ロシアがソ連の時代、2度ほどソ連に出かけている。1度目はモスクワやレニングラード(今のサンクトペテルブルグ)などで2度目はソ連領シルクロードのサマルカンドやヒワなどである。いずれも名古屋空港からのチャーター機でハバロフスクまで行き、そこから乗り換えて行った。
最近、家に積読していた司馬作品を読んでいる。その中に『ロシアについて』(司馬遼太郎 文藝春秋、1989年第1刷)がある。今年になってロシアはウクライナに侵攻した。嫌なことは見ざる・聞かざる・言わざる状態が体にいいとわかっているのでロシアとウクライナの戦争を報道するメディアに深入りしないようにしている。が、手もとにこの本があるので読んだ。
以下に気になる箇所を拾い上げたがその最初と最後にメモした箇所が今回の紛争にも関係あると思われる。
この本が書かれた時代、まさに自分自身もソ連に出かけている。海外への行き始めは中国語を習っていた関係で中国だった。何度目かの中国旅行ののち、ソ連へ出かけている。中国とソ連と聞けばまるで「お前は共産主義者か」と言われそうだが、まったくもってその逆の民主主義者である。当時、ソ連入国時は柵で仕切られたカウンターに各自通されて入国審査が始まる。最初は何が起こった、と言わんばかりの怖さがあった。また、ソ連国内の移動の飛行機はまるで戦闘機を思わせるように人が座らなければドミノ倒しのように座席が倒れて平たくなる。
ただ、軍事国家なので「飛行機の操縦は上手い」との声が誰からとなく聞こえてきて安心した。今になってなぜソ連へ行こうとしたのかを考える。当時、広島ではアジア大会が行われる前であり、各国の言葉を国際会議場で教えていた。その時、ロシア語の教室に通ったことが影響している。その教室で初めてロシア人に会った。そのロシア人は日本人と結婚されていた。が、しばらくしてロシアへ帰国後、交通事故で亡くなられた。たった、半年間のロシア語教室だったが「これは何?」などの簡単なことは覚えた。それを使うべくソ連に行って話していたらロシア語ができると思われたらしく戸惑った記憶がある。いろんな国へ出かけたがその中でもソ連の旅は印象深い。そういえばレニングラードの旅で「武器庫」を見学した。が、武器庫なることばはそれまで聞いたことがなかったので初めてそれを聞いて強烈な印象を抱いたことを思いだす。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は本からの抜粋。
★九世紀になってやっとウクライナのキエフの地に、ロシア人の国家(キエフ国家)ができたということは。ごく小さな規模とはいえ、ロシア史を見る上で、重要なことだと思います。……九世紀に樹てられるキエフ国家の場合も、ロシア人が自前でつくったのではなく、他から国家をつくる能力のある者たちがやってきたのです。やってきたのは、海賊を稼業としていたスウェーデン人たちでした。かれらは海から川をさかのぼって内陸に入り、先住していたスラヴ農民を支配して国をつくったといわれています。(17p)
★ロシアはシベリア開発のために、日本から食料を得たいのである。そのために、日本を研究し。漂流民を優遇し、そのすえに日本政府と正規の国交をもつことを願った。この望みは、じつに執拗だった。シベリアを中心に、その枝葉としてのカムチャッカや千島列島の一部などにおけるロシアの開発(結局は毛皮獲りだが)にともなうロシアの国家意志こそ、江戸期日本にとって一種の対露恐怖(正体さだかならぬ物怪に対するような)をうけつづけた本体であったといえる。(46p)
★伝兵衛に日本語学校をひらかせたのも、コズイリョフスキーという乱暴者に千島列島の探検をさせたのも、ロシアの中軸部が日本というにわかに知った一文明圏への関心の為であった。当時の日本への関心の中心は、清国に対すると同様、領土にはなく、シベリアの産物を日本に売り、日本から食料を買い、シベリア開発を容易なものにしたいというところにあった(このことは、いまも一貫してつづいている。シベリアが存在するかぎり、この関心はたえることなくつづいていくにちがいない)。(80-81p)
★ペリーはもともと恫喝と威嚇こそ東洋人相手には有効だと認識し、その方針でやってきて終始つらぬいた。ペリーは成功したが、品性のわるさを歴史に記録させた。かれは下僚からも好かれていなかったし、むしろ憎悪され、軽蔑されていた。晩年、娘がユダヤ系の富豪の家に嫁いだが、かれもその家で養われ、客があると執事として食事を運んだりした。傲岸と卑屈は、しばしば紙の表裏であるという一例になる。(168p)
★私は日本が大した国であってほしい。北方四島の返還については、日本の外務省が外交レベルでもって、相手国(ソ連)に対し、たとえ沈黙で応酬されつづけても、それを放棄したわけではないという意思表示を恒常的にくりかえすべきだと思っている。……ロシア史においては、多民族の領土をとった場合、病的なほどの執拗さでこれを保持してきたことを見ることができる。……日本が、政府主導による国民運動などをしているぶんには、彼の国は、日本はそれを流血でもってとりかえすつもりかなどということを、ある種の政治的感情でもって考えかねない体質をもっている。(246p)
★私はただ、歴史という大きなワクのなかで、日本とのかかわりにおけるロシアをみたかっただけである。その関係史を煮つめることによって、ロシア像をとりだしてみたかったのである。(あとがき 251p)
★国家は、国家間のなかでたがいに無害でなければならない。またただのひとびとに対しても、有害であってはならない。すくなくとも国々がそのただ一つの目的にむかう以外、国家に未来はない。ひとびとはいつまでも国家神話にたいしてばかでいるはずがないのである。……世界制覇などというのは歴史の虚妄であって、存在したことがない。存在したものは、その帝国が制覇の形態を示したとたんに自壊していった歴史だけである。また平和という高貴でかつ平凡なことばは、そのうえではじめて使えるもので、他国に対して心理的にも軍事的にもおぼえを感じさせている状態のなかで発すべき性質のものではない。(あとがき 258p)
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