2020年5月30日土曜日

写真の整理

 1人10万円の特別定額給付金申請書が届いた。だが、マスクは届かない。
 写真の整理をしている。海外旅行など行先別の写真でなく、種々雑多な写真の整理である。アルバムから写真を取り外す作業は簡単であっても何十冊かその倍以上もあるとすぐにはできない。時に手を止めて写真に見入る。どこで写したのか全く分からない写真もある。すべてともいえるほど写真の撮影日や撮影場所を記していない。山などであれば山頂の〇〇山山頂といった風に目印となるものがある。これだとどこの写真かわかりやすい。

 山でいえばハイキングクラブに入っていた時に出かけた山歩きの写真が何枚かある。県北の吾妻山へも行っていた。また八幡湿原にある尾崎谷湿原の写真もある。これらの写真を見なければ自分がそこへ行ったことも思い出さずにいた。人に誘われれば山に行っていたのか、いろんな関係の人と出かけている。今はもう付き合いのない人が大半だ。

 中国語を習った初期のころの写真もある。市の催しで1982年に初めて中国語講座を受講した。当時は戦時中、中国に住んでいた人や中国と仕事で関係ある人たちの受講者が大半だった。その中に中国とは何のかかわりもない私ともう1人の女性がいた。仕事帰りを職場とは逆方向にある教室まで通った。その時の講師は大学の中国語の教師と国費の中国留学生だった。今は誰でも留学生名目で日本にやってくるが当時の広島大学の中国国費留学生は1年に8人しか来なかった。優秀な人たちで留学生から聞く中国の話は興味津々だった。何も訳が分からず、いざ日本語を中国語に、と言われても全く意味が解らなかった。

 そんな状態のまま中国語講座を受講。若かった友だちはその後結婚。子供さんも生まれて、留学生と一緒に家に遊びに出かけていた。写真を見るとお雛様が飾ってあり、私の膝に友だちの長女が座っている。家に遊びに出かけたことは覚えていた。だが、膝の上で遊ぶ子供と一緒に写っていた、とは驚き。それから10数年後(会社リタイア1年後)、写真に写った友だちの長女と社会人大学生となって同じ学部学科で学ぶようになるとは……。入学式でその親娘と会った時、写真のことは覚えていなくて「子供のころ一緒に写真に写ったね」とは言えなかった。

 まだほかにも思い出す。その頃から海外へ出かけるようになった。旅先で知り合った人と帰国後も頻繁に会っている。今はこの世の人でなくなった人も多い。昨日は阿蘇山に連れて行ってもらって馬に乗った数枚の写真を見つける。大きく伸ばしてもらった写真を見ると今と比べると当然、若い。当たり前ことだが楽しそうに生き生きとして写っている。阿蘇だけでなくいろんな人といろんな場所で再会している。もう2度と会えない人たちが大半になった。

 話を戻して、ほかにも中国語関係の人の写真を見ると講座の忘年会の写真がある。隣席に座っている人は3,4年前、国内のツアーに出かけた際の添乗員だ。ツアーで再会して以降、その人と会うことがある。昨夜、その人にいつの時代にどの講師と一緒に中国語を習っていたかをメールで知らせる。と同時に次回会う時、写真を持参する旨、報告した。

 今から30数年前の写真はハイキング仲間や中国語講座で知り合った人たち、海外旅行で知り合った人たちが多い。その大半は連絡も途切れている。その中でも数人とは今も連絡がある。2000年代に入るとその2年後に会社を早期リタイアして自分の人生はこの時点で様変わりする。だが、それも2011年に母がいなくなると新たな人生になった感じで今に至る。

 写真整理で別の面から思い出す。それは海水浴と自転車。自転車に乗り始めたころ、自転車に乗って方々に出かけて写っている。れんげ畑のそばを通り抜けたり、奈良や萩の町も自転車で観光している。今思い出しても大人になって、それも30代半ばで自転車に乗れるようになったことは自分のなかの革命に思える。そして海で水着で写った写真。自転車に乗るようになっても水泳はまだまだ時間がかかった。それなのに海に行くのが好きだった。水着の写真もあった。これは自分のなかでは貴重な1枚。

 今、写真をアルバムから外している。外した写真のうち、3分の1くらいは処分する。あと10年後、残した写真をさらに1割くらいだけ残す予定、ということで今はその通過点。ちょっぴり過去を懐かしむ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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