2023年9月24日日曜日

『王城の護衛者』

 いつもの如く昨夜も早く寝た。ところが消防のサイレンの音で目が覚める。時刻を見ると午後10時半ごろだ。夜中に1度、トイレに行くとき目を覚ます。ところが昨夜は火事のサイレンで目が覚めた。今朝の地元紙を見ると住んでいる町で火事が発生。それもJR線路沿いの住宅地のようだ。真夜中の1時過ぎまでJRは止まったとか。今朝はJRの通る音が聞こえる。

 今朝はこれぞ秋、とも言えそうな清々しい朝を迎える。しかし、日中は暑くなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『王城の護衛者』(司馬遼太郎 講談社、2007年第1刷)から気になる箇所をメモした。

★正之は、家康の血統のなかではもっともすぐれた頭脳と政治能力をもっていた。藩政を独特な政治学をもって整え、藩士を教育し、好学と尚武の藩風をつくりあげ、ほとんど芸術的といっていいほどの藩組織を完成して、寛文十二年六十二で死んだ。この正之の遺訓、言行が、幕末までこの藩の藩是となった。その八世容敬(かたたか)に子がない。縁戚にあたる美濃高須の松平家から養子をもらいうけ、嗣子とした。これが九世松平容保(かたもり)である。(10-11p)

★容保にはつよい希望がある。(帝に拝謁したい)といことであった。「玉体を保護し奉る」ということのみを考えようとしていた。……(それ以外のことを考えまい)と思っていた。そのためには、天皇の玉容を知らねばならなかったし、できれば、その守護のために死のうとしている自分と藩士のために当の「至尊(しいそん)」からお言葉の一つも頂戴したかった。……が、その機会はすぐには来なかった。(44-45p)

★隊名は、会津藩側と浪士側とが相談して新選組とつけた。……この隊の成立は、京都守護職としての治安警察活動をひどく活溌にした。(町奉行所に頼らずに済む)と、容保は最初にその点で安堵したが、かれらの実力が予想以上であることが次第にわかってきて、時に危惧した。(72-73p)

★最後に、孝明帝はいった。「朕は会津をもっとも頼みにしている。一朝有事のときにはその力を借らんと欲するものである」容保は、突伏した。この若者は哭(な)きはじめた。この姿勢のまま、四半刻ばかり泣きつづけた。(この主上のためには)と、容保は思った。……容保はこのいわば英雄時代の最後の人物といっていい。……この辰韓がそれである。(帝は、自分をのみ頼りにするとおおせられた)このことほど、容保にとって巨大な事情はなかったであろう。この辰韓がなければ容保の一生はあるいはちがったものになっていたかもしれない。……容保は、孝明天皇自身がそのように指摘した「奸人」どもと戦わねばならなかった。(89-91p)

★長さ二十糎(センチ)ばかりの細い竹筒であった。この竹筒の両端にひもをつけ、首から胸に垂らし、その上から衣服をつけていた。……容保が死んだとき、遺臣がその竹筒の始末をどうすべきかを相談した。……かれらが父の通夜の夜、その竹筒をあけてみた。辰韓であった。……維新政府から逆賊として遇されたかれは、維新後それについてなんの抗弁もせず、ただこの二通の辰韓を肌身につけていることでひそやかに自分を慰め続けて余生を送った。……辰韓は山県の手には入らなかった。松平家では婉曲に拒絶し、その後銀行にあずけた。竹筒一個 書類二通 という品目で、今も松平容保の怨念は東京銀行の金庫にねむっている。(130-132p)

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