竹林を歩く |
★大徳寺のすがすがしさは、大寺によくある賽銭あつめの廟祠がないことである。……収入の面では清貧にも耐えている。さらにいえば、建物、庭園から右の松柏にいたるまで、省庁制に徹していることでもある。現世利益では象徴にならないのである。 (『街道をゆく』(三十四)「大徳寺散歩」司馬 遼太郎 文藝春秋、一九九七年第三刷 121p)
そのため、観光寺にあるように人が集中することもないようだ。出かけた当日も観光客であふれかえる状況はなく、落ち着いた雰囲気で観光できる。大徳寺境内は想像さえしていないような広さだ。観光寺でないため、境内にはパンフもない。さてどこから行けば、となった。観光中の若者に聞くと境内の標識板だけが頼りのようだ。これを写真に収めるが木漏れ日の中、うまく写せない。
そこで司馬が「大徳寺散歩」で歩いた箇所をあらかじめメモしていたのでそれに沿って歩く。30数年前に書かれた「大徳寺散歩」の特別拝観寺院は趣を変えていた。「高桐院」付近で一人旅の人が本を手にして歩いている。話を聞くと今、高桐院は公開されてないとか。出かけた日は総見院他2寺が特別拝観中という。総見院で3寺の拝観を、と言われたけど広い境内の1か所のお寺を探すのも大変なのに3か所は無理と思って総見院だけ拝観した。チケット売り場を振り向くと後ろに背広姿のサラリーマンらしき人がいる。出張中の観光だろうか。
総見院は信長に関連するお寺で墓地もある。特別展を見た後、外に出て観光中の人に真珠庵を問うとお墓参りに来たという地元の人がそこまで案内してくれるとのこと。結果、この人が旅の道ずれとなってくれてそこまで連れて行ってくれた。わかりにくい場所にあり、塔頭の中へは入れなかった。
道ずれの人は一人で観光する私を見て驚いたようだ。これくらいで驚かれるのも変、と思った。が、若い頃の自分を振り返ると何もできなかったというかしなかった自分がいた。そう思うと年老いて図々しさも加わって自分で何もかもやろうとしたことが今につながっていると思ったりした。できないよりは、というか何もしないよりは何でもやりたいことをやるほうが同じ生きるなら楽しいはず。そう思う。その思いは年々強くなる。先がない!?と言われればそうかもしれないが……。
道ずれとお昼を食べる場所まで行ってそこで別れる。お腹が空いてお昼を、と思って入ったお店は道ずれによると不愛想なお店とか。入ると外で待つようにと言われる。待つふりをして出てその場を去る。他のお店を探すが適当なお店がない。仕方なく京都駅行のバスに乗って京都駅まで戻り、地下街に入って食べた。
この日の宿は渡月橋前にある花のいえ。バス停留所は角倉町で下車すると目の前にある。運転手さんに角倉(かどくら)と告げると「すみのくら」だった。そう聞いて角倉了以のことを思いだす。司馬は「嵯峨散歩」に次のように書いている。
★角倉家と嵯峨の天竜寺との縁はふかい。天竜寺の僧たちのかかりつけ医者だったという時代もある。天竜寺はいうまでもなく臨済禅の京都五山の一つだが、寺ながらも別に対民貿易商という一面をもっていた。すでに元の時代から室町幕府によって官許されていた貿易商で、世に「天竜寺船」とよばれた。了以の父の宗桂は遣明天竜寺船に乗って入明したことがある。天竜寺船はいわば一航海きりの会社のようなものだから、角倉一族は当然、資本も出し、利潤の分配にもあずかったであろうが、宗桂自身はかの地で明の医方を学んだ。 (『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」 司馬遼太郎 朝日新聞社、1999年第4刷 56-57p)
宿に着いた。さあ、ここで大変。というのもせっかく受けてきたPCR 検査のスマホのSMS画面が出ないのである。どうしよう、と慌てているとIDカードを貰ったことに気づく。しかし、IDカードのQRコードを読み取る知識がその時なかった。フロントもわからないという。別の係の人がスマホに長けていてダウンロードしてくれた。記載内容が読み取れてPCR検査の陰性を確認できた。
この続きは又の日に。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
お疲れさまでしたね~いろいろと気をつかう町ですね。写真も楽しみにしていますね。
返信削除舛井先生
削除コメントありがとうございます。年老いての一人旅は大変でしたが、行く先々で人の親切に触れて一人旅もいいものだと改めて思いました。