2019年5月25日土曜日

広響第390回定演&徹子の部屋

 昨夜は第390回広響定演を聞きに行く。家を出ると近所の人によく出会う。しばらく立ち話の後、自宅最寄りのJR駅まで急ぐ。演奏会場までは広島駅からバスで行く。JR利用者にとってはバスのノロノロ運転がよくない。演奏後、またもバスで広島駅まで帰る。横に座った人に「ホールが広島駅周辺ならば……」と話す。

 広島駅周辺は2022年、郵便局も建て替わって高層のオフィスビルになる。また駅そのものも建て替わる。駅裏周辺も医療ビルやテレビ局までが移転した。その一角でいいから音楽専用ホールを作って欲しい。それでなくても広島は文化面で岡山におくれを取っている、といわれる。

 さきのバスの中での続き。話しかけた人の返事が「長生きしてこの目で新たになる駅前を見たいものです」。こちらは音楽ホールを駅周辺に、と言ったつもりだったが……。何もかも歳を取ったせいにしたくない。だが、演奏会は昼間がいい。この頃はなるべく夜にでかけないようにしている。それでなくても視力が良くない。ましてや昼間の自由時間はたっぷりとある。

 今朝地元の新聞記事を見るといい演奏会の割には聴衆が少ない。これも多分に超高齢化社会の中、夜の演奏会や会場に問題があるのでは、と勝手に想像する。ぶつぶつ言っても始まらない、がもっと文化面で広島を勢いづかせてもいいのでは!?

 なお、演奏曲目は下記のとおり。

♩ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調

 1曲は4楽章からなり、75分間と長い演奏だった。壮大なスケールの曲で聞きごたえは十分ある。席は12列の右端。いい席だった。ただ、管楽器を誰が吹いているか顔が見えず、少々残念。休憩を挟む演奏ならば演奏後半、空いた席に移動するのに……。それにしてもわがまま放題に書いている。

 気分を変えて昨日の徹子の部屋。ゲストは市毛良枝。優しい人だ。母親の介護を13年間したという。黒柳徹子が、亡くなった直後のバタバタした話を、と市毛に迫ると葬儀社とのことだった。それは兎も角として市毛は亡くなった母親の人生は幸せだったのだろうか、と話す場面がある。これには同じような気持ちを母に抱いたことがある。市毛の親は100歳近くになって車いすに乗って海外旅行をしたそうだ。我が家は父が亡くなって以降、母の青春が始まった。海外は嫌だというので国内旅行は何度となく出かけた。この面では市毛と同じく、母にとって良かったと思っている。ほぼ最期までわが家で過ごした母は、ある面、幸せだったかもしれない。介護していた時から最期まで見てあげる、と覚悟していた。ある時、妹は私だけの親でなく自分の親でもある、と訴えたことがある。そうか、大阪の豊中市に暮らす妹も親を介護したいんだ、と家に来てもらうときは料理など家事一切、妹に頼んだことを思い出す。また妹に頼むとき、旅費を多めに渡すとお金儲けに来ていない、と言って妹は多くを受け取らなかった。

 世間では介護でもめる家もあるとか。我が家はそれとは無縁だった。どういっても自分の親。老いていくのは愛おしすぎる。自分もこうやって老いるんだと学ばせてもらった。これも自分の親だからこそ、かもしれない。

 後で幸せな人生だったと言えるように毎日を悔いなく楽しく生きたい。市毛もそんな風に話していた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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