2023年9月11日月曜日

『加茂の水』

 『加茂の水』(司馬遼太郎 講談社、2007年第1刷 『王城の護衛者』に収録)を読んだ。その中に「玉松操のふしぎな作戦」がある。これは偽の錦旗を考案したなどのことである。しかし、「その最期がどうであったか、たれにもわからない。おそらく看取られることなく死んだのであろう」と司馬は書いている。悪だくみは一見成功したかに思えるが実際は如何に!?天罰が下るというように悪いことの結果は一時的に良くてもよいことにはならない!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★僧名を猶海といった。還俗して、はじめて山本毅軒、ついで玉松操とあらためている。……時勢は暗澹としている。が、玉松操は流浪している。無名のままに、である。(137-138p)

★大久保は、それ以上にこの老人のことを訊かなかった。岩倉も、玉松操、という詔勅の起草者であり、錦旗の考案者であり、倒幕と新政府構想の骨子を立案した陰の人物のことを、まだ大久保ら諸藩有志に言うには早いとおもっていた。いわば、老人はいまのところ宮廷内部の秘密事項のひとつといっていい。もっとも老人は長くは加茂川河畔の米屋の離れに居ることはできなかった。(178p)

★薩長はようやく官軍となり、翌五日、東寺の本営に錦旗がひるがえった。さらにこの錦旗を交戦中の幕軍にみせるため、この日、淀川の北岸まで進み、晴天の下でひるがえした。幕軍はそれを遠望し、遠望した瞬間から敗走を開始し、その敗走を見とどけた上で錦旗は東寺に還御している。玉松操のふしぎな作戦はみごとに奏功したのである。……明治五年二月十五日、病没した。加茂川畔で息を引き取ったというが、その最期がどうであったか、たれにもわからない。おそらく看取られることなく死んだのであろう。(186-188p)

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