2012年3月31日土曜日

『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』

『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子 中央公論新社、2011年)を読んだ。

「満州国」最後の皇帝である愛新覚羅溥儀。その弟の溥傑とその妻、嵯峨浩。浩は「流転の王妃」といわれる。その2人の間に次女として生まれた愛新覚羅嫮生(こせい)。その人こそが「流転の子」。この本は満州国に翻弄された愛新覚羅一家のドキュメンタリーである。

読み進むうち、中国と日本という関係のなかでも「周恩来」の動きが重要な関わりを示していると気づく。周の発言がそのまま「流転の子」の人生を動かしている。それは悪い意味ではなく、周の人間性をあらわしていた。

30年前、中国語を習い始める。その当時、習っているグループで人気があった中国の政治家は周恩来だった。しかし、政治的なことに興味はなかった。それでも初めて中国語を習って中国人留学生を知って以来、中国に関することに関心を抱くようになった。

2人目に知った留学生の龔(きょう、中国読みGong)さんのアパートへ習っている同学の人と遊びに行った。そのとき皆で食事を作る。この部屋で一番驚いたことがある。古いアパートの部屋。その部屋の天井を見上げると真っ白い紙を天井一面に貼っている。「なぜ?」と聞くと部屋が暗いので紙を貼って明るくするのだという。そんな会話の中、TVでは「浩」の訃報を放映していた。今でもはっきりとその光景を覚えている。

この本の年表を見ると1987年6月に北京で亡くなっている。中国語を習い始めて5年後のこと。当時の留学生は中国政府からの国費留学生であり、地元の国立大学でも本当に少なかった。しかし優秀な人たちだった。中国政府からの給付金は月額8万円。そのころ、この金額で生活がよくできると思ったことも覚えている。

当時、家では何もせず独身貴族を謳歌していた。そしてその前年から中国へ4度続けて行っている。一番中国にのぼせていた時代でもある。

この本は吸い込まれるようにして読む。だがなんといっても500頁ほどもある長編作。途中、完全に自分一人の世界に没頭してしまうほどだった。

周恩来とのかかわりは本の3分の1くらいから出てくる。「流転の子」である愛新覚羅嫮生(こせい)は父である溥傑と満州国崩壊後、中国と日本で離れ離れになる。そのとき溥傑には娘が2人いた。長女、慧生は「懸命に勉強した中国語で、中国の最高権力者の一人である周恩来総理に、生死さえわからぬ父との文通許可を願う直訴状を密かに出していた」。(181p)

これがきっかけとなり、周恩来は日本人戦犯起訴で「この日本人は今は戦犯だが、二〇年たったら友人になる。日中友好を考える友人になる。」として戦犯判決について細かい指示を出した。(193p)

この指示後、1年経った1956年日本政府も「もはや戦後ではない」と記して撫順と太源の日本人戦犯帰還者第一陣335名が舞鶴港に入国した。戦後11年が経過していた。(185p)

父との文通のきっかけを作った愛新覚羅慧生はそれがプラスのエネルギーとならず負のエネルギーを背負った。その翌年1957年学習院大学の恋人と天城山山中で心中。それは書簡集『我御身を愛す』になる。(221p)

1959年中華人民共和国10周年の祝賀行事で溥儀は特赦される。しかし弟である溥傑は日本人と結婚している。離婚を迫られるもしないままで・・・。そのとき周恩来は妻である浩を日本から呼び寄せ中国で暮らすようにさせる(229p)。

周恩来は溥傑に書かせた手紙を訪日団に持たせる。受け取った浩は「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。『鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随う』と申します。私は必ず中国に帰らなければなりません」。浩は読みながら涙を浮かべていたという。(231p)

こうして溥傑、浩、嫮生の3人は北京で暮らすようになる。しかし、嫮生は姉の慧生ほどの性格ではなくどうしても満州族の血をと考えなかった。そして母、浩と関係ある人からの結婚話で福永健治に嫁ぐ。

「中国で一族の末裔として生きる道ではなく、『普通に平凡に生きる幸せ』を求め、嫮生は日本に戻っていった」。(251p)

このときも周総理は自由往来の証として「国務院総理周恩来」とだけ書かれた名刺を届けた。今でもその名刺を大事にしているという。(250p)

溥傑夫妻は幸せに満ちた生活を送っていた矢先、文化大革命の嵐が襲う。そのとき嫮生は日本を選んだことの幸せを思う。

「文化大革命のとき、周総理の庇護がなければ、叔父や父がどのようになっていたか、と考えますと恐ろしゅうございます」と嫮生はその頃のことを述べている。この叔父とは溥儀、父とは溥傑。(277p)

両親の亡くなった後の「流転の子」嫮生は「父と母とには両親が周総理から託された使命である、日中友好のために各地を回り、これまでお会いした方々との親交を温め、両国の親善に努めること。また、中国で日本の皇室とのつながりを持っておりますのは父だけでございましたから、周総理は、父と母を通して皇室との関係をつないで行くことを強く望んでおられました」と述べている.。(310p)

その周総理も1976年1月逝去。母浩も1987年逝去。その後、1994年溥傑逝去、夫健治も2008年亡くなる。一人残った嫮生は一戸建て住宅を売り払いマンションに移る。そして今、戦争を知らない子供たちとの対話講演を高校や中学で続けている。そしてその講演料などはユニセフなどに全額寄付しているという。そして最後に「嫮生はモノに執着しない生き方を父の言葉を借りて語った」。(413p)

嫮生には現在5人の子供がいる。そのうち1人は現在、東京大学で学びつつ愛新覚羅一族について研究している。

本のブログ投稿は時間がかかる。今朝は嵐のように風が吹き荒れ雨も・・・。その中、この本につけた付箋の箇所のコピーを取る。そして、そのコピーを見ながらブログに投稿。

また今日は1982年に初めて中国語を習ったときの友だちからプレゼントが届く。中国語を習い始めたころのことを書いたばかり。その偶然性に驚くばかり。これについては明日のブログに投稿しよう!

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