5月というのに昨日は全国的に気温が上がる。北海道の佐呂間町では39度5分を観測したそうだ。広島は30度くらいだった。ただ、夕方の部屋の湿度は31%。これまでいくら低くても37,8%だった。もしかして20%台になる?と思って見ていたがそこまでには至らない。というか、電波時計の湿度表示なのでもしかすると表示に限界があるのかもしれない。ともあれ、毎日のようにあちこちで地震が起きる。いつ何が起きてもあわてないようにとは思うが、それにしても怖ろしい世の中になりつつある。
先日読み終えた『竜馬がゆく』(8)(司馬遼太郎 文藝春秋、新装版第26刷)。8巻の終わりに「あとがき集」がある。この「あとがき集」も興味あることがらが多い。これはまたの機会にアップしよう。それにしても5月25日に竜馬学会を開催する意味がこの8巻をアップする時点でわかる。それは昭和三年五月二十七日に竜馬の銅像の除幕式が海軍の駆逐艦浜風を伴って行われた。この日に近い日を選んで竜馬学会が開催されるのかもしれない。また後で確認しよう。(数年分を確認すると27日に近い土曜日に開催されている)。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『竜馬がゆく』(8)からの抜粋。
★サトウは、裁判のために長崎滞在中、領事フラワーズの官舎にとまっていた。この歴史の取材者は驚くべき人物に遭った。
桂小五郎である。
この長州藩の大立者は、むろん公然と長崎にあらわれたのではない。風雲の動きを長崎で探知するため、薩摩人と称し、伊藤俊輔をつれてあらわれた。その主な目的は竜馬に会い、大政奉還案が武力討幕の思想をふくむのかふくまぬのかを聞きただすためであった。231p
★「アメリカでは大統領が下女の給料の心配をするという。三百年、徳川幕府はそういうことをしたか。この一事だけでも幕府は倒さねばならない」といった。この言葉が土佐に伝わって勤王派の人々をふるい立たせた。土佐系の勤王運動が、薩長両藩のそれよりも人民救済のにおいがつよく、やがてその伝統が明治後の自由民権運動になってゆくのだが、その基礎的な思想は竜馬のこの言葉に要約されるであろう。236p
★のち、この浜に竜馬の像が立つ。「スエズ以来の最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動がおこされた。当時早稲田大学の学生だった入交好保氏、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、朝田盛の諸氏である。彼らは全国の青年組織からわずかずつの寄付をあつめ、途中、岩崎弥太郎がおこした岩崎男爵家から五千円の寄付申し出があったが、零細な寄付をあつめてつくるという建前から、かれらはこれをことわり、ついに資金を作り、彫刻家本山白雲氏に制作を依頼した。
銅像は昭和三年の春にできた。その台座の背面に建設者の名を刻むのが普通だが、かれらはいっさい名を出さず、
「高知県青年建立」
とのみ刻んだ。五月二十七日の除幕式の日、当時の日本海軍は駆逐艦浜風を桂浜に派遣し、その礼砲とともに幕を切りおとした。
が、このときの竜馬は、まさか自分がこの浜で銅像になって残るとはゆめにも思わなかったであろう。250p
★日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。
いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でただ二人の同志であった。慶喜はこのとき、坂本竜馬という草莽の士の名も知らなかったであろう。竜馬も慶喜の顔を知らない。323p
★竜馬は薩長連合を遂げ、大政奉還を演じ、いま新官制案をつくった。当然、革命政府の主流の座にすわるべき存在である。
であるのに竜馬はこれをかぎりに身をひく、という。すべてを岩倉・西郷・大久保の流れに譲りつくしてしまうというのである。
……
竜馬はこの間の自分の心境を、
「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」といった。331p
★竜馬はやおら身を起こした。この先が、陸奥が終生わすれえぬせりふになった。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」
陸奥がのちのちまで人に語ったところによると、このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のように思われた、という。
さすがの西郷もこれには二の句もなかった。横の小松帯刀は、竜馬の顔を食い入るように見つめている。
古来、革命の功労者で新国家の元勲にならなかった者はいないであろう。それが常例であるのに竜馬はみずから避けた。342-343p
★「第一義」と竜馬は書き、その下に「天下有名の人材を招致し顧問に供なう」ともしるした。……
「なるほど、これは煌くような文字じゃ」
岩倉は感に耐えたように言い、この二通の書類を手文庫に入れた。のち、この竜馬の案がほとんどそのままの形で新政府樹立の基礎方針になっている。351-352p
★「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」、と竜馬はその語録を手帳に書きとめ、自戒の言葉ににしている。
「世に生を得るは、事をなすにあり」
と、竜馬は人生の意義をそのように截断しきっていた。361-362p
★風は去った。
去ってみると、うそのような静けさ月が天心にある。
しかし三岡の体にえたいの知れぬ戦慄だけが残った。そのつぎの瞬間、三岡は叫んだ。……すべてが、なかった。紙入れも、あれほど大切にしていた竜馬の写真もない
。……それから二日後、竜馬が中岡慎太郎とともに京の宿で死んだ旨の報が、三岡のもとに入った。あの夜、ほぼ同時刻に、竜馬の霊は天に駆け上ったのである。379-380p
★人は死ぬ。竜馬も死ななければならない。……筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件というものを考えたかった。それを坂本竜馬という、田舎生まれの、地位も学問もなく、ただ一片の志をのみをもっていた若者にもとめた。……竜馬は暗殺された。383p
★「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
それが、竜馬の最後のことばになった。……
天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき、惜しげもなく天へ召しかえした。……時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。391p-392p
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