やっと梅雨が明けた、という感じの清々しい朝を迎える。肌にまとわりつく風もひんやりとし、気分まで晴れ晴れとする。
相変わらず司馬作品を読んでいる。机上にはパソコンと電子辞書、そして姪から贈られた『司馬遼太郎全仕事』を置いている。司馬作品を読み終えるとそれをこの本でチェックする。『街道をゆく夜話』(司馬遼太郎 朝日新聞出版、2016年第7刷)は『街道をゆく』で歩いて見えたエッセイや評論の断片をまとめたものである。司馬作品はどれを読んでも目からうろこが落ちるようで新鮮このうえない。知らなかったことばかりだ、と読みながらいつもそう感じる。
生きている間に全作品読破、という大きな夢がある。この夢、このままの調子だと実現しそうだ。いつまでも元気で司馬作品を読んでいたい。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下はいつものように気になる箇所を抜粋したもの。
★江戸期の知識人のヒューマニズムを知ろうと思ったら、松浦武四郎を知れば何となくわかってくる。キリスト教によらないヒューマニズムです。(13p)
★徳阿弥という者がいる。名の下に阿弥とつくのは、「時宗」という当時の新興宗教の信者である証拠である。(56p)
★源氏にあらためるについては証拠がなければならず、その証拠を作るについては遠祖徳阿弥の寝物語が生きてきたのである。「わが遠祖は、上州利根川ぞいの徳川村に住んでいた新田源氏の族である」ということになり、姓も徳川とあらため、これ以後、家康は正式に署名するときは「源朝臣家康」と書くようになる。家康は、関ヶ原での一戦で天下をとった。このときこの「源氏」が生きてきた。なぜならば藤原氏や平氏では朝廷の慣例により征夷大将軍の官はくだせられない。征夷大将軍は源頼朝の先例以来、源氏にかぎられており、この征夷大将軍がもらえないければ「幕府」というものがひらけないのである(平氏であった信長は平氏であるがために幕府をひらくことができずやむなく公卿になって天下を統一しようとし、そのあとの秀吉は豊臣氏であったために同様のことになり、やむなく公卿の最高職の関白になって天下をひきいる名目を得た)。(60-61p)
★グワッシュの風景画(99p)
★私は大和の長谷寺や当麻寺がなぜ牡丹の名所なのかよくわからなかった。奈良県のひとびとはいまでも花見は桜でなく、牡丹であり、牡丹の花のそばにむしろを敷いて酒を飲み、唱をうたったりするのである。長じてからこの風が唐の長安のものであったことに気づいた。……その型を、奈良朝のころ、遣唐使船でもどってきたひとびとが、大和に移植したにちがいない。(177p)
★天孫族である天穂日命は。出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代打者という立場で出雲における占領政治を正当化した。奇形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主になった。いわば、旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。今の出雲大社の宮司家であり、国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。天皇家と和ならんで、日本最古の家系であり、また天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽の奸賊といえども、この家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。その理由は明らかである。この二つの家系が、説話上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰とする日本的シャーマニズムに温存され。「第二次出雲王朝」は、二十世紀のこんにちまで生存をつづけてきた。(270-271p)
★人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎での思索だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかわって居た――あるいは現在もいる――山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。……樹上の森青蛙は白い泡状の卵塊から下の水中に落ちて成体になるのだが、ひとびとの空想も、家居しているときは泡状の巣の中にあり、旅に出るということは、空想が音をなてて水の中に落ちることにちがいない。私にとって『街道をゆく』とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近頃になってわかってきた。(367-368p)
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