梅雨のような鬱陶しい日々が続いている。マンネリ気味な毎日に新たな風を入れようと試みるが気持ちはあっても行動に移せずにいる。そんな日々に口ずさむ歌は相変わらず「ケ・セラ・セラ」「その名はフジヤマ」「黒い瞳のNatalie」「夜来香」などである。一度、その国の原語で歌を覚えると、それがたとえ老後になって覚えた歌であっても忘れないと気づく。というか、毎日口ずさんでいるために忘れないのかもしれない。
そして毎日といえばこれまたフルートで気に入った「アルビノーニのアダージョ」を吹いている。この曲は哀愁ある曲なのでそろそろ他の曲を、と思うが相変わらずこの曲を吹いている。
さらにはこれまた飽きもせず司馬作品を読みふける。テレビの「街道をゆく」の番組が放送なくなって『街道をゆく』を読むのを一旦やめた。今は昔、買って積読になっていた司馬遼太郎の『ある運命について』を読んでいる。これはいわゆる小説の類ではなく随筆になる。司馬の歴史小説の中ではも奥様の名はでてこない。が、『街道をゆく』や今読んでいる類の本にはしばしば奥様のことが書いてある。他にも登場人物といえば有名無名にかかわらず興味惹かれる人たちも多い。
昨日読んだうちの「山姥の家――人間を私有すること」はある銀行員の奥様が山姥のようになっていく過程を書いている。まるでポツンと一軒家のように山を切り開いて自分一人の力で家を建て山姥として生きて行く。夫と別れてからの山姥生活を本人は「蛮人」と名乗る。生まれた子供たちは結核で亡くなり、夫と死別して以降に年老いて生まれた男児が成長して結婚すると蛮人であっても息子を私有物のように扱ってゆく。これは司馬遼太郎の周辺にいる人たちのうちの一人で「身辺風土」の中に書いている。山姥は息子の結婚を機に山を下りて生まれて初めての賃金生活に入る。
★「やまのくらしが、こいしいです」という意味のハガキも来た。……それを読むと、私は息子の私有論も若集宿の議論もなにもかも自分の頭の中から灰のようにふっとんでしまい、彼女の悲しみが体中の毛穴からしみこんでくるようで、気持ちのやり場がなくなってしまうのである。(『ある運命について』「山姥の家――人間を私有すること」「司馬良太郎 中央公論社、昭和63年第3刷 256p)
蛮人は司馬宅に泊まりに来るほどの間柄だったようだ。いつこの蛮人とどのようにして知り合ったかは書かれていない。が、もっとこの人について知りたいと思った。身辺風土には他にも行きつけの飲み屋で知り合った人などの話もある。一見普通のサラリーマンなのにただ一つ譲れないものとしてこの男性は富士山を愛する。それも誰よりも富士山に多く登る。この話も面白かった。
こういう類の本を読むとさらに司馬作品が面白くなる。マンネリ生活にわざわざ風穴を開けなくても、今のままでも十分風通しはいいかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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