2022年7月5日火曜日

『街道をゆく』(三十三)「白河・会津のみち」

 台風の影響で梅雨に戻ったような蒸し暑さが続く。以下は『街道をゆく』(三十三)「白河・会津のみち」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第5刷)から気になる箇所を抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★源氏は馬、平氏は牛というイメージがあるが、その後も、箱根以西とくに近畿地方は上代以来農耕に牛をつかってきて、馬はいっさいつかわない。関東・東北は逆だった。牛はつかわず、農耕に馬をつかい、その馬は馬小屋をべつに設けず、一ツ棟のなかで飼っていた。(24p)

★戦国期・江戸期では、守(かみ)は単に栄爵の称号になった。たとえば尾張の織田信長ははじめ誤って織田上総守と称していたが。物知りがいて、――上総は親王任国ですから、上総守というのは存在しないのです。上総介(かづさのすけ)を称せられよ。と注意したらしい。以後、信長は織田上総介にあらためた。(27p)

★十六世紀末から百年ほどは、日本は世界有数の産金国だった。この金が魅力で、江戸期オランダ人が日本貿易に執着し、結果として持ちこまれたオランダの書物が、江戸期の科学と合理的主義思想をそだてた。くりかえすようだが、日本文化の最初の栄光である奈良・平安初期の文化が、奥州の金でささえられたことをわすれるべきではない。(103p)

★戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤(デストリビューター)としたから、明治後もまた東の時代といっていい。(108p)

★会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(かたもり 一八三五~九三)を起用して”京都守護職”にしたことである。……会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか。(210-211p)

★明治維新というのはあきらかに革命である。……会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命が形式として成就されなかったのである。会津人は、戊申の戦後、凄惨な運命をたどらされた。かれらは明治時代、とくに官界において差別された。……明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩(となみはん)とした。……あたらしい藩主の容大(かたはる)(移住のときは生後一年四カ月)。自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。(212-215p)

★文久年間の京洛騒然としていた時期、長州系の尊攘家たちが、”勅諚(ちょくじょう)”とか”勅旨”とかをもちまわっていたことはさきにふれた。それらは、尊攘の士が、過激派公卿と組んで勅と称して出したもので、筆者は久留米藩士でかつて水天宮の神官だった真木和泉(禁門の変で死亡)である場合が多かった。ところが制度上、天皇の手で制止することもできなかった。孝明天皇は、このことに悩み、武家ではただ一人容保を、わらをもつかむように信じた。孝明天皇は、二度、容保に内密の宸翰(天皇の書簡)をくだしているのである。……書状のなかで、天皇は、少しも漏洩無之様(ろうえいこれなきよう)……といったことばをつかい、守秘を要求というより、懇願しているのである。容保はこの守秘については、生涯をかけてまもりぬいた。……おそるべきことは、藩士にさえあかさなかったことである。……容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。……死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検(あらた)めてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって『京都守護職始末』に掲載するのである。(239-245p)

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