夕方、予約した本を受け取りに図書館へ行く。途中、踏切で列車の通過を待っていると小学生の女子2人に「こんにちは」と挨拶される。話をすると一日に5回挨拶をするように学校で教えられているという。5回とは先生、家族、友だち同士、出合う人々などらしい。5年生と3年生の女児は学年は違っても家が近いらしく登下校は一緒にするという。
見知らぬものに挨拶する賢い女児たち。それに反して、千葉の事件は児童たちの保護者会会長が亡くなった女児の犯人だ。見知らぬ人に声をかけられたら注意するように、どころか子どもたちのお世話をするトップが犯人とは驚いてしまう。ほんまに世の中狂っている!
図書館で借りたのは先日新聞記事で知った笹部新太郎という桜男に関する本。白洲正子は笹部について『ものを創る』(読売新聞社 昭和48年)の中で書いている。この本、昭和48年の出版というから西暦では1973年にあたる。個人的には1982年から西暦でないとモノゴトが素早く把握できない。1973年は昭和が分かりやすい。それにしても今から40数年前の本なので一般の書架でなく書庫に収められている。本独特の湿気た臭いを嗅ぎながら関係ある個所だけを読む。
笹部新太郎は『桜男行状』という本を書いている。しかしこの本は手に入らず、読むことができない。白洲の本でその一部を知る。大阪の大地主の子として誕生後、成長するにつれ桜に魅せられる。白洲が笹部の自宅を訪ねたときはすでに大阪の屋敷を手放していた。阪神間に住んでいた別荘風の住居を白洲は没落した、と表現する。とはいっても大家であり、老人には格好の隠居所に思えたそうだ。奥さんもいなくなり独り住まいだった。
笹部は白洲に話す。「桜ほど文化の為につくしたものはない。日本の文化は桜がこさえたといってもいいのです。先ず、第一が、版木でしょう。文字がなかったら文化なんてものはあり得ない。…月刊とか、週刊とか、刊行物のあの刊の字、どう意味かご存知ですか。あれは、削って、手を加えるとという意味のものです。版に上すことを、上梓とか、梨棗ともいうが、それは支那から来た名称で日本の国学者は、『桜木に上梓』という。版木に桜の材を使ったからです。その他、双六の盤、鼓の胴、いい表具屋の定規は、みんな桜です。表は桜、裏は紅葉で、今でいうベニヤ板ですが、これが一篭狂いが来ない。干菓子の型も桜だし、箱だの煙草入れだの、細工物を数えあげたらきりはない。美術品の紋様や、着物の柄だってそうでしょう。すべての生活に亙って、そんなにお蔭をこうむっているというのに、日本人にはすこしも感謝の心がない。先年、わたしが吉野に桜の碑を建てたのも、実はそういう気持ちからなんです」。66p
笹部は「桜を植える時、一本一本自分の墓と思って植えている」という。それを記念碑として残しておいたのだろうと白洲は言う。白洲は笹部と会った最後に「桜の寿命は四、五十年と言いますが、稀には千何百年という名木もある、これはどういうことでしょうか」と問う。笹部は「そうですね。桜の成長は、ほぼ五十年でぴったり止まってしまう。それから先は、自力で生きるのです」。これを聞いて白洲は「人間も同じということか」、と感想を述べる。66p
先日の新聞で書いてあった箇所は文の最後にあった。「でも白洲さん、桜は花ばかり見るものではありませんよ」。69p
いろいろ桜について知るとこれから先、何年いや何回桜が見られるかわからないが少しは桜を愛でる気持ちも今よりは増すかもしれない。
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