2013年6月14日金曜日

『玄侑宗久の生きる力』

今朝の地元紙によると13日未明、岡山と広島は今年初めて最低気温が25度以上を超える「熱帯夜」とある。今朝は暑すぎて早く目が覚める。現在の部屋の気温は窓を開けていても28度3分、湿度60%。今日も一日暑くなるのだろう。

昨日も暑い一日だった。午後にはエアコンなしでは何をしようと思っても暑くてたまらない。エアコンをつけて本を読んだりフルートを吹いて過ごす。

夕方からスペイン語の講座へ出かける。昨夜、先生は名簿を見て指名されるとき「〇〇さんはいない・・・」と小さい声でつぶやき、他の人を指名される。先生の前から2列目に座っていても教室での存在は薄い!?

途中質問するといることに気付かれ、「すみませんでした!」。これを聞いて笑うに笑えない。

授業の始まる前、後に座っている人と話をすると、近いうちメキシコへ出かけるという。どうも旦那さんの転勤に付き添うようで3年間の滞在らしい。そのためにスペイン語を習っているのだろう。

その点、暇つぶしに習うモノとは大分差がある。教室で知り合った隣の席の人は今からすぐにでもフラメンコが踊れるような恰好をしている。そう話すと、着ている服も暑さ対策のためのようだった。

今夜はお互いの都合がつかず会わずにいたわかちゃんと久しぶりの夕食会。美味しいものを食べてビールを飲んで暑さを吹き飛ばそう!

図書館で借りた『玄侑宗久の生きる力』(六耀社 2012年)を読んだ。本の裏表紙には「ソリストとは― 時流や流行にとらわれず、自分の信じる道を進み、一つのスタイルを築き上げた人。信念ある行動でまわりの人を巻き込み、一つの大きなムーブメントをつくり出した人。」とある。これはたぶんこの本の「ソリストの思考術」編纂委員会のことばだろう。シリーズとなっており、さまざまな人が出版している。

筆者は作家であり、僧侶である玄侑宗久。本の構成の半分は自身のこれまでの歩みから僧侶と作家の二足の草鞋を履くまでの葛藤を述べ、後半はその経験から生きる力の源を禅の教えを通して述べている。だが、二足の草鞋を履いている著者であってもすべてを二元論に分ける必要はないという。

「そもそも、世の事象の多くはきっちり二つに分けられるものではなく、矛盾に満ち満ちている。矛盾や混沌をそのまま受け入れるのが人生であり、そこから生きるための大きなエネルギーが生まれる。禅ではそんな風に考える。」17P

またいつものように気に留めるところをメモしよう。

「仏教では、どんな状況にあっても変わらない真理など認めていない。自分というものも、状況の中で絶えず形を変えるもの、ゆらぐものだと、とらえている。」23p

「今起こっていることは未知であり、それを既知のもので処理しようとしても、まったくの的ハズレである。基本的な指針はあってもかまわないが、何か事に当たったら、そこでゆらいで改めて重心を探さなくては、今を生きることにはならない。だから仏教では物事を絶対化せず、ゆらぎを繰り返すことを『風流』として讃えている。」25p

「心の活発さを重視する禅にとって『風流』つまり『揺らぎ』こそが新しい心の発生源である。そうなると、非日常でこそ人は最もゆらぐことにも気づく。死も病気も怪我も歯痛も、それによって普段の人柄がゆらぐなら、風流でめでたいことなのだ。」26p

「掃除三昧、洗濯三昧、読書三昧、温泉三昧、運動三昧、いや、それどころか焼肉三昧だって日本語としてはおかしくない。無心になって没頭できればすべてが『三昧』になり、たとえ長時間の座禅を組まなくても、『ディアーナ』の状態になれるというわけだ。」50p

「禅の基本的な立場は『過去のことは思わない。先のことは憂えない』で、この状態が『遊』。つまり先を予測せず、三昧になって今を遊ぶのが最高の境地である。」60p

「わからないことをあれこれ想定するのは、人間が持つ際限のない欲望だと理解し、分からないまま無心に、今を生きる覚悟を持たなくてはいけない。予断を持たず、言葉で考えず、今を楽しむ。そうすればきっと、『いま』から十分なご褒美がいただけるはずである。」116p

「何か新しいことを一つ始めて、それに三昧になって習慣化すればいい。すると、自分の全体は自然に変わっていく。」123p

「造作もなく平常な、最も尊ぶべき人間の在り方が『無事是貴人』である。」131p

「日常生活で起こる嫌な出来事も方便としてとらえる。」162p

「物事が何の問題もなく進んでいるときと、思いがけないことが起こったとき、どっちがわくわくするだろうか。・・・生身の私がどうゆらぐかだけが問題で、そこには論理やマニュアルは必要なく『予断を捨ててその瞬間を体験できるか』どうかが重要である。気持ちよくゆらぐことができれば、それが本当の『生きる力』ではないだろうか。」166p

「日本人にとっての『仕合せ』は、目標を達成したところに『仕合せ』があるかというと、達成しとたん、それは逃げ水のように逃げてしまう。・・・日本人にとっての『仕合せ』は目標を達成したところではなく、そこに至る過程にある。状況や人に合わせ、当初の予定と違ってゆらいでいるときに最も『仕合せ』を感じるのが日本人なのだ。」169p

「過ぎたことは忘れ、これからは先祖が持っていた柔軟なアレンジ力を取り戻し、いろんな状況に『仕合せ』ながら、日本人らしく気持ちよく『ゆらいで』いきたいものだ。」181p

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