2014年11月22日土曜日

『毒唇主義』

雨上がりの朝、窓からの日差しは暖かそう。お天気が良いとプールの中も人が多い。先週と比べて昨日の午後がそうだった。

プールは水中歩行、泳ぎ専用、浅いプールの3コースがある。スポーツセンターの屋内プールと比べると広さは半分以下と狭い。だが、それも慣れてくると窮屈さは感じない。ましてやその町の住人でなく外部のモノ。自転車に乗っていける距離にある。これは便利でありがたい!

このプールに出かけて半年。だいぶ顔なじみもできてきた。しかし、余計なことはしゃべらないようにして黙々と泳ぐ。滞在時間はちょうど1時間。週に一度のこの時間が本格的に体を動かす瞬間。

水泳を習い始めたころ、背泳ぎで泳ぐと途中で泳ぎをやめられなかった。どうやってプールに足をつけるかバタバタする。それを見た人が体を抱えてくれて無事泳ぎをやめる。手を水でかいて水の中で立ち上がる。これができなかった。今では背泳はクロールよりも楽に泳げる。

自転車でわが家に向かう途中、先日来から見ている皇帝ダリア。咲いている4軒目の家を見つける。今年まで全く気付かなかった皇帝ダリア。あまりの背の高さで歩いているときは見過ごしていたのかもしれない。それにしても今年はよく目にする。

話は変わって以前読んだ『毒唇主義』(内館牧子 潮出版社、2014年)。

著者である内館は以前、横綱審議委員に就任していた。これほどの人だから大相撲の「土俵」に関しても「女を土俵にあげないという学問的見解」を持っている。

「私は土俵の女人禁制を『男女差別』とは考えていない。」という点にも表れる。

これを著者は大学院に入学して研究。この底辺には「男だけ、女だけの祭祀や伝統ががあっていい。自国の独自な文化を『グローバルスタンダード』に合わせようとする発想そのものが、浅知恵もいいところだ。だが、政治家や行政の長のように力のある人間が煽れば、世論はそちらに傾きかねない。これは土俵だけの問題ではなく、日本文化全般に関わる危惧である。」と述べて「世論がそちらに傾いた時、学問的裏付けで反論できるようにと研究した。

土俵を「結界された区域」と著者は考える。「結界」とは「一定の区域を囲うこと」である。そして囲いの中を「聖域」とし、囲いの外を「俗域」にすることが多いらしい。そこで土俵は俵を使って結界された「聖域」と考えられるという。

これは大相撲の土俵に限らず建築物の前にちょこっと置かれた小道具も「ここから先は聖域です」と暗示している。

例えば注連縄、扇子、青竹、石、幔幕など日本には数えきれないほどあるらしい。これは「装置的結界」とか。ところが、万里の長城や西欧の城壁は「建築的結界」というらしい。こういった建築物は簡単には動かせない。

そして日本人は装置的結界である、すぐに動かせる小石などの小道具は「触れてはいけない禁忌タブー」を示す印であることを約束事として理解していたという。

だから「女は土俵にあがれない」。

何でもかんでも男女共同参画社会というグローバルスタンダードは内館の言葉を借りると「非常に危機感を抱いている」。これもわかる気がする。(125P-129Pから引用)

大相撲といえば今真っ盛り。明日は千秋楽。

著者の「結界」というキーワード。この本で初めて知る。書名の通り毒唇の感は否めない。だが、言っていることに同感。特に「何でもかんでも男女共同参画社会というグローバルスタンダード」。外で働いてきたから言っている意味はよくわかる。言うのは簡単。だが、これはなかなか難しい問題を孕んでいる。

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