2022年7月18日月曜日

『故郷』

 今日は母の月命日。昨日、涼しい時間を見計らって一日早いお墓参りをする。墓地までの石段の入口に剪定業者2人が座って休憩されている。見知らぬ人たちだが道を開けてとも言えずしばし立ち話をする。道にはクレーン車が止まっていて車に業者名が書いてある。遠いところから来られていた。剪定場所は個人の墓地内に植えてある松の木だ。墓の主の家の庭にも何十本もの松が植えてある。この業者がどちらも剪定しているという。

 お墓も家もいずれも他では見かけないほどの大きさで松の木も天にまで届くほど大きい。墓参りの後、振り向くとクレーン車の上に座って剪定されている。この高さは何mあるのかわからないがそれにしても1本2本の松でなく相当数の松である。(この金額は?)と要らぬことを考えながら家に向かう。

 図書館で予約した魯迅の文庫本を借りる。『阿Q正伝』とともに収められた『故郷』を読もうとした。『故郷』は高校の教科書に収められているとか。この中に「僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど、地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると道ができるのだ」(魯迅 藤井省三訳 光文社、2014年第5刷 68-69p)とある。
 
 この原文をネットで調べると「希望本无所谓有,也无所谓无,这就像地上的路,其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」とある。が、ネットの訳は「希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。それは地上の道のようなものである。実際、地上にはもともと道はなく、歩く人が多くなれば、それが道となるのだ」とある。

 ネットの原文は本で確認していない。またネットの訳は藤井省三ではないようだ。魯迅は書いている。「僕はあの二人が二度と僕のように苦しみのあまりのたうちまわって生きることを望まないし、彼らが閏土(ルントウ)のように苦しみのあまり無感覚になって生きることを望まず、そして彼らがほかの人のように苦しみのあまり身勝手に生きることも望まない。彼らは新しい人生を生きるべきだ、僕らが味わったことのない人生を」(68p)。

 魯迅の生きた時代も今の世の中も、というか、いつの世であっても希望なくして人は生きては行けない。気づけば凶悪な事件が発生し、わけのわからない侵略や目には見えないウイルスが人々の不安を煽っている。たとえどんな時代であっても決して絶望することなく希望をもって自分の人生を歩む!?希望を持つ大切さを教えてくれる。
  
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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