家にいるのがもったいないようないいお天気だ。スケジュール表に予定をいれたり消したりした日だが、どこかへ出かけたくなる。そんな日は近場をうろつく!?
『街道をゆく』(三十四)「大徳寺散歩」 (司馬遼太郎 文藝春秋、一九九七年第三刷)を読んだ。気になる箇所をいくつかここにあげたが、大仙院と高桐院は又の機会に行きたいと思っている。せっかく三門である金毛閣を見たのに、それに気づいたときはその裏側だった。来た道を引き返して前方から見直せばいいものを横着して見なかった。そのため扁額も見ていない。大徳寺は広い境内に多くの塔頭が林立している。一度出かけたくらいではその大半を見ることは不可能だ。いつかまた是非とも大徳寺に出かけよう。
それにしてもお賽銭箱もなく、観光寺院でない大徳寺がどうやって広大な寺院を維持できるのだろうか、と変な考えをもった。先ほどそれを調べると全国の同じ宗派の系列からのおあがりがあるとか。観光寺でないため、観光地に見られるような観光客でにぎわうことがなく、落ち着いた雰囲気がある。これは自分の性格に合っているかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★大徳寺の特徴は、大燈国師(一二八二~一三三七)以来のきびしい禅風をまもるべく、できるだけ世塵から超越しているところにある。ただ、東山・桃山時代以来、俗権とのかかわりをもったのは、茶を通じてだった。村田珠光(一四二三~一五〇二)・千利休(一五二二~九一)以来、茶道の本山として知られてきたために、「大徳寺の茶づら」とよばれた。禅僧でありながらしきりに茶の話をする、というところからついたあだなだろうが、このことが大徳寺のえがたい個性をつくったようである。(19p)
★人間は、煩悩といういやらしいものをもっている。煩悩の種類は、百八もしくは八万四千もあるという。それが人間の心身をまどわせるのだが、さきにふれた解脱とは、自力でいっさいの煩悩を断ち切ることなのである。断ち切れば、貪らず、嗔(いか)らず、痴(こころくら)からず、という春のような佳境に入る。このことを自力の禅はめざしている。ところが、親鸞は、自力を用いずに、阿弥陀如来という他力が、人間を煩悩具足のまま(悪人の、まま)救ってくださる、それに委ねて、感謝しよう、というのである。(42p)
★大徳寺山内の二十余の塔頭は、ことごとく第一級の美術館といっていい。(46p)
★禅において”玄”ということが、重要とされる。……玄は、中国で加味された。中国に古くから存在した老荘思想が、仏教とくに禅に似ているところがあったから、中国僧たちは、老荘というシソ(紫蘇)の葉の上にダルマ禅を盛ったともいえる。シソの移り香が、玄である。(95p)
★大徳寺の三門(山門)はまことに雄大である。しかも、あかあかと丹塗りなのである。このこは、宗風の枯淡とはひどく印象がちがうために、ひとびとをとまどわせる。私などは、昭和二十年代にこの山内に入ったとき、戸惑い以上に、不透明な感慨をもった。さらには、その名も「金毛閣」なのである。黒地に白く”金毛閣”と大書された扁額がたかだかとかかげられている。金毛とは、金毛の獅子のことで、すぐれた禅僧のことをいう(『雲門録』上)。精神の王者と解してもいい。楼門の雄大さ、その色の華やかさ、さらにはその名前が大仰であるあたりは、およそ塔頭群にみられる瀟洒なわびの感じとは、美学的に不調和なおもいがする。ともかくも、中国の宮殿の正門のようなものを、豊臣時代に建ててしまったのである。(107-108p)
★大徳寺における大型建築は四つしかなく、三門である「金毛閣」と、その背後の仏殿、さらにその背後の法堂、もう一つ背後の本坊(方丈と庫裡)である。それらがみな南面し、南北一線にならんでいる。(117p)
★大徳寺のすがすがしさは、大寺によくある賽銭あつめの廟祠がないことである。……収入の面では清貧にも耐えている。さらにいえば、建物、庭園から右の松柏にいたるまで、省庁制に徹していることでもある。現世利益では象徴にならないのである。(121p)
★私どもは本坊を出て、石畳の上の自分の跫音(あしおと)を楽しみながら、散策した。仏殿と道をはさんで、西側に三玄院がある。沢庵が住したあの塔頭である。(122p)
★大仙院は、料金をとって、観光させる塔頭である。観光はともかく、私はこの塔頭がすきで、しばしばここにきた。枯山水の庭は部類なもので、せまい空間に大景観をとじこめて、しかも煩雑さを感じさせず、悠々とひろがっている。この塔頭は、室町末期の古岳宗亘(そうこう)(一四六五~一五四八)によってつくられた。庭に古岳の禅風をみることができる。また、潔癖の化身のようだった沢庵も、四十代の初期に、ここに住したこともある。(132p)
★(大仙院の)式台をあがると、何人かの俗人がいて、「三福茶はいかがですか」とすすめてくれる。壁に「覚悟」と書かれている。
今飲んで頂いた大仙院のお茶は三福茶といい太閤秀吉もこの茶を飲んでから良いことが三 回続いたと言います。覚悟してください
とあり、一服二百円という。売店には住持の似顔絵の首が、鉢巻きを締めている。ハチマキには「奮発心」と墨書されていた。この一角に衝立があり「喝」という一字が大書されていた。室町から江戸期までの臨済禅は、おどろくほどのなまの中国語(浙江方言が多かった)を問答につかった。(141p)
★大燈以後、大徳寺での僧は、ほとんど名に”宗”がつく。室町時代の一休は宗純(そうじゅん)であり、江戸初期の沢庵は宗彭(そうほう)である。居士ながら、大徳寺に三十年参禅したした茶の利休は宗易(そうえき)であり、千家はいまも宗がつく。宗という字の音は、正しくは「ソウ」で、「シュウ」というのはいつのほどかまちがってしまった慣用音なのである。シュウは、宗門(しゅうもん)、宗派(しゅうは)、宗教、みな慣用音である。大徳寺歴世はみな正音のソウだが、大燈だけが慣用音で宗峰(しゅうほう)とよむ。師の高峰がよんだとおりに大燈が慣用音に従ったかと思えるが、大燈のゆかしさが感じられる。(149p)
★塔頭の高桐院にいる。織豊期を代表する趣味人で、かつ武将としても余人に劣らなかった細川幽斎(藤孝)とその子三斎(忠興)の世界が感じられるといっていい。(157p)
★禅のむずかしさは、悟ろうが悟るまいが、人間はすべて死ぬことに決まっていることにある。人生は行雲流水である。とわざわざいわなくても、王侯の生涯も行骨の生涯も、雲のようにさだめがたい。であるのにわざわざ、「雲水」という姿に身をやつして漂泊を演ずる必要もないのだが、山頭火はことさらそれを演じたのである。(174p)
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