。この曲は哀愁ある曲なのでそろそろ他の曲を、と思うが相変わらずこの曲を吹いている。

 さらにはこれまた飽きもせず司馬作品を読みふける。テレビの「街道をゆく」の番組が放送なくなって『街道をゆく』を読むのを一旦やめた。今は昔、買って積読になっていた司馬遼太郎の『ある運命について』を読んでいる。これはいわゆる小説の類ではなく随筆になる。司馬の歴史小説の中ではも奥様の名はでてこない。が、『街道をゆく』や今読んでいる類の本にはしばしば奥様のことが書いてある。他にも登場人物といえば有名無名にかかわらず興味惹かれる人たちも多い。

 昨日読んだうちの「山姥の家――人間を私有すること」はある銀行員の奥様が山姥のようになっていく過程を書いている。まるでポツンと一軒家のように山を切り開いて自分一人の力で家を建て山姥として生きて行く。夫と別れてからの山姥生活を本人は「蛮人」と名乗る。生まれた子供たちは結核で亡くなり、夫と死別して以降に年老いて生まれた男児が成長して結婚すると蛮人であっても息子を私有物のように扱ってゆく。これは司馬遼太郎の周辺にいる人たちのうちの一人で「身辺風土」の中に書いている。山姥は息子の結婚を機に山を下りて生まれて初めての賃金生活に入る。

★「やまのくらしが、こいしいです」という意味のハガキも来た。……それを読むと、私は息子の私有論も若集宿の議論もなにもかも自分の頭の中から灰のようにふっとんでしまい、彼女の悲しみが体中の毛穴からしみこんでくるようで、気持ちのやり場がなくなってしまうのである。(『ある運命について』「山姥の家――人間を私有すること」「司馬良太郎 中央公論社、昭和63年第3刷 256p)

 蛮人は司馬宅に泊まりに来るほどの間柄だったようだ。いつこの蛮人とどのようにして知り合ったかは書かれていない。が、もっとこの人について知りたいと思った。身辺風土には他にも行きつけの飲み屋で知り合った人などの話もある。一見普通のサラリーマンなのにただ一つ譲れないものとしてこの男性は富士山を愛する。それも誰よりも富士山に多く登る。この話も面白かった。

 こういう類の本を読むとさらに司馬作品が面白くなる。マンネリ生活にわざわざ風穴を開けなくても、今のままでも十分風通しはいいかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月15日金曜日

1980年代初めのころ

 今年の梅雨明け宣言は早すぎたのでは、と思えるほど梅雨のような日々が続いている。雨脚が強いのか元気に育っていたコスモスは数本倒れていた。そのうちの1本は蕾をつけている。この状況ではコスモスの花は咲かないかもしれない。ただ、その足元に生える紫蘇だけはお店で売っているような大葉になっている。

 中国語を習い始めたころのことを思っているとその頃から昭和・平成・令和といった元号でなく西暦で年数を数えている。1982年に市の広報紙で見た中国語教室に通い始めた。当時のことは今でも鮮明に覚えている。中国人を初めて見たのはその時の中国語の講師であった。と同時に、日本人の先生の顔は覚えているが名前を忘れてしまった。その先生は当時の大学教授である。

 その当時の中国人はまだ少なかった国費の留学生であり、一目見ただけでも賢さが顔に表れていた。名前は胡英という人で若い女性だった。その人の着ていた服などの格好までも鮮明に覚えている。ちょうど今から40年前になる。今ではもう立派な偉い人になっているに違いない。

 次に講師になった中国の人も国費の留学生だった。今の中国とは違って何を聴いても中国留学生の話に興味があった。教室が終われば夜8時にもかかわらず皆で食べたり飲んだりした。その時、中国の留学生はどんな難題を日本人からぶつけられても日本語で反論していた。その底辺には日本人がその人に尊敬の念を抱いていたように思う。

 その時の留学生の話で教室の人と2人、初めて中国へ旅行した。ツアーにもかかわらず、留学生の妹さんが住む南京で会ったりしている。月日の流れるのは早い。あれから36年が過ぎた。当時の教室の人は大半が中国に住んでいた人や仕事で中国とかかわりがある人たちだった。そのため、習い始めから中国語を話したり書いたりされていた。その中にわけもわからないものが混じって中国語の教室に出かけていた。が、最初のうちは何が何だかさっぱりわからなかった。ただ、それまで生きてきたこととは違う文化に接してそれが楽しくて仕方なかった。

 思いだすことは多々ある。今日はこれでおしまい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月14日木曜日

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

 日本画の先生の絵は「道」が多い。「なぜ、道?」と先生に問うたことがある。道を描く前は「田んぼ」を描かれていたらしい。その話を聞いて魯迅の道を思いだす。「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。

 中国語を習い始めたころは中国にのぼせていた。まだネットもYOU TUBEも何もない1980年代初めの頃だ。中国語の放送は短波放送を聴いたりカセットテープで聞いたりする時代。『台所から北京が見える』が中国語を習う仲間でブームになった。主婦が家の中の台所のほかにあちこちにカセットラジオを置いて中国語を学び、果ては中国語の通訳の仕事をしてゆく。この本の著者はその当時、あちこちのメディアに取り上げられた。

 この人が魯迅の「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」とテレビなどで話されていたことを思いだす。この言葉は魯迅の『故郷』に出てくるとか。『故郷」は読んでいない。電子辞書にこれが収めてあるかどうかを探すとなかった。ネットで調べるとNHKの10minという番組に動画とあらすじの掲載がある。せっかくなのでこれを機に『故郷』を読もう。

 「道」から何十年ぶりに中国語を習いだした当時の気持ちが蘇る。その頃は外国、とりわけ中国でさえもどこへも出かけていなかった。何がきっかけで自分自身が変わっていったのか改めて知る。たまには昔を振り返る。これもまた楽しい。自分が歩む足跡が「自分の道」になっていく。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月13日水曜日

蝉しぐれ

 家の前に小学校がある。校庭の周辺はちょっとした林で今朝はけたたましい蝉しぐれだ。雨がやんで蝉は今が出番とばかりに一斉に鳴くのだろう。夏本番だ。夏といえば蝉以外にもある。先日、近くの電気屋からスイカ一玉をいただいた。スイカに貼ってあるシールを見ると「尾道因島熟っこ」とある。スイカといえば鳥取の大栄スイカが有名だ。が、尾道もスイカの産地のようだ。

 熟っこは果皮がダークグリーンで中身は赤色。一玉もらっても包丁で切れるのか、と心配していた。かぼちゃならばレンジでチンすれば柔らかくなり切りやすい。ところがスイカをレンジでチン、はできない。切れそうにない包丁を入れるとすぐに切れた。思ったよりも皮が硬くない。ジメジメした雨の日にスイカ?と思いながらも丸を半分に切ってさらにそれを半分に切る。スイカの大きさは大中小で表せば中の大きさで数日かけて美味しくいただく。

 蝉とスイカ、狭い庭に出ればコスモスとヒマワリが我が物顔で大きくなっている。とはいっても花が咲きそうなのはコスモスの1本だけ。ヒマワリはもしかして花が咲くかも、という感じである。

 今朝はジメジメ感がない。が、日中は真夏の暑さとなるようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月12日火曜日

蓮の花

 NHKの列島ニュースで大分の臼杵石仏公園に咲く蓮の花を見た。以前から臼杵の石仏を見に行きたいと思っていた。まだコロナ禍など全く知らなかった頃、臼杵のツアーを探したこともある。だが、これまで行く機会がなかった。昨日のニュースを見て行きたい気持ちが再燃する。個人で行くには何度か乗り換えがある。

 最近になって海外へ行かれない分、国内の個人で行かれそうな場所、それも花の時季に花を愛でに行く。これがいいと思うようになった。ニュースで見た行かれそうな場所と花の時季をメモしている。今は何かと行動を制限しているが、そのうち自由に行かれるようになると思って気長に待つ!?その間にも確実に歳を取っていく。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月11日月曜日

宮島

 広島の民放ローカル番組に「アインシュタインの出没ひな檀団」がある。この番組は2か月くらい前までは千鳥がMCだった。が、千鳥は名誉MCに。代わってアインシュタインがMCをつとめている。放送日に見られず昨日Tverで見る。今回は宮島でロケした番組だった。この後、テレビ欄を見るとNHKで宮島のにっぽん百低山を放送している。これはNHKプラスの生放送をパソコンで見た。同じ日に宮島をロケした番組を続けて見ると暑いにもかかわらず久々に宮島へ行きたくなる。また、広島人にとっては馴染み深い宮島なのに番組を通して初めて知ることも多かった。

 ひな壇団の方は宮島にある大聖院を主にロケしていた。大聖院で思い出す。会社に勤め始めたころ、仕事で知り合った人に大聖院に関係ある人がおられた。もう半世紀くらい前のことである。宮島に初もうでに出かけた。厳島神社参拝の後、大聖院に参った。お正月で混雑しているにもかかわらず御札を買おうとしたその時、社務所の人から声をかけられた。そして金の小判(もちろん本物の金ではない)を下さった。この小判、多分今でも家にあるはず。お正月早々、縁起がいいとの思い出がこの小判にはある。

 宮島へは子供のころから何度も出かけている。特に初もうではよく出かけた。また当時は泳げなかったにもかかわらず島の海水浴場へ行って海に浸かったこともあった。その頃から徐々に泳ぎたい気持ちが芽生えたのかもしれない。

 近年は春の桜と秋の紅葉を愛でに出かけている。そして宮島はアナゴ飯が名物。ひな壇団に出演のアインシュタインもアナゴ飯が美味しいと言って食べていた。このアナゴ飯、市内の三越でも売っている。いつ食べてもこのアナゴ飯は本当に美味しい。

 宮島は大鳥居が工事中で今はあの朱色の鳥居が見られない。年内には完成するとか。最近、宮島港のターミナルが新たになった。今はコロナ禍とこの暑さでいざ宮島へ、とはならない。が、世の中、少し落ち着きを取り戻したならば宮島へ行こう。弥山も長く登っていない。にっぽん百低山では吉田類と東ちづるが弥山に登っていた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月10日日曜日

バカな質問

 日本画教室で相変わらず樹木を描いている。前回は絵具の色を自分で決めて彩色した。今回、先生に相談すると「私の絵にしたいのか、風景写真の通りの色に仕上げたいのか、それによって絵の具の色が違う」と話される。その時、「私の絵、の私は先生それとも?」とバカなことを聞いた。先生曰く「私とは〇〇さんのこと」だと。それもそうだ、と我ながらそう聞いたことにあきれてしまう。

 絵を描いているのは自分である。写真通りの鮮やかな色に仕上げず、少し控えめな色で彩色してゆく。1枚の絵を仕上げるには自分だけでは手順が判らず、先生のアドバイスを受けている。自分としては何とか自分だけの力で絵が描けるようになるのが夢だが、目標までにはまだまだ時間がかかりそうだ。それでも習い始めの頃よりは少しずつ手順もわかってきた。どういってもこの秋が来れば絵を習い始めて丸9年になる。

 教室の人の絵を見ると花の絵を描く人が多い。それも細密画ともいえるような絵を描かれている。到底、自分ではまねができそうにない絵である。むし暑い日となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月9日土曜日

『街道をゆく』(三十八)「オホーツク街道」

  4年前の7月豪雨を忘れるな、と言わんばかりにまたも昨日、大雨が降った。少し雨も落ち着きそう、と思った頃に携帯の緊急エリアメールが入る。それもそれぞれ違うところから入る。メールが届いたころはすでに雨のピークは過ぎていた。が、それもあとになってわかること。JRはすべて止まり、通勤客や学生の帰る足がなく大変だったに違いない。

 以下は『街道をゆく』(三十八)「オホーツク街道」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九七年第5刷)から気になる箇所をメモする。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★越人というのは、古代では楚人が代表的存在である。春秋という遠いむかし、長江下流に呉(江蘇省蘇州)と越の国ができ、たがいに攻伐しあった。仲がわるいことを”呉越”というように、本来同民族のくせに仲間同士のけんかが好きなのである。この現象のことを、中国語では”械闘”という。いまでも、越南(ベトナム)や中国の難民が、香港や日本の一時収容所で集団で械闘しあっている。(12-13p)

★網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、今まで知られていた”歴史的日本人”とはちがうひとびとがすんでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。そのあたりに小地名がなかったので、付近の最寄村(もよろむら)から名をとり、「モヨロ遺跡」なづけた。発見したのは、大正二年(一九一三)九月で、この人の二十一歳のときである。(23p)

★オホーツク海岸の常呂(ところ)も、同様の意味で華麗だった。戦後樺太からひきあげてきた樺太アイヌの藤山ハルさんというすばらしい話し手(スピーカー)が住んでいるのを服部四郎博士が見つけ、村崎恭子氏とともに前記の『カラフトアイヌ語』を完成させた。その後、藤山ハルさんの死によって、樺太アイヌ語は死語になった。両氏はその寸前で人類の資産の一つをまもったことになる。(47p)

★オホーツクというのは元はロシア語ではなく、土地の原住民のことばであった。(55p)

★人間という動物は、衆を恃む。”大”に属する者は傲り、少数者をバカにする。たとえば、川に依存して、鮭や鱒を獲ってくらしているツングースの小さな”族”のことを、中国人は「魚皮韃子(ユイピイタイズ)」とよんでバカにした。かれらは古い時代、夏には鮭の皮でつくった衣服を着、鮭の皮の靴をはいていたのである。(57p)

★私は、唐詩のなかの于(う)武陵の詩を思いだした。花発(はなひら)ケバ風雨多シ、人生別離足(た)ル。「サヨナラダケガ人生ダ」という井伏鱒二の名訳をおもいつつ、アイ子さんの半生のためにある詩のように思えた。(184p)

★着物などの柄を”模様”とよぶのは古くからおこなわれてきたことばだが、しかし模様は”空模様”というように、大体の様子のことをいったり、あるいはしぐさや所作の意味にもつかわれる。つまり、多義すぎるため、明治後、紋の形や図象などにかぎって、文様あるいは紋様というようになった。(191p)

★紀元前三世紀に弥生式農業が入って、いまの日本語の先祖ができあがった。テニヲハいう膠でことばをくっつける構造(膠着語)は北方(韓国語、女真語、モンゴル語など)から借りたが、縄文以来の発音のくせ(母音の多さ)はいまにいたるまで残された。(203p)

★「野村学芸財団」は、作家の野村胡堂(一八ハ二~一九六三)の遺産でできあった財団である。銭形平次という人間の一典型をのこしたこの作家は、晩年、井深大という若い研究者が会社をつくろうとしているのを援助した。「ソニー」になって、当初、援助のつもりで買った株が大きな金になったため、遺族が財団をつくって、それをすべて寄付した、と私はきいている。(223-224p)

★「擦文(さつもん)」というのは北海道考古学の用語である。(259p)

★アイヌ思想の核は、自然を畏れることである。かつその恵みに感謝し、自然に対しておよそ傲(おご)ることがないから、山を砕いて大きな構造物をつくることがない。また採集生活だから大きな人口を結集するということもできなかった。(289p)

★樺太(サハリン)島とアジア大陸のあいだの海峡のことを、大きく呼称するときはタタール海峡(韃靼海峡)と言い、最狭部(わずか七キロばかり)のみを言うとき、間宮海峡という。のちにシーボルトがヨーロッパに報告したため、この名称が公認されたのである。もっとも旧ソ連は間宮海峡とよばず、ネヴェリスク海峡といっていたようだ。’339p)

★古典的中国は、黄金よりも玉を尊び、通貨としては銀を用いてきた。日本の場合、黄金についてははなはだおくてで、八世紀になって国内に金は出ないものかとさわいだのも、奈良の大仏に鍍金(めっき)をするためで、いわば金属として必要だっただけといえる。(373p)

★明治の厚司が、アイヌ語の日常着・晴れ着から出たことはいうまでもない。アイヌ語で、アットウシ(attus)というものである。それが厚司になったのは、アノラックが世界語になった事情とそっくりである。(448p)

2022年7月8日金曜日

「『終活』に励む人は今を生きる喜びを犠牲にしている」

 誰が言い始めたのだろうか、この頃になって「終活」という言葉を目にする。この言葉、本当に嫌いだ。そう思っていたらプレジデント・オンラインにこれに関する記事がある。哲学者の岸見一郎は「老後には備えないほうがいい。未来がある保証はどこにもなく、思った通りの死に方ができるとは限らない。『終活』に勤しむよりも、今できることに専念してその喜びを享受したほうがいい」という。

 若い頃、「自分が思い描いている人生になる」との思い込みがあった。そのため思い通りにならないことを悔やむこともあった。しかし、歳を経るにつれて「人生は思い通りに行かない」、との思いが実感として判りだす。何かコトが起きれば「できることをしていけば、人生は必ず変わっていきます」とあるように、ピンチの時はこれをチャンスに変えるようにした。
 
 20年前に会社をリストラされたときがまさにその時だった。同じ道を歩んではダメだと気づいて働くのをやめ、大学に入りなおした。働いて収入を得るのでなく大学に学費を払うという全く逆な経済だった。それでも学び直した6年間は働いて得る喜びよりもさらに大きな学ぶ喜びを味わえた。これは自分にとっては金銭よりも得がたいことである。

 以下は記事からの抜粋。

★そもそも長生きできるという保証はどこにもないのですから、100歳を前提に人生設計をすることは、私にはあまり意味があるとは思えません。

★老後に備えるために「今」生きることの喜びをふいにしては意味がない。

★「終活」に励む人は今を生きる喜びを犠牲にしている。
未来は「未だ来ていない」というより、「ない」のです。未来があるという保証はどこにもありません。少なくとも、自分が思い描いている人生になるという保証はまったくありません。そうであれば、徒にこれから起こることを恐れるよりも、今できることに専念する。これが「今を生きる」ということの意味です。

★何もしないより、できることをしていけば、人生は必ず変わっていきます。たとえ不幸な出来事に遭遇したとしても、悲しみにただうちひしがれているのでなく、悲しみを梃子(てこ)にして人生を生き抜く勇気を持つのと持たないのとでは、大きな違いがあります。

★未来がすべてわかっていたら生きる喜びはない。

★亡くなった人の人生をその最期だけで判断してはいけない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月7日木曜日

コスモス&ヒマワリ

 西日本豪雨から4年が過ぎた。区民文化センター内にある図書館へ行く。中へ入ろうとすると何か重々しい雰囲気だ。豪雨災害の慰霊祭が行われている。ネットを見るとあのスーパーボランティアの尾畠さんは被災地を訪れて小学校で子供たちにお話をされている。昨年も広島まで来られたらしく、今日は昨日訪れた町の隣町を訪問されるようだ。この報道、地元紙に掲載があるかどうか読んでいたがどうもないようだ。尾畠さんは名誉のためにボランティアに参加されていない。大々的に取り上げられない方がいいのかもしれない。

 狭い庭に種を撒いたコスモス20本とヒマワリ3本が1mくらいに大きくなった。コスモスは1本だけ蕾をつけている。ヒマワリは大きくはなったが花を咲かせるかどうかは疑問。昨日は束の間、雨らしい雨が降った。そのためかどの草花も生き生きしている。ピンクの花をつけたカラーは花の色が濃くなりしだいに凋んでゆくようだ。他にも蕾を、と思って毎日見ている。だが、それは蕾でなく葉っぱになってゆく。

 狭い庭に長年レモンを植えていた。伐採して花を植えると少しは庭らしくなった。ましてやこの春、種を撒いたコスモスとヒマワリは我が人生初の花たちである。家が建ってなくて庭だった小さい頃、母はいろんなものを植えていた。その中にコスモスもあった。花ではないがゴマやトウモロコシなども植えていた。果物では桃、イチジクなどの木もあった。どれもよく実っていた。コスモスはそんな思い出の一つである。今日も暑くなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月6日水曜日

「心臓が痛んでくるほどに、可愛くて美しすぎる景色」

 朝から岩国基地の飛行機だろうか轟音が響き渡る。これに対して新聞などへの投書はあっても誰も文句が言えない。これが悲しい。時間を経ても激しく轟音は続く。暑い上にこのうるささ。誰か何とかしてほしい。

 気を取り直そう。読み続けている司馬作品のうち、『街道をゆく』(三十一)の「愛蘭土紀行」(Ⅱ)に書き留めておきたいほど美しい文に出会った。

 ★美しい小川のほとりに出た。このあたりには冬も枯れることのない芝生が広がっていて、川岸には、芽ぶきはじめの冬枯れ木がガラス絵の中の景色のように天に突きあげている。ながめていると、心臓が痛んでくるほどに、可愛くて美しすぎる景色である。小川は四車線の道路ほどの幅で、水深は深く、水底はなめらかでない岩盤でできているらしく、このため瀬を早めて流れる川波が陽のなかでこまかくきらめいている。……思いなおすと、アイルランドには英国ふうの豪華な城郭、城館がすくなく、この程度の簡素な防御構造が多い。もしこれが城とすれば、小川は濠になる。胸壁はない。城であれ、単なる物見の塔であれ、小川と石橋と、塔とが構成しているうつくしさは、女性の魅力に対しているキュートというほかない。cuteかわいらしい、という意味に、もとの単語のacuteから想像すると、鋭角的、機敏という語感がくわわった言葉だろう。ついでだが、アイルランド娘は、アキュートもしくはキュートな子が多い。(146-147p)

 「心臓が痛んでくるほどに、可愛くて美しすぎる景色」をいつか自分自身も見に行きたい。というか同じ場所へ行けなくても、もしかしたら旅で見た様々な光景は心臓が傷んでくるほどの美しさであったかもしれない。そう考えると文章の表現如何で旅の醍醐味も変わるようだ。

 話はズレるが、『街道をゆく』のこれまで読んだどの紀行もそれぞれの地で出会った日本人や外国人の話題がある。有名無名にかかわらずどの人との出会いもほぼ名前が出てくる。現地の日本人はその地で研究や勉学に励んでいる人たちが多い。例えば現地のバス運転手さんであっても名前を出している。登場人物のいい面ばかりを羅列しているかのように悪くは書いていない。さらに外国人の登場人物であれば現地の人名辞典などを引いて人物の謂れをわかりやすく書いている。辞書でいえばこんな辞書があるというほどにいろんなジャンルの辞書を引いて解説している。もう、読みながら司馬遼太郎はどんな頭をされていたのだろう、と思ってしまう。調べに調べて多くの本ができていったにちがいない。

 雨が上がって蒸し暑くなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月5日火曜日

『街道をゆく』(三十三)「白河・会津のみち」

 台風の影響で梅雨に戻ったような蒸し暑さが続く。以下は『街道をゆく』(三十三)「白河・会津のみち」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第5刷)から気になる箇所を抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★源氏は馬、平氏は牛というイメージがあるが、その後も、箱根以西とくに近畿地方は上代以来農耕に牛をつかってきて、馬はいっさいつかわない。関東・東北は逆だった。牛はつかわず、農耕に馬をつかい、その馬は馬小屋をべつに設けず、一ツ棟のなかで飼っていた。(24p)

★戦国期・江戸期では、守(かみ)は単に栄爵の称号になった。たとえば尾張の織田信長ははじめ誤って織田上総守と称していたが。物知りがいて、――上総は親王任国ですから、上総守というのは存在しないのです。上総介(かづさのすけ)を称せられよ。と注意したらしい。以後、信長は織田上総介にあらためた。(27p)

★十六世紀末から百年ほどは、日本は世界有数の産金国だった。この金が魅力で、江戸期オランダ人が日本貿易に執着し、結果として持ちこまれたオランダの書物が、江戸期の科学と合理的主義思想をそだてた。くりかえすようだが、日本文化の最初の栄光である奈良・平安初期の文化が、奥州の金でささえられたことをわすれるべきではない。(103p)

★戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤(デストリビューター)としたから、明治後もまた東の時代といっていい。(108p)

★会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(かたもり 一八三五~九三)を起用して”京都守護職”にしたことである。……会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか。(210-211p)

★明治維新というのはあきらかに革命である。……会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命が形式として成就されなかったのである。会津人は、戊申の戦後、凄惨な運命をたどらされた。かれらは明治時代、とくに官界において差別された。……明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩(となみはん)とした。……あたらしい藩主の容大(かたはる)(移住のときは生後一年四カ月)。自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。(212-215p)

★文久年間の京洛騒然としていた時期、長州系の尊攘家たちが、”勅諚(ちょくじょう)”とか”勅旨”とかをもちまわっていたことはさきにふれた。それらは、尊攘の士が、過激派公卿と組んで勅と称して出したもので、筆者は久留米藩士でかつて水天宮の神官だった真木和泉(禁門の変で死亡)である場合が多かった。ところが制度上、天皇の手で制止することもできなかった。孝明天皇は、このことに悩み、武家ではただ一人容保を、わらをもつかむように信じた。孝明天皇は、二度、容保に内密の宸翰(天皇の書簡)をくだしているのである。……書状のなかで、天皇は、少しも漏洩無之様(ろうえいこれなきよう)……といったことばをつかい、守秘を要求というより、懇願しているのである。容保はこの守秘については、生涯をかけてまもりぬいた。……おそるべきことは、藩士にさえあかさなかったことである。……容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。……死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検(あらた)めてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって『京都守護職始末』に掲載するのである。(239-245p)

2022年7月4日月曜日

『老いのトリセツ』

  『老いのトリセツ』(石川恭三 河出書房新社、2019年)を読んだ。どんなに立派な人であっても「運動音痴」の人がいる。そう知って自分だけではなかった、と変に納得してしまう。以下は、そのくだりである。

 「私は運動音痴を絵に描いたような無用な人間であることもあって、健康のためにと、ジョギング、縄跳び、フィットネスバイク、ダンベルを使っての筋トレなどを始めても、いつも三日坊主で終わっていた。ところがひょんなことから、自宅近くのスポーツジムでエアロビをするようになってからは、これがどういうわけか私には向いていたようで、五年ほど前までのおよそ二十五年近くも続いたのである。八十歳を越してからは、さすがにエアロビは少しきつくなったので、水泳に切り替え、これを今も続けている。こんなことぐらい、とくに自慢するほどのことでもないのは承知しているが、運動音痴の私が何はともあれ、こんなにも長く続いているということが、私には自慢の大きな種になっているのである」。(131p)

 運動音痴が水泳を続け、これが自慢の大きな種になっているそうだ。まさにこの言葉は自分自身にもあてはまる。運動音痴は劣等感の塊となって育っていく。走れば遅いし、自転車には乗れないし、ましてや泳ぎは……。大人になるまで地元に屋内プールはなかった。そのため同級生の中には運動選手であっても泳げない人がいるかもしれない。

 大人になった時、ふと自転車に乗りたい、と思うようになった。乗れないのに新たな自転車を買って我流で練習していたが一向に乗れない。その時、まだ小さかった姪たちが練習する姿を見て自転車の後ろをもって動かしてくれた。なんと前に動いた。それがきっかけで乗れるようになった。友だちに自転車に乗れるようになったと話すと会員制のジムへ誘われる。仕事終わりに新幹線構内にあるジムへ強引に誘われて一緒に行くようになった。これがきっかけで人生初の気合を入れてジムに通った。屋内プールが目的である。恥を忍んで友だちが言うままに犬かきから練習開始。通い始めてだいぶ経ってやっとプールで浮くようになった。

 友だちはクロールでなく顔をプールにつけないで平泳ぎで泳ぐ。ところが自分は顔を水につけないと浮かばない。我流で顔を水につけてクロールをやっていると前に進むようになった。この時の喜びはいつまで経っても決して忘れない。会う人会う人に泳げるようになった、と話した。聞く側にとっては頭がおかしいのでは、と思われたかもしれない。それくらい嬉しかった。

 それから10数年過ぎて50歳になった。区内に初の屋内プールができた。そこで10回のスイミングスクール生募集との広報紙を見る。勇気を出して申し込んだ。何ごとも先生について習うと習得も早い。10回のコ-スでクロールと背泳ぎが泳げるようになった。それも25mである。もう嬉しくて……。今思い出しても嬉しい思い出だ。10回コースが終わると当時の先生に誘われて大半が日本一周泳ぐ会に入った。50歳を超えてるとはいえ今よりもやはり若かった。土曜日の夜、スポーツセンターまでJRに乗って通った。

 しだいに長い距離も泳げるようになった。1キロを目途に泳いだ。これはコロナ禍まで続けた。そんな矢先のコロナ。人生の楽しみを奪ったコロナ。

 そういえばスポーツセンターへ自転車で行っていたこともある。往復1時間半、行きかえりを自転車に乗って行き、プールで泳いだ。自転車に乗るのが嬉しくてプール以外にも市内のあちこちへ乗って出かけたものである。思えばその頃の元気が今に続いているようだ。病気知らずになった。この本を読んで改めて水泳にのぼせていた頃を懐かしむ。以下はこの本からメモしたもの。なお、水泳はコロナで中断しているがそれでも30数年以上泳いでいる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★今、読んでいるのは司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』(全十巻・文春文庫)である。この本を最初に読んだのは三十年以上も前のことで今度が二度目になる。……この本は史実に基づいて丁寧に描かれている部分も多く、史的興味をそそられる面が多々あるのだが、その反面、エンターテイメント的な要素が乏しく、愚豪な私には読み進めていくのにかなりの努力が必要になってくる。しかも、一行四十三文字、一ページが二十行と小さな文字がびっしりと詰まっている文庫本であり、老眼にはかなり難物の読み物である。(31-32p)

★もうそんなに多くの時間が残されていない今こそ、どうにもならないことにくよくよしないで、なりゆきにまかせて、とにもかくにも、、明るく楽しく、振る舞うことだと自分に言い聞かせている。(52p)

★私は孤独の入口のすぐ近くか、それよりちょっと奥に入ったところまでしか行かないことにしている。私は臆病者なので、それより奥へ行くと、もう戻ってこられなくなるかもしれないという不安にかられるのである。それでも浅い孤独に身を置くことは好きで、とくに高齢になってからは、気軽に孤独な時間の中で独り遊びをすることにしている。そんな独り遊びでは、ときどく昔の思い出の中に入り込んで、その当時のいろいろな状況下の自分のすぐそばにいるような気持で、しばし回想の時間を過ごすのである。孤独と上手く付き合うのも高齢者の才覚の一つである。(120p)

2022年7月3日日曜日

炎天の下

 台風が来ている影響なのか今日は最高気温29度と昨日と比べて気温は低い。とはいえ蒸し暑さは半端ない。この炎天下でもプロと名がつけば野球の試合をやっている。屋外の試合だが観客はマスクを外せない。息苦しさと暑さで観戦する方も大変だ。

 昨日は日本画教室の日。炎天の下、この夏はじめてスカートで出かける。教室に着くと「スカート?」と先生に笑われる。年中、ズボンで通しているので不思議がられても仕方がない。この暑さの中、教室の人はテニスをしたという。その旦那さん曰く、「馬鹿じゃない?」と。確かに炎天下のテニスはご本人も「馬鹿です」と、これまた皆の笑いを誘う。

 街中ではプール開きの報道がある。屋外プールであっても水に浸かるのは涼しい。ああ、泳ぎに行きたい。気持ちは昂じるが何やかやと理由をつけては泳いでいない。もしも、泳げばいろんな鬱憤はすぐに吹っ飛ぶこと間違いない。それでもコロナじゃ、暑いじゃ、と言っては泳ぎに行かない。

 新たな絵を描き始めた。教室の皆は作品展の小品展示コーナーに展示する作品を描いている。小品の展示には参加しないのでもっぱらF6のパネルに絵を描く。信州に出かけた際に写した戸隠高原への道を絵にしている。写真を拡大コピーして机に置いていると若い人もこの写真を気に入ってくれる。その人もこの頃は樹木の絵をよく描いている。

 この季節に出かけた気がする信州。もう一度行ってみたい。が、今はどこへも行かずにおとなしくする日々。いつか爆発する!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月2日土曜日

朝から暑い!

 大手旅行社2社から旅のカタログが届く。うち1社は海外旅行としてカナダの旅のチラシがある。最近、国が海外からのツアー客を制限付きの人数で認めた。この逆のパターで国内から海外へと旅行客を増やすのかもしれない。本来ならば、「いざ、海外へ」となるところだ。が、この暑さと最近のコロナ感染者の増加傾向で海外どころか国内であっても行く気がしない。いろんな条件を無理して受け入れて旅行したとしても決して旅は面白くないだろう。

 コロナという言葉さえも知らず安心して海外や国内に出かけていたことがまるで夢のようだ。あの楽しかったころを思うと「どうかお願い、コロナよおとなしくなれ!」と願わずにはおれない。

 遊びも安心が伴わなければ冒険になる。たとえ無理して遊んだとしても決して楽しく遊べないに違いない。

 日本画教室の人が街中に住んでいる。「流川の夜の人出?」と聞いたことがある。今朝の地元紙を見ると2次会で流川辺りに出る人は少ないようだ。コロナ禍になって、また自分自身も歳を取って夜に街中へ出かけるのはやめようと決めた。音楽会も夜に出かけなくても……と思った。おのずと街中へ出る機会が減っている。その分、日中は行動的に、と思うがこれまた暑いじゃどうじゃと言っては我が身を甘えさせる。

 今日は日本画教室の日。新たな絵に取り掛かる。家で描かない分、せめて教室では真面目にと思うがそれもさてさて……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年7月1日金曜日

あっという間の20年

 連日の暑さで体がふやけそうになる。今日の予想最高気温は35度。県北は街中よりも気温が高く36度超えとか。県北部は市内よりも涼しいイメージがあった。が、この頃はそうともいえないようだ。35,6度が高いと思っていたら群馬や埼玉は40度超え、とのニュースが入る。これは人の体温を上回っている。世の中、いくら文明が発達しても自然の脅威には逆らえないということ!?

 いくら暑くても午前中に運動不足を補うために買い物に行く。手には日傘をさしてナップサックを背中に負って歩く。が、マスクはせずにスーパーなどの屋内に入る時につけている。スーパーを出るとすぐにマスクを外す。それでも暑くてたまらない。いくら暑くても一日に一度は外に出る。家に帰ると汗びっしょり。汗をかくのも運動になるようなのでこれはこれでいいのかもしれない。

 7月になった。今月の20日がくるとリストラで会社を辞めて丸20年になる。20年のうちの前半は親の介護と自分自身のことで忙しい日々だったが人生で一番充実していた。その後半は自分だけのことで時間を費やしている。人生50年時代は昔の事で今や人生100年の時代。20年はあっという間に過ぎてしまった。今の年を考えれば100年もあっという間かもしれない。とはいえ元気でなければ100歳まで生きられるかどうかは怪しい。

 幸い今のところは元気なのでやりたいことは自分さえその気になれば何でもできる。今はコロナ禍で旅行や水泳にブレーキをかけている。が、その分、本を読む時間に費やす。視力が悪い割にはいくら本を読んでも疲れない。これは救われる。昨日、石川恭三の『老いのトリセツ』を読んでいると司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(全十巻・文春文庫)を30数年ぶりに読み返していると書いている。他にも水泳の話題など興味あることが書いてある。どちらも自分自身が興味を持つので司馬作品の合間に読むこのようなエッセイは気分転換になる。と同時に、同じようなことに関心がある人がいると思うと親しみが増してくる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!