2022年7月19日火曜日

『街道をゆく』(十二)「十津川街道」

 梅雨が舞い戻った感じで連日、大雨が降る。昨夜から今日にかけて市内の大半の区で大雨警報発令中。今のところ住んでいる区では大雨注意報で警報ではない。だが、外は日中なのに暗く雨はやみそうにない。こんな日は家でおとなしく本を読む、と言いたいところだが、落ち着いて本を読む気にならない。雨が気になる。

 以下はだいぶ前に読んだ『街道をゆく』(十二)「十津川街道」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九八年第9刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★右傾化が最高潮に達したのは昭和十五年で、その前年にノモンハン戦闘でソ連軍から世界史上類がないと思われるほどの敗北を喫した軍部が、言論界を巻きこんでこの翌年に、国家と人民を太平洋戦争という業火のなかにたたきこもうとしていた年である。この昭和十五年が、皇紀二千六百年になる。皇紀などという珍妙なものを公式に制定したのは、民族主義が昂揚、もしくは昂揚させざるをえなかった明治初年のことで、太政官は『日本書紀』の紀年法を採用し、西暦から六六〇年古くして神武天皇の即位の年とした。(54p)

★神武紀元はウソだという津田左右吉の学問は、当時の内務省の大小の役人の知識のなかにはなかったらしく、二千六百年の紀元節である二月十一日が近づいてからそのことに気づき、あわてて一月十三日、岩波書店に対し、津田左右吉の著作を内務省に持って来させ、その翌日、発禁にしている。戦後、津田史学は復権した。建国の「基礎」に大ウソが入ると、それが是正されるために何百万という血が流されねばならないということになる。十年前(昭和四十二年)に紀元節が復活して建国記念日とされた。国とひとをこけにするのも、ほどほどにしなければならない。(55-56p)

★修験者は、自分たちが行場をひらいた山を、おもおもしく「岳」とよぶところがあったから、あるいはこの乗鞍岳にも古くは行場があったのかもしれない。(65p)

★十津川郷民を苗族になぞらえるのは唐突すぎるが、しかし日本の歴史のなかで、低地の政治に対し関心をもちつづけた唯一の山郷といえるし、さらには低地の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷といえるのではないか。壬申の乱で天武天皇に接触し、大坂の陣で徳川家康に接触するのは、山民たちがかれらを好きだったということではないであろう。一貫して自分たちを伝統のままに置き捨てておいてもらいたいといことであり、ひいては十津川の伝統的な堵を守り、それに安んじていたいための保証のとりつけであったといっていい。「安堵」という。中世の日本人にとってもっとも重要な法律用語のひとつであった。(146-147p)

★孝明天皇は、毒殺されたという。……攘夷と尊王が結びついて倒幕のための激しい合唱言葉になったが、孝明天皇がそのあらたな時勢の段階で不調和になってしまったことは、この人自身が天皇主義者でなかったことであった。……孝明天皇は発病後、二週間ほどのわずらいで十二月二十五日になくなった。『中山忠能日記』では、病気は天然痘ということになっている。(205-207p)

★十津川高校の校庭を横切って民俗資料館へゆく途中、文武館という館名の血なまぐささを思った。十津川郷の人びとにとって単に門番をしていただけの門の内側で、幕府と薩摩のありったけの政略が渦巻き、結局薩摩が勝ち、あらたに幼帝をかついで明治をおこした。その天皇制の醒惨な害が太平洋戦争の敗戦までつづくのだが、敗戦後に出来たこの高校には、幸い文武館という冠称がとれてしまっている。(208^209p)

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