2017年10月5日木曜日

『タイを知るための72章第2版』その2

  修了した大学から『史〇研究』が送られる。なかを見ると「重要なお知らせ」とあり、発行号数を現在の年4号から3号に削減する提案がなされる。その理由として昨今の大学等の研究機関におけるベテラン・中堅層の多忙と論文・学会動向・書評等の投稿が近年激減していることによるとか。どういっても大学とのパイプはこの研究会が主であり、号数が減るのは仕方ない!?

 大学に通っていた当時は母の介護をしながらだった。研究会から時間があれば書評などの添削・編集を手伝ってほしいと諭された。ところが、物理的にも時間に余裕がなく泣く泣く断りを言った経緯がある。それくらい、本の出版は大変なことだということをよく知っている。ともあれ、研究雑誌は継続される。これに携わる人々の善意を無駄にしないためにもこの研究誌を読もう!

 暇さえあれば、先日のタイの旅の記録を書いている。先日読んだ『タイを知るための72章第2版』(綾部真雄編著 明石書店、2014年)からまた気になる個所をメモしよう。

★18世紀末から復興した「タイ人」国家シャムの中心はトンブリー、バンコクへと移動した。地図上で見ると、単線的王朝史観の中心は北から南へと向かって移るのがわかる。そして、各時代の中心であるスコータイ、アユタヤー、バンコクの三つの都(「三都」)は、いずれもタイの中心部を貫流するチャオプラヤー川の流路沿いに位置している。23p

★国王のイメージにも、都市部と農村部ではかなりの違いがある。農村部の住民は国王に対して強い尊敬と感謝の念を抱いていると、バンコクの中間層や上層は考え、それが彼らにとって一種の精神安定剤のような役割を果たしてきた。しかし、近年、国王の権威は農村部で大きく揺らいでいる。国王は、頻繁に農村を訪問し、農民の生活向上のために尽力しているとテレビやラジオを使って盛んに喧伝されてきたが、国王が訪問した村は、タイ全体のごく一部でしかなく、また1980年代後半以降は、王室関連のプロジェクトが行われているごく少数の村以外はほとんど訪問しなくなっていること、人口雨プロジェクトをはじめ、政府機関がその効果を喧伝している王室プロジェクトは、農民層全体の所得向上にはあまり効果をあげていないことを、農民たちは自らの経験からよく知っている。貧しい人たちからも敬愛されている国王というイメージは、農村よりもむしろ都市部で信じ込まれたイメージである。40-41p

★1973年に誕生し、92年に増幅されていた国民の民主的な父というイメージは音を立てて崩れた。王室は民主化ではなく、反民主化の象徴となってしまった。このことがインターネットの普及とも相まって多くの人々を王室批判にかき立て、政府に不敬罪摘発を強いている。こうした事態を打開するため、王室奉戴を前面に出して2006年クーデタを行ったのと同じ派閥の軍首脳が、14年は王室との関係を極力伏せて、クーデタを再び決行した。民主的な父というイメージの回復につながるかどうかは予断を許さない。45p

★英仏が次々と近隣諸国を植民地化していくなかで、タイは独立を守ることができた。それは一般には、英仏が対立するなかタイが英仏にとっての緩衝国として機能したからであるとされる。緩衝国とは、対立する国家の間にあり衝突を和らげる役目を果たす国である。周辺国の様子を冷静に見極める姿勢は、タイの外交に歴史的にみられる特徴である。62p

★国家が宗教を行政資源として活用している状況は、広い意味での政教分離の理念、つまり、政治(世俗国家)と宗教(宗教集団)の支配領域において相互不介入を維持するという考えに即しているとは言い難いようにも見える。憲法上でも、国王は宗教の志向の擁護者となっており、さらに宗教は国民が擁護すべき価値や義務と見なされ、国家がそれを支えることになる。しかし、タイ社会に政教分離の意識が全くないというわけではない。出家者の選挙権行使の禁止など、近代西洋の政教分離原則とはいささか異なった切り口での分離も行われている。タイ社会の宗教を理解するためには、国家制度上の宗教なるものの意味合いや政教関係を踏まえておく必要があるだろう。139p

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