2022年7月9日土曜日

『街道をゆく』(三十八)「オホーツク街道」

  4年前の7月豪雨を忘れるな、と言わんばかりにまたも昨日、大雨が降った。少し雨も落ち着きそう、と思った頃に携帯の緊急エリアメールが入る。それもそれぞれ違うところから入る。メールが届いたころはすでに雨のピークは過ぎていた。が、それもあとになってわかること。JRはすべて止まり、通勤客や学生の帰る足がなく大変だったに違いない。

 以下は『街道をゆく』(三十八)「オホーツク街道」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九七年第5刷)から気になる箇所をメモする。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★越人というのは、古代では楚人が代表的存在である。春秋という遠いむかし、長江下流に呉(江蘇省蘇州)と越の国ができ、たがいに攻伐しあった。仲がわるいことを”呉越”というように、本来同民族のくせに仲間同士のけんかが好きなのである。この現象のことを、中国語では”械闘”という。いまでも、越南(ベトナム)や中国の難民が、香港や日本の一時収容所で集団で械闘しあっている。(12-13p)

★網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、今まで知られていた”歴史的日本人”とはちがうひとびとがすんでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。そのあたりに小地名がなかったので、付近の最寄村(もよろむら)から名をとり、「モヨロ遺跡」なづけた。発見したのは、大正二年(一九一三)九月で、この人の二十一歳のときである。(23p)

★オホーツク海岸の常呂(ところ)も、同様の意味で華麗だった。戦後樺太からひきあげてきた樺太アイヌの藤山ハルさんというすばらしい話し手(スピーカー)が住んでいるのを服部四郎博士が見つけ、村崎恭子氏とともに前記の『カラフトアイヌ語』を完成させた。その後、藤山ハルさんの死によって、樺太アイヌ語は死語になった。両氏はその寸前で人類の資産の一つをまもったことになる。(47p)

★オホーツクというのは元はロシア語ではなく、土地の原住民のことばであった。(55p)

★人間という動物は、衆を恃む。”大”に属する者は傲り、少数者をバカにする。たとえば、川に依存して、鮭や鱒を獲ってくらしているツングースの小さな”族”のことを、中国人は「魚皮韃子(ユイピイタイズ)」とよんでバカにした。かれらは古い時代、夏には鮭の皮でつくった衣服を着、鮭の皮の靴をはいていたのである。(57p)

★私は、唐詩のなかの于(う)武陵の詩を思いだした。花発(はなひら)ケバ風雨多シ、人生別離足(た)ル。「サヨナラダケガ人生ダ」という井伏鱒二の名訳をおもいつつ、アイ子さんの半生のためにある詩のように思えた。(184p)

★着物などの柄を”模様”とよぶのは古くからおこなわれてきたことばだが、しかし模様は”空模様”というように、大体の様子のことをいったり、あるいはしぐさや所作の意味にもつかわれる。つまり、多義すぎるため、明治後、紋の形や図象などにかぎって、文様あるいは紋様というようになった。(191p)

★紀元前三世紀に弥生式農業が入って、いまの日本語の先祖ができあがった。テニヲハいう膠でことばをくっつける構造(膠着語)は北方(韓国語、女真語、モンゴル語など)から借りたが、縄文以来の発音のくせ(母音の多さ)はいまにいたるまで残された。(203p)

★「野村学芸財団」は、作家の野村胡堂(一八ハ二~一九六三)の遺産でできあった財団である。銭形平次という人間の一典型をのこしたこの作家は、晩年、井深大という若い研究者が会社をつくろうとしているのを援助した。「ソニー」になって、当初、援助のつもりで買った株が大きな金になったため、遺族が財団をつくって、それをすべて寄付した、と私はきいている。(223-224p)

★「擦文(さつもん)」というのは北海道考古学の用語である。(259p)

★アイヌ思想の核は、自然を畏れることである。かつその恵みに感謝し、自然に対しておよそ傲(おご)ることがないから、山を砕いて大きな構造物をつくることがない。また採集生活だから大きな人口を結集するということもできなかった。(289p)

★樺太(サハリン)島とアジア大陸のあいだの海峡のことを、大きく呼称するときはタタール海峡(韃靼海峡)と言い、最狭部(わずか七キロばかり)のみを言うとき、間宮海峡という。のちにシーボルトがヨーロッパに報告したため、この名称が公認されたのである。もっとも旧ソ連は間宮海峡とよばず、ネヴェリスク海峡といっていたようだ。’339p)

★古典的中国は、黄金よりも玉を尊び、通貨としては銀を用いてきた。日本の場合、黄金についてははなはだおくてで、八世紀になって国内に金は出ないものかとさわいだのも、奈良の大仏に鍍金(めっき)をするためで、いわば金属として必要だっただけといえる。(373p)

★明治の厚司が、アイヌ語の日常着・晴れ着から出たことはいうまでもない。アイヌ語で、アットウシ(attus)というものである。それが厚司になったのは、アノラックが世界語になった事情とそっくりである。(448p)

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